横断歩道の白線を、半分まで渡ったときだった。
腕を掴まれて、後ろに引き戻された。
目の前を、自転車が掠めていった。ブレーキの音はしなかった。イヤホンをした男の人が、振り返りもせずに角を曲がっていった。
信号は、青だった。
「……大丈夫か」
裕太の指が、私の二の腕に食い込んでいた。痛いくらいだった。
「うん」
「うん、じゃなくて」
「大丈夫。当たってない」
それでも裕太は、手を離さなかった。私の腕を掴んだまま、自転車が消えた角をじっと見ていた。
五月七日を過ぎて、十八日。
これで、四度目だった。
最初は、五月七日の、横断歩道の白い車だった。次は、駅の階段。その次は、工事中のビルの横を歩いていたとき、頭の上で何かが外れる音がした。どれも裕太がそばにいて、どれも、何も起きなかった。
何も起きなかった、というだけだ。
間隔が、少しずつ短くなっている。
裕太のアパートに着くと、裕太は鍵を閉めて、チェーンを掛けて、それからもう一度鍵を確かめた。
この三週間近くで、何度も見た動きだった。
私は台所でお湯を沸かした。マグカップを二つ出して、ティーバッグを落とす。そういう、手が覚えていることをしている間だけ、少しだけ息ができた。
部屋に戻ると、裕太はベッドにもたれて床に座っていた。膝を立てて、その上に腕を載せて、何もない壁を見ていた。
マグカップを差し出すと、受け取った。受け取っただけで、口はつけなかった。
私も隣に座った。
肩が触れるか触れないか、くらいの距離。
冷蔵庫が低く唸る音と、遠くを走る車の音。カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいた。
あの夜から、ずっと考えていた。
裕太が、六回分の話をしてくれた夜から。
泣けないまま帰った夜も。亜美の隣に座っていた午後も。おばさんに「裕太をよろしくね」と言われた帰り道も。
ずっと、同じことを考えていた。
この人は、どうして外せないんだろう。
何度も絵馬の前まで行って、手をかけて、それでも外せなかった。願いを返せば、取り立ては消える。私は死なない。この人も死なない。それがわかっていて、それでも。
答えは、たぶん、もう出ていた。
出ていたのに、言葉になるまでに時間がかかった。いつものことだ。
「裕太」
「……ん」
「あなたが外せないのは、自分が消えるのが怖いからじゃないよね」
マグカップを持つ裕太の指が、少しだけ動いた。
返事はなかった。
私は、自分のカップに目を落としたまま、続けた。
「……あの三人が、いなくなるのが怖いんだよね」
隣で、息を呑む音がした。
一人目の私。
何も知らないまま、事故で死んだ。
二人目の私。
「今日の裕太、なんか過保護」
そう言って笑った、三週間後に、死んだ。
三人目の私。
「ちょっとだけ、時間ちょうだい」
そう言って、時間を、もらえなかった。
高三の夏のこの人が、あの紐を外せなかったのは、花火の下で好きだと言ったばかりだったからだ。
今のこの人が外せないのは、この三人を、手放せないからだ。
心より手放すとき、と、立て札は言っていた。
「その三人のこと、私は覚えてない」
声が震えないように、ゆっくり言った。
「でも、あなたが話してくれたから、知ってる」
「……知ってるのと、覚えてるのは違う」
裕太の声は、かすれていた。
「うん。違う」
私は頷いた。
違う。わかっている。私は、その三人がどんな声で笑ったのかを知らない。どんなふうに裕太を見ていたのかも、最後に何を思っていたのかも。
知っているのは、裕太の言葉を通して見た、その人たちの形だけだ。
それでも。
「でも、あなたが忘れたら、知ってる人もいなくなる」
裕太が、ようやくこちらを向いた。
私も、顔を上げた。
「私が覚えてる。あなたが忘れても、三人とも私が覚えてる」
長い沈黙だった。
裕太は、私の顔を見ていた。瞬きを、忘れたような目だった。
高三の四月、現代文の授業で、同じ目を見たことがある。
あのときのこの人は、何も覚えていなかった。
「……お前、それがどういうことか、わかってんのか」
「わかってる」
「わかってない」
裕太は、マグカップを床に置いた。中身がこぼれそうに揺れた。
「誰にも言えないんだぞ。一生。親にも、小野寺にも。……俺にも」
「うん」
「俺が外したら、俺は全部忘れる。三人のことも、四人目のお前のことも、六回分の、俺のことも」
そこで、声が途切れた。
息を吸う音がした。吐く音は、しなかった。
「じゃあ、今ここにいる俺は?」
その問いの意味が、少し遅れて、私の中に落ちてきた。
六回、戻ってきた人。
三人の私を、一人で抱えてきた人。
私を何度も助けて、そのたびに死んできた人。
その人が、絵馬を外した瞬間に、いなくなる。
同じ顔をして、同じ声をして、同じように私を好きでいてくれる裕太は、きっと残る。でも、この人は残らない。
私は、この人に、死んでくれと言っているのだ。
腕を掴まれて、後ろに引き戻された。
目の前を、自転車が掠めていった。ブレーキの音はしなかった。イヤホンをした男の人が、振り返りもせずに角を曲がっていった。
信号は、青だった。
「……大丈夫か」
裕太の指が、私の二の腕に食い込んでいた。痛いくらいだった。
「うん」
「うん、じゃなくて」
「大丈夫。当たってない」
それでも裕太は、手を離さなかった。私の腕を掴んだまま、自転車が消えた角をじっと見ていた。
五月七日を過ぎて、十八日。
これで、四度目だった。
最初は、五月七日の、横断歩道の白い車だった。次は、駅の階段。その次は、工事中のビルの横を歩いていたとき、頭の上で何かが外れる音がした。どれも裕太がそばにいて、どれも、何も起きなかった。
何も起きなかった、というだけだ。
間隔が、少しずつ短くなっている。
裕太のアパートに着くと、裕太は鍵を閉めて、チェーンを掛けて、それからもう一度鍵を確かめた。
この三週間近くで、何度も見た動きだった。
私は台所でお湯を沸かした。マグカップを二つ出して、ティーバッグを落とす。そういう、手が覚えていることをしている間だけ、少しだけ息ができた。
部屋に戻ると、裕太はベッドにもたれて床に座っていた。膝を立てて、その上に腕を載せて、何もない壁を見ていた。
マグカップを差し出すと、受け取った。受け取っただけで、口はつけなかった。
私も隣に座った。
肩が触れるか触れないか、くらいの距離。
冷蔵庫が低く唸る音と、遠くを走る車の音。カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいた。
あの夜から、ずっと考えていた。
裕太が、六回分の話をしてくれた夜から。
泣けないまま帰った夜も。亜美の隣に座っていた午後も。おばさんに「裕太をよろしくね」と言われた帰り道も。
ずっと、同じことを考えていた。
この人は、どうして外せないんだろう。
何度も絵馬の前まで行って、手をかけて、それでも外せなかった。願いを返せば、取り立ては消える。私は死なない。この人も死なない。それがわかっていて、それでも。
答えは、たぶん、もう出ていた。
出ていたのに、言葉になるまでに時間がかかった。いつものことだ。
「裕太」
「……ん」
「あなたが外せないのは、自分が消えるのが怖いからじゃないよね」
マグカップを持つ裕太の指が、少しだけ動いた。
返事はなかった。
私は、自分のカップに目を落としたまま、続けた。
「……あの三人が、いなくなるのが怖いんだよね」
隣で、息を呑む音がした。
一人目の私。
何も知らないまま、事故で死んだ。
二人目の私。
「今日の裕太、なんか過保護」
そう言って笑った、三週間後に、死んだ。
三人目の私。
「ちょっとだけ、時間ちょうだい」
そう言って、時間を、もらえなかった。
高三の夏のこの人が、あの紐を外せなかったのは、花火の下で好きだと言ったばかりだったからだ。
今のこの人が外せないのは、この三人を、手放せないからだ。
心より手放すとき、と、立て札は言っていた。
「その三人のこと、私は覚えてない」
声が震えないように、ゆっくり言った。
「でも、あなたが話してくれたから、知ってる」
「……知ってるのと、覚えてるのは違う」
裕太の声は、かすれていた。
「うん。違う」
私は頷いた。
違う。わかっている。私は、その三人がどんな声で笑ったのかを知らない。どんなふうに裕太を見ていたのかも、最後に何を思っていたのかも。
知っているのは、裕太の言葉を通して見た、その人たちの形だけだ。
それでも。
「でも、あなたが忘れたら、知ってる人もいなくなる」
裕太が、ようやくこちらを向いた。
私も、顔を上げた。
「私が覚えてる。あなたが忘れても、三人とも私が覚えてる」
長い沈黙だった。
裕太は、私の顔を見ていた。瞬きを、忘れたような目だった。
高三の四月、現代文の授業で、同じ目を見たことがある。
あのときのこの人は、何も覚えていなかった。
「……お前、それがどういうことか、わかってんのか」
「わかってる」
「わかってない」
裕太は、マグカップを床に置いた。中身がこぼれそうに揺れた。
「誰にも言えないんだぞ。一生。親にも、小野寺にも。……俺にも」
「うん」
「俺が外したら、俺は全部忘れる。三人のことも、四人目のお前のことも、六回分の、俺のことも」
そこで、声が途切れた。
息を吸う音がした。吐く音は、しなかった。
「じゃあ、今ここにいる俺は?」
その問いの意味が、少し遅れて、私の中に落ちてきた。
六回、戻ってきた人。
三人の私を、一人で抱えてきた人。
私を何度も助けて、そのたびに死んできた人。
その人が、絵馬を外した瞬間に、いなくなる。
同じ顔をして、同じ声をして、同じように私を好きでいてくれる裕太は、きっと残る。でも、この人は残らない。
私は、この人に、死んでくれと言っているのだ。
