五月の水仙は枯れない

 裕太は、鳥居を見上げたまま言った。

「名前、呼んで」

 それだけだった。

 私は、少し考えた。何か特別な言い方があるような気がして、言葉を探した。

 探して、やめた。

「裕太」

 いつも通りに呼んだ。

 裕太は、目を閉じた。

 朝の空気を、ゆっくり吸い込んで、吐いた。それから目を開けて、私を見た。

「六回、ずっと、お前のこと好きだった」

「知ってる」

 裕太が、笑った。

 首の後ろに手をやって、眉を下げて、照れくさそうに。

 卒業式の日、校門の前で何枚も撮り直したときの、変な顔じゃなかった。最後の一枚みたいな、ちゃんとした笑い方だった。

 

 境内には、誰もいなかった。

 砂利を踏む音だけが、二人分、響いた。

 本殿の脇を通り過ぎて、絵馬掛けの前に立った。

 春の間に奉納された、新しい絵馬が何百枚も重なっている。合格祈願。家内安全。恋愛成就。色とりどりの文字が、朝の光の中で白っぽく見えた。

 裕太は迷わず手を伸ばして、手前に重なった何枚かを、そっと脇に寄せた。

 その奥に一枚だけ、何年も雨風に晒されたような古い絵馬が掛かっていた。

 墨が薄れて、木が灰色に褪せて、それでも読める。

 渚沙とずっと一緒にいたい

 裕太の字だった。

 裕太は、その前に立った。

 右手を上げて、絵馬の端に指をかけた。

 私は、一歩下がったところにいた。これは、私が外していいものじゃない。高三の夏に、それはもう知っていた。

 でも、手は伸ばした。

 裕太の背中に、手のひらを当てた。

 シャツ越しに、心臓の音が伝わってきた。速かった。

 五回、この人はここに立った。五回とも、外せずに帰った。

 六回目。

 裕太が、指に力を込めた。

 紐が、緩んだ。

 拍子抜けするほど、あっけなかった。何年もそこにあったような絵馬は、まるでずっとそうされるのを待っていたみたいに、するりと裕太の手の中に落ちた。

 風が吹いた。

 新しい絵馬たちが、からからと乾いた音を立てた。

 それだけだった。

 空は割れなかったし、光も差さなかった。時間は巻き戻らなかった。朝の境内は、朝の境内のままだった。

 裕太は、絵馬を持ったまま、動かなかった。

 背中に当てた手のひらの下で、心臓の音が、少しずつゆっくりになっていくのがわかった。

「……裕太」

 呼ぶと、裕太が振り返った。

 瞬きをして、私を見て、それから自分の手の中の絵馬を見た。

「……あれ。これ」

 眉を寄せて、ひっくり返したり、戻したりする。

「高三の夏に、渚沙が見せてきたやつじゃん。俺が書いたとか言って」

 書かれた文字をもう一度読んで、裕太の顔が、みるみる赤くなった。

「まだ掛かってたの、これ。……いや、やっぱ俺の字に似てんだよな。こわ」

 私は、答えられなかった。

「え、ていうか、なんで俺ら朝っぱらから神社いんの。……渚沙?」

 

 本殿の脇で、黄色い花が枯れていた。

 

 涙が出た。

 どこから来たのかわからないくらい、次から次へと溢れてきた。息がうまくできなくて、しゃくり上げて、それでも止まらなかった。

 あの日、雨の中で、どうしても出てこなかったものだった。

「ちょ、え、なに、どうした」

 裕太が、慌てて絵馬を脇に挟んで、私の肩を掴んだ。

「俺なんかした? え、これ? これそんなに引いた?」

 違う、と言いたかった。言えなかった。首を横に振ることしかできなかった。

 裕太は、困り果てた顔で、しばらく私の周りをうろうろしていた。それから、諦めたように、私を抱き寄せた。

 ぎこちない腕だった。

 どこに手を置けばいいのか迷っているような、何もわかっていない腕だった。

 この人は、何も知らない。

 六回のことも、三人の私のことも、昨日の夜のことも。

 さっきまでここにいた人は、もういない。

 鳥居の前で、名前を呼んでほしいと言った人は。

 私は、その人のために泣いていた。

「……なんかさ」

 私の頭の上で、裕太がぼそりと言った。

「ここ何週間か、ずっと、変な夢見てた気がすんだよな」

 私は、泣きながら笑った。

 声を出して笑って、それでもまだ泣いていた。

 

 神様が何を考えていたのかは、わからない。

 なぜ私の問いに、答えじゃなく、繰り返しを見せたのか。なぜ裕太の願いを、あんな形で叶えたのか。

 たぶん、この先もわからない。

 わからないままでいい、と思った。

 私が知りたかったのは、神様の考えじゃなかった。

 

 古い絵馬は、二人でお焚き上げの箱に納めた。

 裕太は最後まで「これ、ほんとに俺?」と首を傾げていた。

 鳥居をくぐって、車道側を歩く裕太の横に並んで、私は家に帰った。

 その夜は、久しぶりに、よく眠れた。

 目を覚ますと、カーテンの隙間から、大学二年の、五月二十七日の朝が差し込んでいた。