それから三日、私はうまく今里くんの顔を見られなかった。
避けていたわけではない。
朝は「おはよう」と言った。授業中に消しゴムを貸してと言われれば、貸した。
ただ、いつもより、少しだけ遅れた。
いつも遅れる私が、いつもより遅れる。その差に気づく人は、たぶん、いない。
一人を除いて。
「渚沙、今日、昼どうする?」
「……亜美と、食べる」
「そっか」
今里くんは、それ以上は訊かなかった。
その日の昼休み、私は亜美と中庭のベンチに座っていた。教室の窓際の、四つの机がくっつく場所には行かなかった。
「ねえ、あれさ」
亜美が、パックのジュースのストローを噛みながら言った。
「早瀬さんでしょ。一組の」
「……うん」
「たぶん、渚沙が思ってるのと違うと思うけどな」
「……何が」
「わかんないけど。あたしの勘」
亜美は、それ以上は言わなかった。
私も、訊かなかった。
訊いて、違わなかったら。
そう思うと、口が開かなかった。
放課後の準備でも、私は教室の隅でメニューボードに向かっていた。
ホットコーヒー 百五十円
今里くんが買い出しから戻ってくる気配がすると、手元に目を落とした。
今里くんは、何度か私のそばまで来た。
来て、何か言いかけて、やめて、また別の班のところへ行った。
三日目の夕方、準備の最後の日に、私が書き終えたメニューボードを窓際に立てかけていると、背中から声がした。
「渚沙」
振り向けなかった。
「……それ、すげーいいじゃん」
「……ありがとう」
それだけ言って、私は新聞紙を畳み始めた。
今里くんは、そこに立っていた。視界の端に、上履きのつま先が見えていた。
足音が、遠ざかっていった。
新聞紙を畳む手が、途中で止まった。
ずるい、と思った。
何も訊かれないのは、楽だった。でも、訊かれないまま、あの人が遠ざかっていく足音を聞くのは、楽ではなかった。
文化祭の当日は、よく晴れた。
三年二組の喫茶店は、思っていたよりずっと混んだ。私は接客の当番を午前中に終えて、午後はメニューボードの字が雨で流れないか見張る係、という名目で、教室の外の廊下にいた。
雨は降りそうになかった。
廊下の窓から、中庭が見える。模擬店の煙と、呼び込みの声と、どこかのクラスが流している音楽。
人が多すぎて、どこにも居場所がないような気がした。
私は、廊下の突き当たりの、屋上へ続く階段に座った。
屋上の扉は閉まっていて、ここまで来る人はいない。扉の前には、脚の曲がった譜面台が一本、埃をかぶって立てかけてあった。上のほうの段は薄暗くて、下からの喧騒が遠く聞こえる。
膝を抱えて、目を閉じた。
足音がした。
階段を上ってくる、少し急いだ足音。
「……やっと見つけた」
今里くんだった。
息が、少し上がっていた。クラスTシャツの首元が汗で色を変えていて、手には紙コップを二つ持っていた。
「メニューボード見張り、ここからじゃ見えないよ」
「……」
「はい」
紙コップを一つ、差し出された。
うちのクラスのアイスコーヒーだった。百五十円。
私が受け取ると、今里くんは、一段下に座った。
私と、同じくらいの目の高さになった。
どちらも、口を開かなかった。
下のほうで、誰かの笑い声が弾けて、消えた。
今里くんが、紙コップを両手で持って、中の氷を見ていた。
「……俺、なんかした?」
小さな声だった。
私は、首を振った。
「じゃあ、なんか、あった?」
私は、答えなかった。
答えなかったのではなく、答えられなかった。何を言えばいいのか、言葉の形にならなかった。早瀬さん、と言えばいいだけなのに。その名前を口にしたら、何かが本当になってしまう気がした。
言ったら、本当になっちゃうから。
四月の現代文の授業で、自分でそう言ったことを思い出した。
今里くんは、紙コップを階段に置いた。
それから、膝の上で指を組んだ。
組んで、前を向いて、何も言わなかった。
待っていた。
いつもの、待ち方だった。
組んだ指も、前を向いた顔も、動かない。私の言葉が来るまで、ずっとそこにいる。
この三日間、私は、この人のその待ち方に甘えていたのだと思った。
遅れれば、待ってもらえる。黙っていれば、訊かずにいてもらえる。
でも、この人は、待っている間、ずっと一人だった。
何をしたのかもわからないまま。
「……早瀬さん」
やっと、その名前が出た。
今里くんが、こちらを向いた。
「階段のとこで。手紙、もらってた」
言ってしまった。
私は、紙コップを握りしめた。中の氷が、からんと鳴った。
今里くんは、しばらく、ぽかんとした顔で私を見ていた。
それから、ゆっくりと、何かに気づいたような顔になった。
「……見てたの」
「……ごめん」
「いや、謝んなくていいけど」
今里くんは、両手で顔をこすった。
「あれ、俺宛てじゃないよ」
「……え」
「朔宛て」
早瀬さんは、萩原くんと同じバスケ部のマネージャーなのだという。
一年のときから、ずっと萩原くんのことが好きで。最後の文化祭で、どうしても手紙を渡したくて。でも本人の前に行くと何も言えなくなるから、今里くんに渡してくれと頼みに来た。
「断ったんだよ、最初」
今里くんは、階段の手すりに頭をもたせかけた。
「そういうのは自分で渡したほうがいいって。そしたら、じゃあ当日、朔を呼び出してくれって。手紙は当日の朝まで預かっててくれって。……自分で持ってたら、怖くて捨てちゃいそうだからって」
「……それで、受け取ったの」
「うん。で、今朝、返した。今、朔、中庭に呼び出してある」
今里くんは、階段の下のほうを顎で示した。
「当日絶対いてねって、呼び出す係としてって意味」
私は、紙コップを持ったまま、動けなかった。
顔が、熱くなっていくのがわかった。
三日間。
三日間、私は何をしていたんだろう。
「……ごめん」
「だから謝んなくていいって」
今里くんは、笑った。
それから、笑ったまま、目を逸らした。
「……気にしてくれたんだ」
私は、答えなかった。
答えなくても、たぶん、顔に全部出ていた。
今里くんは、階段の手すりを指でなぞりながら、しばらくこちらを見なかった。
階段を下りて、廊下の窓から中庭を見下ろした。
植え込みのそばに、萩原くんが立っていた。いつもの声の大きさはどこにもなく、直立不動で、耳まで真っ赤にして。
その前で、早瀬さんが、水色の封筒を両手で差し出していた。
「うわ、朔、固まってる」
今里くんが、窓に額をくっつけて笑った。
私も、少しだけ笑った。
萩原くんが、封筒を受け取った。
早瀬さんが、走って逃げていった。
萩原くんは、封筒を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「……あいつ、たぶん今日、使い物になんないな」
「うん」
窓の外で、どこかのクラスの音楽が変わった。後夜祭の準備が始まっているらしかった。
今里くんが、窓から額を離した。
「なあ、渚沙」
「うん」
「この三日間さ、ずっと考えてたんだけど」
今里くんは、窓の外を見たまま言った。
「渚沙って、俺がいなくなったらどうする?」
私は、今里くんの横顔を見た。
冗談を言うときの顔ではなかった。かといって、真剣すぎる顔でもなかった。ただ、なんとなく、ずっと考えていたことを、なんとなく口にしてみた、というような。
私は、答えを探した。
どうする。
どうするんだろう。
この三日間のことを思い出した。目を合わせないようにしていた三日間。それだけで、胸の奥がずっと冷たかった。
いなくなったら。
言葉が、来なかった。
来ないまま、窓の外で、後夜祭の始まりを告げる放送が鳴った。
「——いいよ」
今里くんが、私のほうを向いて、笑った。
「答え来るまで、待ってる」
そう言って、廊下を歩き出した。
「行こ。朔、回収しないと」
私は、その背中を追いかけた。
答えは、まだ来ていなかった。
避けていたわけではない。
朝は「おはよう」と言った。授業中に消しゴムを貸してと言われれば、貸した。
ただ、いつもより、少しだけ遅れた。
いつも遅れる私が、いつもより遅れる。その差に気づく人は、たぶん、いない。
一人を除いて。
「渚沙、今日、昼どうする?」
「……亜美と、食べる」
「そっか」
今里くんは、それ以上は訊かなかった。
その日の昼休み、私は亜美と中庭のベンチに座っていた。教室の窓際の、四つの机がくっつく場所には行かなかった。
「ねえ、あれさ」
亜美が、パックのジュースのストローを噛みながら言った。
「早瀬さんでしょ。一組の」
「……うん」
「たぶん、渚沙が思ってるのと違うと思うけどな」
「……何が」
「わかんないけど。あたしの勘」
亜美は、それ以上は言わなかった。
私も、訊かなかった。
訊いて、違わなかったら。
そう思うと、口が開かなかった。
放課後の準備でも、私は教室の隅でメニューボードに向かっていた。
ホットコーヒー 百五十円
今里くんが買い出しから戻ってくる気配がすると、手元に目を落とした。
今里くんは、何度か私のそばまで来た。
来て、何か言いかけて、やめて、また別の班のところへ行った。
三日目の夕方、準備の最後の日に、私が書き終えたメニューボードを窓際に立てかけていると、背中から声がした。
「渚沙」
振り向けなかった。
「……それ、すげーいいじゃん」
「……ありがとう」
それだけ言って、私は新聞紙を畳み始めた。
今里くんは、そこに立っていた。視界の端に、上履きのつま先が見えていた。
足音が、遠ざかっていった。
新聞紙を畳む手が、途中で止まった。
ずるい、と思った。
何も訊かれないのは、楽だった。でも、訊かれないまま、あの人が遠ざかっていく足音を聞くのは、楽ではなかった。
文化祭の当日は、よく晴れた。
三年二組の喫茶店は、思っていたよりずっと混んだ。私は接客の当番を午前中に終えて、午後はメニューボードの字が雨で流れないか見張る係、という名目で、教室の外の廊下にいた。
雨は降りそうになかった。
廊下の窓から、中庭が見える。模擬店の煙と、呼び込みの声と、どこかのクラスが流している音楽。
人が多すぎて、どこにも居場所がないような気がした。
私は、廊下の突き当たりの、屋上へ続く階段に座った。
屋上の扉は閉まっていて、ここまで来る人はいない。扉の前には、脚の曲がった譜面台が一本、埃をかぶって立てかけてあった。上のほうの段は薄暗くて、下からの喧騒が遠く聞こえる。
膝を抱えて、目を閉じた。
足音がした。
階段を上ってくる、少し急いだ足音。
「……やっと見つけた」
今里くんだった。
息が、少し上がっていた。クラスTシャツの首元が汗で色を変えていて、手には紙コップを二つ持っていた。
「メニューボード見張り、ここからじゃ見えないよ」
「……」
「はい」
紙コップを一つ、差し出された。
うちのクラスのアイスコーヒーだった。百五十円。
私が受け取ると、今里くんは、一段下に座った。
私と、同じくらいの目の高さになった。
どちらも、口を開かなかった。
下のほうで、誰かの笑い声が弾けて、消えた。
今里くんが、紙コップを両手で持って、中の氷を見ていた。
「……俺、なんかした?」
小さな声だった。
私は、首を振った。
「じゃあ、なんか、あった?」
私は、答えなかった。
答えなかったのではなく、答えられなかった。何を言えばいいのか、言葉の形にならなかった。早瀬さん、と言えばいいだけなのに。その名前を口にしたら、何かが本当になってしまう気がした。
言ったら、本当になっちゃうから。
四月の現代文の授業で、自分でそう言ったことを思い出した。
今里くんは、紙コップを階段に置いた。
それから、膝の上で指を組んだ。
組んで、前を向いて、何も言わなかった。
待っていた。
いつもの、待ち方だった。
組んだ指も、前を向いた顔も、動かない。私の言葉が来るまで、ずっとそこにいる。
この三日間、私は、この人のその待ち方に甘えていたのだと思った。
遅れれば、待ってもらえる。黙っていれば、訊かずにいてもらえる。
でも、この人は、待っている間、ずっと一人だった。
何をしたのかもわからないまま。
「……早瀬さん」
やっと、その名前が出た。
今里くんが、こちらを向いた。
「階段のとこで。手紙、もらってた」
言ってしまった。
私は、紙コップを握りしめた。中の氷が、からんと鳴った。
今里くんは、しばらく、ぽかんとした顔で私を見ていた。
それから、ゆっくりと、何かに気づいたような顔になった。
「……見てたの」
「……ごめん」
「いや、謝んなくていいけど」
今里くんは、両手で顔をこすった。
「あれ、俺宛てじゃないよ」
「……え」
「朔宛て」
早瀬さんは、萩原くんと同じバスケ部のマネージャーなのだという。
一年のときから、ずっと萩原くんのことが好きで。最後の文化祭で、どうしても手紙を渡したくて。でも本人の前に行くと何も言えなくなるから、今里くんに渡してくれと頼みに来た。
「断ったんだよ、最初」
今里くんは、階段の手すりに頭をもたせかけた。
「そういうのは自分で渡したほうがいいって。そしたら、じゃあ当日、朔を呼び出してくれって。手紙は当日の朝まで預かっててくれって。……自分で持ってたら、怖くて捨てちゃいそうだからって」
「……それで、受け取ったの」
「うん。で、今朝、返した。今、朔、中庭に呼び出してある」
今里くんは、階段の下のほうを顎で示した。
「当日絶対いてねって、呼び出す係としてって意味」
私は、紙コップを持ったまま、動けなかった。
顔が、熱くなっていくのがわかった。
三日間。
三日間、私は何をしていたんだろう。
「……ごめん」
「だから謝んなくていいって」
今里くんは、笑った。
それから、笑ったまま、目を逸らした。
「……気にしてくれたんだ」
私は、答えなかった。
答えなくても、たぶん、顔に全部出ていた。
今里くんは、階段の手すりを指でなぞりながら、しばらくこちらを見なかった。
階段を下りて、廊下の窓から中庭を見下ろした。
植え込みのそばに、萩原くんが立っていた。いつもの声の大きさはどこにもなく、直立不動で、耳まで真っ赤にして。
その前で、早瀬さんが、水色の封筒を両手で差し出していた。
「うわ、朔、固まってる」
今里くんが、窓に額をくっつけて笑った。
私も、少しだけ笑った。
萩原くんが、封筒を受け取った。
早瀬さんが、走って逃げていった。
萩原くんは、封筒を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「……あいつ、たぶん今日、使い物になんないな」
「うん」
窓の外で、どこかのクラスの音楽が変わった。後夜祭の準備が始まっているらしかった。
今里くんが、窓から額を離した。
「なあ、渚沙」
「うん」
「この三日間さ、ずっと考えてたんだけど」
今里くんは、窓の外を見たまま言った。
「渚沙って、俺がいなくなったらどうする?」
私は、今里くんの横顔を見た。
冗談を言うときの顔ではなかった。かといって、真剣すぎる顔でもなかった。ただ、なんとなく、ずっと考えていたことを、なんとなく口にしてみた、というような。
私は、答えを探した。
どうする。
どうするんだろう。
この三日間のことを思い出した。目を合わせないようにしていた三日間。それだけで、胸の奥がずっと冷たかった。
いなくなったら。
言葉が、来なかった。
来ないまま、窓の外で、後夜祭の始まりを告げる放送が鳴った。
「——いいよ」
今里くんが、私のほうを向いて、笑った。
「答え来るまで、待ってる」
そう言って、廊下を歩き出した。
「行こ。朔、回収しないと」
私は、その背中を追いかけた。
答えは、まだ来ていなかった。
