五月の水仙は枯れない

 五月七日を過ぎて、一週間が経った。

 裕太は私から離れなくなった。

 朝は大学の最寄りの駅の改札の前ではなく、地元の駅のホームにいた。私の降りる階段の下に。講義が違う日も、私の講義棟の前で待っていた。帰りは角を三つ曲がって、玄関の明かりの下まで。家に入るまで、門の外に立っていた。

 夜は電話を切らなかった。

 私が眠るまで、つないだままにしていた。

 

「……今日の裕太、なんか過保護」

 言いかけて、やめた。

 その言葉を、二人目の私が、最初の週に言ったのだと、この人から聞いていた。

 

 五月十四日の朝、地元の駅の階段で、足を踏み外しかけた。

 踏み外したのではなかった。一段下の段が、濡れていたわけでもなかった。ただ右足を下ろした先に、段がなかった。そういう感覚だけが、足の裏に残った。

 腕を、掴まれた。

 一段下にいた裕太が、私の腕を掴んで、壁のほうへ押しつけて、止めた。

 私は手すりにしがみついて、息を吸った。

 裕太は私の腕を掴んだまま、階段の下を見ていた。

 顔が真っ白だった。

 

 駅の階段。

 二人目の私が、振り返って、今日、帰りに何食べる、と言った場所。

 この人が一段下にいた場所。

 手を伸ばせば届くところにいたのに、と、この人が言った場所。

 

 今度は、届いた。

 届いたのに、裕太はしばらく、私の腕を離さなかった。

 指が食い込んでいた。

 

 

 その夜、裕太を、神社に呼んだ。

 『来て』とだけ、送った。

 既読はすぐについた。

 返事はなかった。

 

 坂を上って、鳥居をくぐると、裕太はもう来ていた。

 本殿の前の石段に、座っていた。

 高三の春、「ちょっと休憩」と言って、私の隣の段を叩いた場所だった。

 私に気づいて、立ち上がった。

「……一人で来たのか」

「……うん」

「夜に、一人で、坂——」

「来て」

 

 私は本殿の脇の暗がりへ歩いた。

 裕太はついてきた。

 ついてきながら、少しずつ、足取りが重くなっていった。

 夜の境内の砂利が、二人分の足音を、やけに大きく返した。

 

 絵馬掛けの前で、立ち止まった。

 スマホのライトをつけた。

 手前の絵馬を、脇に寄せた。一枚ずつ。紐が絡まないように。

 奥に、もう一列。春の絵馬。それも、寄せた。

 さらに奥。去年の、色の褪せた列。

 最後の列の、一番奥。

 灰色の、一枚。

 

 渚沙とずっと一緒にいたい

 

「……外して」

 私は言った。

「今、ここで。私の前で」

 

 裕太は動かなかった。

 灰色の絵馬を、見ていた。

 高三の夏の、あの午後の顔ではなかった。何も知らずに、首を傾げて、疲れてる? と訊いた顔ではなかった。

 全部を知っている人の顔だった。

 全部を知っていて、四回、ここで負けてきた人の顔だった。

「……渚沙」

「外して」

 

 裕太は手を伸ばした。

 指が紐にかかった。

 

 私は見ていた。

 スマホのライトの中で、この人の指を。

 右手の人差し指。

 一度目と二度目の夏祭りの夜に、黒いインクがついていた指。

 

 指は紐にかかったまま、止まっていた。

 引こうとしているのが、わかった。腕の筋が浮いていた。肩に、力が入っていた。

 それなのに、指先だけが動かなかった。

 五秒。

 十秒。

 

 裕太の息が荒くなっていった。

 額に、汗が浮いていた。夜の境内はまだ少し肌寒いくらいなのに。

「……くそ」

 小さな声だった。

「……なんで」

 

 手が紐から落ちた。

 だらりと、体の横に垂れた。

 裕太は自分の手を見下ろしていた。

 知らない人の手を見るみたいに。

 

「……五回目」

 私は言った。

 裕太が顔を上げた。

「思い出してからのあなたが、ここで手をかけたの。……私の前では、二回目。高三の夏と、今」

 

 それから、胸の底で、ずっと形を探していたものが、やっと、言葉になった。

 

「……ねえ」

 声が自分でも驚くほど、冷たかった。

「私が怒ってるのは、隠してたことじゃないの」

 裕太は黙っていた。

「言えなかったのは、わかる。あなたが全部話した周で、私が死んだんだもんね。……話したら、私が離れる。離れたら、私が取られる。だから、言えなかった」

「……」

「わかるよ。わかるけど」

 

 息を、吸った。

 

「一人で、決めたよね」

 

 裕太の肩が揺れた。

「私が生き残った周で、あなたは、自分が離れるって決めた。次の周で、大学を辞めて海の町に行くって決めた。私が東京にいた周で、私を探しに来るって決めた。……五月七日の朝だって、あの一行を送るって、決めてた」

「……」

「全部、あなたが一人で決めた。私に、何一つ、選ばせないで」

 

 スマホのライトが、揺れた。

 私の手が、震えていた。

 

「私、全部知らないまま、あなたに守られてただけなの?」

 

 裕太が、何か言おうとした。

 私は、首を振った。

 言わせなかった。

「私が覚えてる最初の周で、私は、あなたのお葬式で、泣けなかった」

 

 斎場の、白い花。読経の声。祭壇の上の、最後の一枚。誰もが泣いていた中で、私だけが。

「その次の周も、泣けなかった。泣けないのは、悲しすぎるからだと思ってた。胸の底に、何か重たいものがあって、それが、涙の出口を塞いでるんだって」

 

 あの重たいものの形が、今、わかった。

 

「……怒ってたの」

 

 声が、割れた。

「私、あなたに、怒ってたの。何も言わないで、一人で決めて、一人でいなくなったあなたに。……約束、守らないで。答え来るまで待ってるって、言ったくせに。待たないで、先に行っちゃったあなたに」

 

 灰色の絵馬が、ライトの中で、白っぽく光っていた。

 

「二回とも。あなたが一人で決めたことの、一番最後だけ、私に渡された。祭壇の前で。黒い額の前で。……何も知らないまま、最後だけ」

 

 裕太は、何も言わなかった。

 言えないのだと、わかった。

 この人には、言えることが、何もなかった。

 全部、本当のことだったから。

 

「……ごめん」

 やっと、裕太が言った。

「謝らないで」

 私は言った。

「謝ってほしいんじゃない」

 

 じゃあ、何がほしいのか。

 訊かれたら、答えられなかった。

 答えられないまま、私はスマホのライトを消した。

 暗がりに、灰色の絵馬が、輪郭だけを残して沈んだ。

 

 私は鳥居のほうへ歩き出した。

 裕太は止めなかった。

 ただ、ついてきた。

 坂を下りた。住宅街を抜けた。駅前の明かりの前を曲がって、角を三つ。

 裕太はずっと、三歩後ろを歩いていた。

 追いついてこなかった。離れもしなかった。私が立ち止まると、この人も立ち止まった。私が歩き出すと、この人も歩き出した。

 一度だけ、振り返った。

 裕太は街灯の下で、両手をポケットに入れずに、体の横に下ろしていた。

 いつでも、私の腕を掴めるように。

 

 玄関の明かりが、ついていた。

 私は振り返らずに、家に入った。

 扉を閉めた。

 鍵をかけた。

 扉に背中をつけて、そのまま立っていた。

 

 泣けなかった。

 怒りの形はわかったのに。

 わかったぶんだけ、あの重たいものは、胸の底で、はっきりと重くなっていた。

 

 二階の自分の部屋に上がって、窓のカーテンを、少しだけ開けた。

 門の外に、裕太が立っていた。

 街灯の下で、こちらを見上げていた。

 私が見ていることに、気づいたのかどうかは、わからなかった。

 カーテンを閉めた。

 しばらくして、もう一度、開けた。

 まだ、立っていた。

 

 枕元で、スマホが震えた。

 『おやすみ』

 それだけだった。

 電話はかかってこなかった。

 

 私は返事をしなかった。

 その夜、カーテンを開けるたびに、裕太は門の外に立っていた。

 三時を過ぎて、最後に開けたときも。