日曜日、裕太の実家に呼ばれた。
呼んだのは、おばさんだった。
『渚沙ちゃん、日曜、夕飯食べにこない? 裕太が全然帰ってこないのよ』
私のスマホに直接メッセージが来た。去年の夏に連絡先を交換してから、おばさんはときどきこうして、裕太を飛ばして私に連絡してきた。
裕太に転送した。
少しして返事が来た。
『行く』
線路沿いの小さな一軒家。
玄関を開けると、揚げ物の匂いがした。
「いらっしゃい。……あら」
おばさんは私の顔を見るなり、眉を下げた。
「渚沙ちゃん、痩せた? ちゃんと食べてる?」
「……食べてます」
「食べてない顔よ、それ」
おばさんは私の手を取って居間へ引っぱった。
裕太は玄関で靴を脱ぎながら、「俺には何もないのかよ」と言った。
「あんたは、連絡くらいしなさい」
唐揚げが大皿に山のように盛られていた。
居間のテーブルには、おじさんがいた。仕事帰りのような顔で、新聞を畳んで、「おう」と言った。裕太によく似た声だった。
四人でテーブルを囲んだ。
おばさんが私の取り皿に唐揚げを四つ載せた。裕太の取り皿には三つ載せた。
「なんで俺のほうが少ないの」
「あんたは向こうで食べてるでしょ」
「食ってねえよ」
「じゃあ、なおさら渚沙ちゃんに食べさせなさい」
おじさんが声を出さずに笑った。
私は唐揚げを齧った。
熱かった。
衣が口の中で、さくりと鳴った。
おばさんは一度目も、二度目も、同じように唐揚げを揚げて、同じように私の取り皿に多く載せた。
二度とも、このあと、裕太はいなくなった。
ご飯を食べ終えると、おばさんが、アルバムを出してきた。
「やめろって」
「いいじゃない。渚沙ちゃん、これ、七五三」
小さな裕太が袴を着て、千歳飴の袋を引きずっていた。泣き出す一秒前みたいな顔をしていた。
「これ、写真屋さんで、何枚撮ってもこの顔だったのよ」
「……何枚も」
「そう。最後の一枚だけ、やっと笑ったの」
私は写真を見ていた。
何枚も撮り直して、最後の一枚だけ、ちゃんと笑っている。
この人は小さいころから、そうだったのだ。
隣で裕太が黙っていた。
黙って、私の横顔を、見ていた。
テーブルの下で裕太の手が、動きかけて、止まった。
私はアルバムのページをめくるふりをして、その手の甲に指先で、一度だけ触れた。
裕太の指が、ぴくりと動いた。
それからそっと、私の指を握った。
あの神社の夜から、初めてだった。
帰り際、玄関でおばさんが私の手を両手で包んだ。
指先が、温かかった。
「渚沙ちゃん」
「……はい」
「裕太を、よろしくね」
笑おうとした。
笑えたと思った。
でも、おばさんは、少しだけ首を傾げた。
「……渚沙ちゃん?」
「……はい。……また、来ます」
玄関の扉が閉まった。
夜の道に出た。
線路の向こうを電車が通り過ぎていった。
よろしくね。
あの人の母親に、あの人を頼まれた。
頼まれて、私は、うまく笑えなかった。
この人はこれまでに二度、息子を失った。
今度は。
今度、失うとしたら、この人が失うのは、息子ではない。
息子が、この先、何度でも戻ってくる理由のほうだ。
「……渚沙」
隣で裕太が言った。
「母さんに、何か言われた?」
「……よろしくね、って」
「……そっか」
裕太はそれ以上、訊かなかった。
線路沿いの道を並んで歩いた。
裕太は車道の側を歩いていた。角を曲がるたびに、左右を見た。見て、それから、もう一度見た。
五月七日から、ずっと、そうだった。
水曜日の夕方、大学の近くの通りを二人で歩いていた。
古いビルの外壁に、足場が組まれていた。青いシートが風で膨らんだり萎んだりしていた。
その下を通り過ぎようとしたときだった。
頭の上で、金属の外れる、高い音がした。
裕太が私の腕を引いた。
引かれて、車道のほうへ、二歩、よろけた。
さっきまで私の頭があった場所の、少し後ろのアスファルトに、細い鉄のパイプが一本、落ちてきた。
跳ねて、甲高い音を立てて、転がった。
足場の上から作業着の人が、慌てて顔を出した。すみません、すみません、と、何度も頭を下げた。
裕太は、答えなかった。
私の腕を掴んだまま、落ちたパイプを見ていた。
それから足場の上を見上げた。
足場の、もっと上の、夕方の空を。
まだ、五月の、二十一日だった。
金曜日の昼、キャンパスの中庭を一人で歩いていた。
裕太は三限が終わったら、私の講義棟の前で待つと言っていた。私は、学生課に書類を出しに行った帰りだった。
講堂の前に黒いスーツの学生が、何人か立っていた。
合同の企業説明会の案内が、入り口の横に貼ってあった。地元の大手が何社か集まる説明会で、他の大学の学生も参加できると書いてあった。
講堂の扉が開いて、スーツの人たちがぞろぞろと出てきた。
その中の一人と、すれ違った。
背の高い人だった。
黒いスーツの肩が、少し余っていた。手に説明会の紙袋を提げていた。スマホの画面を見ながら、少し疲れた顔で、何かを打っていた。
横顔を、知っていた。
心臓が、一度だけ、大きく鳴った。
足が、止まりそうになった。
止まらなかった。
私は、歩き続けた。
その人も、歩き続けた。
すれ違いざまに、その人の肩が、私の鞄に、少しだけ触れた。
「あ、すみません」
その人は顔を上げて、小さく頭を下げた。
私の顔を、見た。
何も、浮かばなかった。
知らない学生を見る目だった。
「……いえ」
私は、言った。
その人はもう一度、軽く頭を下げて、スマホの画面に目を戻した。そのまま正門のほうへ歩いていった。
振り返らなかった。
振り返らずに中庭の真ん中まで歩いて、そこで、立ち止まった。
手が、冷たかった。
あの人は、何も知らなかった。
私が誰なのかも。あの人が別の周で、私に何をしたのかも。私が別の周で、私のアパートの階段の影で、何を見たのかも。
何も知らない、就職活動に疲れた、ただの大学四年生だった。
この世界では、あの人は、まだ、何もしていない。
何もしないまま正門を出ていく。
私は自分の脇腹に手を当てた。
紺色のブレザーではなく、薄手のカーディガンの上から。
指先に何もついていなかった。
講義棟の前に戻ると、裕太が階段の下に立っていた。
私を見つけて、駆け寄ってきた。
「……遅いから」
「……ごめん」
裕太は私の顔を見た。
「……どうした。顔、白い」
「……なんでもない」
なんでもなかった。
本当に、何も起きなかった。
すれ違って、肩が触れて、すみません、と言われただけだった。
あの周の、アパートの階段の影に立っていた人と、同じ顔の人に。
裕太の手を、取った。
自分から、取った。
裕太は少し驚いた顔をして、それから、何も訊かずに、握り返してきた。
五月七日を過ぎて、十六日。
あの神社の夜から、九日。
私はまだ、この人に何も答えを出していなかった。この人も、あの絵馬の前に、もう一度立とうとはしなかった。
答えの出ないまま日が過ぎていった。
横断歩道の白い車。駅の階段。鉄のパイプ。
間が、少しずつ、詰まってきていた。
それでも、朝は来た。
毎朝、『おはよ』が来て、『おはよう』と返した。地元の駅の、いつものホームの、いつもの車両の、いつもの扉の前に、この人が立っていた。
私の手首を、見るようになった。
私も、この人の手首を、見るようになった。
黒い革のベルトの、三つ目の穴。
秒針は止まらずに、回っていた。
この人は、どうして、外せないんだろう。
夜、自分の部屋の天井を見ながら、そればかり考えていた。
答えは、胸のどこかに、もう、あった。
あったのに、まだ、言葉にならなかった。
いつものことだった。
呼んだのは、おばさんだった。
『渚沙ちゃん、日曜、夕飯食べにこない? 裕太が全然帰ってこないのよ』
私のスマホに直接メッセージが来た。去年の夏に連絡先を交換してから、おばさんはときどきこうして、裕太を飛ばして私に連絡してきた。
裕太に転送した。
少しして返事が来た。
『行く』
線路沿いの小さな一軒家。
玄関を開けると、揚げ物の匂いがした。
「いらっしゃい。……あら」
おばさんは私の顔を見るなり、眉を下げた。
「渚沙ちゃん、痩せた? ちゃんと食べてる?」
「……食べてます」
「食べてない顔よ、それ」
おばさんは私の手を取って居間へ引っぱった。
裕太は玄関で靴を脱ぎながら、「俺には何もないのかよ」と言った。
「あんたは、連絡くらいしなさい」
唐揚げが大皿に山のように盛られていた。
居間のテーブルには、おじさんがいた。仕事帰りのような顔で、新聞を畳んで、「おう」と言った。裕太によく似た声だった。
四人でテーブルを囲んだ。
おばさんが私の取り皿に唐揚げを四つ載せた。裕太の取り皿には三つ載せた。
「なんで俺のほうが少ないの」
「あんたは向こうで食べてるでしょ」
「食ってねえよ」
「じゃあ、なおさら渚沙ちゃんに食べさせなさい」
おじさんが声を出さずに笑った。
私は唐揚げを齧った。
熱かった。
衣が口の中で、さくりと鳴った。
おばさんは一度目も、二度目も、同じように唐揚げを揚げて、同じように私の取り皿に多く載せた。
二度とも、このあと、裕太はいなくなった。
ご飯を食べ終えると、おばさんが、アルバムを出してきた。
「やめろって」
「いいじゃない。渚沙ちゃん、これ、七五三」
小さな裕太が袴を着て、千歳飴の袋を引きずっていた。泣き出す一秒前みたいな顔をしていた。
「これ、写真屋さんで、何枚撮ってもこの顔だったのよ」
「……何枚も」
「そう。最後の一枚だけ、やっと笑ったの」
私は写真を見ていた。
何枚も撮り直して、最後の一枚だけ、ちゃんと笑っている。
この人は小さいころから、そうだったのだ。
隣で裕太が黙っていた。
黙って、私の横顔を、見ていた。
テーブルの下で裕太の手が、動きかけて、止まった。
私はアルバムのページをめくるふりをして、その手の甲に指先で、一度だけ触れた。
裕太の指が、ぴくりと動いた。
それからそっと、私の指を握った。
あの神社の夜から、初めてだった。
帰り際、玄関でおばさんが私の手を両手で包んだ。
指先が、温かかった。
「渚沙ちゃん」
「……はい」
「裕太を、よろしくね」
笑おうとした。
笑えたと思った。
でも、おばさんは、少しだけ首を傾げた。
「……渚沙ちゃん?」
「……はい。……また、来ます」
玄関の扉が閉まった。
夜の道に出た。
線路の向こうを電車が通り過ぎていった。
よろしくね。
あの人の母親に、あの人を頼まれた。
頼まれて、私は、うまく笑えなかった。
この人はこれまでに二度、息子を失った。
今度は。
今度、失うとしたら、この人が失うのは、息子ではない。
息子が、この先、何度でも戻ってくる理由のほうだ。
「……渚沙」
隣で裕太が言った。
「母さんに、何か言われた?」
「……よろしくね、って」
「……そっか」
裕太はそれ以上、訊かなかった。
線路沿いの道を並んで歩いた。
裕太は車道の側を歩いていた。角を曲がるたびに、左右を見た。見て、それから、もう一度見た。
五月七日から、ずっと、そうだった。
水曜日の夕方、大学の近くの通りを二人で歩いていた。
古いビルの外壁に、足場が組まれていた。青いシートが風で膨らんだり萎んだりしていた。
その下を通り過ぎようとしたときだった。
頭の上で、金属の外れる、高い音がした。
裕太が私の腕を引いた。
引かれて、車道のほうへ、二歩、よろけた。
さっきまで私の頭があった場所の、少し後ろのアスファルトに、細い鉄のパイプが一本、落ちてきた。
跳ねて、甲高い音を立てて、転がった。
足場の上から作業着の人が、慌てて顔を出した。すみません、すみません、と、何度も頭を下げた。
裕太は、答えなかった。
私の腕を掴んだまま、落ちたパイプを見ていた。
それから足場の上を見上げた。
足場の、もっと上の、夕方の空を。
まだ、五月の、二十一日だった。
金曜日の昼、キャンパスの中庭を一人で歩いていた。
裕太は三限が終わったら、私の講義棟の前で待つと言っていた。私は、学生課に書類を出しに行った帰りだった。
講堂の前に黒いスーツの学生が、何人か立っていた。
合同の企業説明会の案内が、入り口の横に貼ってあった。地元の大手が何社か集まる説明会で、他の大学の学生も参加できると書いてあった。
講堂の扉が開いて、スーツの人たちがぞろぞろと出てきた。
その中の一人と、すれ違った。
背の高い人だった。
黒いスーツの肩が、少し余っていた。手に説明会の紙袋を提げていた。スマホの画面を見ながら、少し疲れた顔で、何かを打っていた。
横顔を、知っていた。
心臓が、一度だけ、大きく鳴った。
足が、止まりそうになった。
止まらなかった。
私は、歩き続けた。
その人も、歩き続けた。
すれ違いざまに、その人の肩が、私の鞄に、少しだけ触れた。
「あ、すみません」
その人は顔を上げて、小さく頭を下げた。
私の顔を、見た。
何も、浮かばなかった。
知らない学生を見る目だった。
「……いえ」
私は、言った。
その人はもう一度、軽く頭を下げて、スマホの画面に目を戻した。そのまま正門のほうへ歩いていった。
振り返らなかった。
振り返らずに中庭の真ん中まで歩いて、そこで、立ち止まった。
手が、冷たかった。
あの人は、何も知らなかった。
私が誰なのかも。あの人が別の周で、私に何をしたのかも。私が別の周で、私のアパートの階段の影で、何を見たのかも。
何も知らない、就職活動に疲れた、ただの大学四年生だった。
この世界では、あの人は、まだ、何もしていない。
何もしないまま正門を出ていく。
私は自分の脇腹に手を当てた。
紺色のブレザーではなく、薄手のカーディガンの上から。
指先に何もついていなかった。
講義棟の前に戻ると、裕太が階段の下に立っていた。
私を見つけて、駆け寄ってきた。
「……遅いから」
「……ごめん」
裕太は私の顔を見た。
「……どうした。顔、白い」
「……なんでもない」
なんでもなかった。
本当に、何も起きなかった。
すれ違って、肩が触れて、すみません、と言われただけだった。
あの周の、アパートの階段の影に立っていた人と、同じ顔の人に。
裕太の手を、取った。
自分から、取った。
裕太は少し驚いた顔をして、それから、何も訊かずに、握り返してきた。
五月七日を過ぎて、十六日。
あの神社の夜から、九日。
私はまだ、この人に何も答えを出していなかった。この人も、あの絵馬の前に、もう一度立とうとはしなかった。
答えの出ないまま日が過ぎていった。
横断歩道の白い車。駅の階段。鉄のパイプ。
間が、少しずつ、詰まってきていた。
それでも、朝は来た。
毎朝、『おはよ』が来て、『おはよう』と返した。地元の駅の、いつものホームの、いつもの車両の、いつもの扉の前に、この人が立っていた。
私の手首を、見るようになった。
私も、この人の手首を、見るようになった。
黒い革のベルトの、三つ目の穴。
秒針は止まらずに、回っていた。
この人は、どうして、外せないんだろう。
夜、自分の部屋の天井を見ながら、そればかり考えていた。
答えは、胸のどこかに、もう、あった。
あったのに、まだ、言葉にならなかった。
いつものことだった。
