五月の水仙は枯れない

 土曜日の午後、亜美から電話があった。

『渚沙、今日ひま? 駅前のファミレス、行かない?』

 いつもの声だった。

 高校を卒業してから、亜美とは月に一度くらい、こうして会っていた。亜美は市内の短大の二年生で、春から就職活動が始まって毎日へとへとなのだと、先月会ったときに、ドリンクバーのメロンソーダを三杯おかわりしながら嘆いていた。

「……行く」

『やった。二時ね』

 

 電話を切ってから、スマホの画面を見た。

 裕太とのメッセージが、一番上にあった。

 最後のやり取りは、今朝の『おはよ』と『おはよう』だった。

 神社の夜から、三日。

 あの人は毎朝『おはよ』を送ってきて、私は『おはよう』とだけ返した。それ以上はどちらも何も書かなかった。

 それでも、あの人は毎朝、地元の駅のホームにいた。私の降りる階段の下に。

 

『二時から、駅前のファミレスで亜美と会う』

 打って、送った。

 既読はすぐについた。

『わかった』

 それだけだった。

 

 土曜日のファミレスは、家族連れで賑やかだった。隣のテーブルで、小さな男の子が、お子さまランチの旗を振り回していた。ドリンクバーの機械が、がらがらと氷を吐き出す音がした。

 五月の午後の日差しが、窓際のテーブルに、四角く落ちていた。

 その席に座ると、亜美は私の顔を見るなり、眉を寄せた。

「渚沙、痩せた?」

「……痩せてない」

「痩せたよ。ほっぺ、なくなってる」

 亜美はメニューを開きながら、私の顔を、ちらちらと見ていた。

「パフェ食べよ。半分こ」

「……うん」

 

 いちごのパフェが来た。

 背の高いグラスの外側に、細かい水滴が浮いていた。生クリームのてっぺんに、半分に切ったいちごが、三つ、並んでいた。

 長いスプーンで、亜美がてっぺんのいちごを私の側に寄せた。

 私はそれを見ていた。

 スプーンを持つ、亜美の指。高校のころから変わらない、少し短く切った爪。

 

 この指に、手首を掴まれたことがある。

 三度目の周の、東京の、改札の前で。

 私のために泣いてくれた亜美は、今、ここにはいなかった。

 ここにいるのは、何も知らない亜美だった。

 何も知らないまま、いちごを、私の側に寄せてくれる亜美だった。

 

「……ねえ、あれ」

 亜美が窓の外を、スプーンの先で指した。

「今里じゃない?」

 

 見た。

 ファミレスの駐車場の向こう、駅前のロータリーの、ベンチ。

 裕太が座っていた。

 スマホも見ずに、こちらの窓を、見ていた。

 

「え、なに。一緒に来たの?」

「……来てない」

「じゃあ、なんでいんの」

「……」

「え、ちょっと待って。……喧嘩した?」

 

 亜美がスプーンを置いた。

 私の顔を、じっと見た。

 中学で知り合ったころから、亜美はこういう顔をする。私の言葉が遅いのを知っていて、それでも、私の口から出てくるのを待つ顔。

 

「……亜美」

「ん」

「……変なこと、言っていい?」

「いいよ」

 すぐに答えが返ってきた。

「渚沙の変なことなら、いくらでも」

 

 私はテーブルの上で、自分の手を握った。

 握って、ほどいた。

 言うつもりは、なかった。

 言っても、何も変わらないことは、わかっていた。高三の夏に、神社の暗がりで、私はもう、一度それをやっていた。

 それなのに、口が勝手に動いた。

 

「……私、同じ時間を、繰り返してるの」

 

 亜美は瞬きをした。

「……ん?」

「高三の四月から、大学二年の五月まで。……何回も。これで、四回目」

 

 声は震えなかった。

 震えるほどの力も、もう残っていなかった。

「一回目は、裕太が死んだ。二回目も、裕太が死んだ。三回目は、私が死んだ」

 亜美の顔から、表情が消えていった。

「それで、今が、四回目。……今度は、たぶん、私の番で」

 

 そこまで言って、止まった。

 その先は言えなかった。

 絵馬のことも。立て札のことも。紐に指をかけたまま、動けなくなる人の手のことも。

 言葉にしようとすると、全部がファミレスの明るい照明の下で、ひどく嘘くさくなった。

 

 亜美は長いあいだ、黙っていた。

 パフェのアイスが、グラスの縁で、少しずつ溶けていった。

 隣のテーブルで、誰かが呼び出しのボタンを押した。ぴんぽん、と、場違いに明るい音が鳴った。

「……ごめん」

 やっと亜美が言った。

「わかんない」

「……うん」

「渚沙が言ってること、わかんない。……信じるって、言えない。ごめん」

 

 そう言われることは、知っていた。

 それでも、胸のどこかが、小さく軋んだ。

「……うん。いいの」

 私は首を振った。

「信じなくて、いいから」

 

 亜美は何か言いかけて、口を閉じた。

 それから、椅子を引いて、立ち上がった。

 帰るのだと思った。

 

 亜美はテーブルを回って、私の側に来た。

 向かいの席から、私の隣の席に、移ってきた。

 肩がぶつかった。

「……亜美?」

「信じないよ」

 亜美は前を向いたまま、言った。

「信じないけど。……渚沙が、そういう顔してるのは、見ればわかる」

 

 テーブルの下で、亜美の手が私の手を掴んだ。

 短く切った爪。少し汗ばんだ、温かい手のひら。

「だから、隣にいる」

「……」

「わかんないまま、隣にいる。今日、渚沙が帰るまで。……それで、いい?」

 

 私は何も言えなかった。

 言葉がまた遅れていた。

 亜美は待っていた。

 待ちながら、私の手を、握っていた。

 

 信じてもらえなかった。

 高三の夏の裕太も、信じなかった。でも、あの人は信じないまま、私の話をなかったことにしてくれた。なかったことにして、私を、元の場所に戻してくれた。

 亜美は違った。

 なかったことに、しなかった。

 わからないものを、わからないまま、隣に置いてくれた。

 

「……うん」

 やっとそれだけ、言えた。

「……それで、いい」

 

 亜美は頷いた。

 それから、片手でスプーンを取って、溶けかけたアイスをすくって、私の口の前に差し出した。

「はい。溶けちゃう」

「……自分で食べる」

「いいから」

 

 口を開けた。

 甘かった。

 冷たくて、甘くて、少しだけ、涙の味に似ていた。

 泣いてはいなかった。

 

 それから、二時間、隣に座っていた。

 それ以上、私は何も説明しなかった。亜美も、何も訊かなかった。

 亜美は短大の友達の話をした。就職活動のスーツを、母親と買いに行って、喧嘩になった話をした。私はときどき頷いて、ときどき、少しだけ笑った。

 テーブルの下の手は、ずっと、つないだままだった。

 隣のテーブルの家族連れが帰って、学生らしい四人組が座った。窓際のテーブルの上の四角い日差しが、少しずつ伸びて、パフェの空のグラスまで届いた。

 

 窓の外で、裕太はずっと、ロータリーのベンチに座っていた。

 二時間、一度も、立たなかった。

 

 店を出るとき、亜美がロータリーのほうを顎でしゃくった。

「あれ、どうすんの」

「……」

「喧嘩してんのに、二時間も外で待ってる彼氏、初めて見た」

 亜美はため息をついた。

 それから、私の背中を、ぽん、と叩いた。

「……渚沙が四回も繰り返してんなら、今里、四回とも、ああやって待ってたんじゃないの」

 

 足が止まった。

 振り返った。

 亜美はもう私を見ていなかった。駐輪場のほうへ歩きながら、ひらひらと手を振っていた。

「じゃあね。また連絡する。……ちゃんとご飯食べなよ」

 

 四回とも。

 違う、と思った。

 四回どころでは、なかった。

 

 ロータリーのベンチで、裕太が立ち上がった。

 私が近づくのを、待っていた。

 近づいても、口を開かなかった。

 私も、黙って、その前に立った。

 

 角を三つ曲がって、家の前まで、並んで歩いた。

 三歩後ろではなかった。

 隣だった。