五月の水仙は枯れない

 否定しようと思えば、できた。

 そんなつもりじゃない、と言えばよかった。あなたは消えない、記憶がなくなるだけ、と。

 でも、それは嘘だった。

 この人に、もう嘘はつかせたくなかった。だから、私もつかない。

「……うん」

 私は、裕太の目を見たまま言った。

「そうだよ。私、あなたに、消えてって言ってる」

 裕太の顔が、歪んだ。

 泣きそうなのか、笑いそうなのか、自分でもわかっていない顔だった。

「……ひでえな」

「うん。ひどいと思う」

「お前、ほんと……」

 言いかけて、裕太は片手で顔を覆った。

 私は、その手首に触れた。振り払われなかった。

「でもね、裕太。このまま私が取られたら、どうなるの」

 指の隙間から、答えは返ってこなかった。

「また、高三の四月に戻るんでしょう。あなたはまた一人で、私が死ぬのを見て、次の周に行く。私はまた死んで、また四月の教室で目を覚ます。全部、覚えたまま。何度でも」

「……それでいい」

「よくない」

「俺は、それでいいんだよ」

「私が、よくない」

 自分の声が、思ったより大きく響いた。

 十日ほど前、私はこの人を責めた。どうして一人で抱えたの。どうして私に選ばせてくれなかったの。そのときの熱が、まだ喉の奥に少し残っていた。

 でも、今言いたいのは、あのときとは違うことだった。

「あなたが一人で抱えてきたもの、今度は私が持つ。……それだけのことだよ」

 裕太は、手を顔から下ろした。

 目の縁が、赤くなっていた。

「……渚沙」

「うん」

「俺さ」

 裕太は、床に置いたマグカップを見ていた。もう湯気は立っていなかった。

「ずっと、わかんなかったんだ」

「何が」

「お前のこと好きなのが、俺なのか、あの願いなのか」

 冷蔵庫の音が、止まった。

 部屋が、急に静かになった。

「六回もやってたらさ、わかんなくなるんだよ。好きだから戻ってんのか、戻ってるから好きなのか。……願いが、俺にそう思わせてるだけなんじゃないかって」

 それは、私がずっと神社で問い続けてきたことと、同じ形をしていた。

 裕太は、本当に私のことが好きだったのか。

 この人も、同じことを、自分に問い続けていたのだ。六回分。

 私は、少しだけ笑った。笑うつもりはなかったのに、口元が勝手に緩んだ。

「……なんで笑うんだよ」

「ううん。……それなら、私、答えを持ってる」

 裕太が、私を見た。

「何も覚えてないあなたが、何度でも私を好きになったんだよ。私、三回全部見てきたから」

 

 最初は、席替えの日だった。

 私が「……うん」としか言えなくて、あなたは「今の間、なに」って笑った。それから、私がしゃべるのを、いつも待っててくれた。急かさないで、話を変えないで、パンを齧りながら窓の外を見て。待ってると、ちゃんと来るじゃん、って。そんなこと言われたの、初めてだった。

 二度目は、六月の、文化祭の準備の日。

 私が看板のペンキをひっくり返して、床が真っ青になって。あなたは何も言わずに、自分のジャージで拭いてた。それ体育で使うやつでしょ、って言ったら、青いほうがかっこいいじゃん、って。次の日、本当に青いジャージで体育に出て、先生に怒られてた。

 三度目は、今回。

 四月の終わりの、雨の日。昇降口で傘がなくて立ってたら、あなたが隣に来て、半分入れてくれた。駅に着いたら、あなたの左肩だけびしょ濡れだった。気づいてないふりしてたけど、私、見てたよ。

「三回とも、あなたは何も覚えてなかった」

 私は言った。

「六回のことも、三人の私のことも。あの絵馬のことも」

 裕太の喉が、小さく動いた。

「それにね。あの絵馬を一番最初に書いたあなたは、何も知らなかったでしょう。願いなんて、まだどこにもなかった。ただ私のことが好きで、ずっと一緒にいたいって、それだけ書いたんでしょう」

 裕太は、答えなかった。

 答えなくても、わかっていた。それは、この人がいちばんよく知っていることだった。

「願いが、あなたに私を好きにさせたんじゃないよ。あなたが私を好きだったから、あの願いがあるんだよ」

 

 裕太は、何も言わなかった。

 言わないまま、私の肩に額を押しつけた。

 重かった。

 呼吸が、途切れ途切れに肩に当たる。シャツの布越しに、熱いものが染みてくる。声は出していなかった。肩だけが、小さく震えていた。

 私は、その背中に手を回した。

 六回分の重さだった。

 どれくらいそうしていたのかは、わからない。カーテンの隙間の光が、少しだけ角度を変えていた。

「返してきて」

 裕太の髪に頬を寄せて、私は言った。

「今度は、私が覚えてる」

 裕太の肩が、一度だけ、大きく揺れた。

「……それ」

 くぐもった声だった。

「うん」

 私は、その髪を撫でた。

「高三の文化祭で、訊かれたやつ」

 俺がいなくなったらどうする。

 あのとき、私は答えられなかった。答えが来るまで待ってる、と言った人は、答えを聞かないまま、いなくなった。

 何年もかかって、やっと来た。

 

 その夜、裕太は眠らなかった。

 私も、眠らなかった。

 裕太は、三人の私の話をした。六回分の話をしてくれた夜とは違う、もっと小さな話を。

 一人目の私は、唐揚げにレモンを勝手にかけられて本気で怒った。二人目の私は、裕太の部屋の本棚を勝手に並べ替えて、作者順じゃなくて背表紙の色順にした。三人目の私は、大学の近くの古い喫茶店のプリンが好きで、毎週水曜日に通っていた。

「それ、今の私も好き」

「知ってる」

「……そっか。知ってるよね」

「うん」

 裕太は、天井を見ながら話し続けた。思い出せることを、全部。ひとつも落とさないように。

 私は、ひとつも落とさないように聞いた。

 話が途切れたとき、裕太は、枕元のスマホを取って、何かを打っていた。画面の光が、顎の下を青く照らしていた。

 何を打っているのかは、訊かなかった。

 空が白み始めたころ、裕太が起き上がった。

「行くか」

 私は頷いた。

 

 まだ誰も歩いていない道を、二人で歩いた。

 裕太は車道側を歩いた。いつもそうだった。この三週間近くだけじゃなく、たぶん、ずっと前から。

 神社の鳥居が見えてきたところで、裕太が足を止めた。

「……渚沙」

「うん」

「最後に、ひとつだけいい?」