五月の水仙は枯れない

 裕太は長いあいだ、窓のほうを向いていた。

 雨が窓ガラスを細く伝っていた。街灯の光がその筋を、一本ずつ白く光らせていた。

「……外そうとした」

 やっと声がした。

 窓を向いたままの声だった。

「立て札を最後まで読んだのは、全部話した周の、終わりだった。お前がいなくなったあと。……返すこともできる、って、あそこに書いてあった」

「……うん」

「だから、次の周から、毎回、五月七日の朝に、行った」

 

 毎回。

「記憶が戻って、目が覚めて、まだ暗いうちに。……あの坂を上って、絵馬掛けの前まで行って。手、かけて」

 裕太は自分の右手を、膝の上で開いた。

 指を、見ていた。

「外れなかった」

 

「……何回」

「四回」

 裕太は指を一本ずつ折った。

「お前が生き残った周。海の町に行った周。お前が東京にいた周」

 三本、折った。

 四本目の指の上で、手が止まった。

「……今朝」

 

 息が止まった。

 今朝。

 私がベッドの上で、スマホを伏せて待っていたころ。

 七時になって、『おはよ』が来なくて、画面を裏返していたころ。

 この人はまだ暗い坂を上って、あの灰色の一枚の前に立っていたのだ。

 おばさんが言っていた。なんだか、顔色が悪くてね。朝ごはんも食べないで。

「外れなかったから、帰ってきて、荷物まとめて、電車に乗った」

 裕太は四本目の指を、ゆっくり折った。

「外れなかったら、あとは、俺が離れるしかなかったから」

 

「……どうして」

 声が震えた。

「どうして、外れないの」

「わかんない」

 すぐに答えが返ってきた。

 何百回も、自分に訊いてきた人の答え方だった。

「紐に指をかけて、引こうとすると、指に、力が入らなくなる。結び目が固いんじゃない。紐が切れないんでもない。……俺の指が、動かない」

 

 指に、力入んなかった。

 高三の夏のこの人の声だった。

 何も知らない十八歳のこの人が、あの紐から手を離して、不思議そうに指先を見て、言った言葉。

 あのとき、私は思った。この願いが何をしてきたのかを知っている人にしか、これは手放せないのだ、と。

 知っていても、手放せなかったのだ。

 四回。

 この人は全部を知っていて、四回、あの紐の前で、同じように指を止めた。

 

「……それを」

 喉が詰まった。

「それを、ずっと、一人で」

 裕太は答えなかった。

 窓の外を見たまま、顔をこすった。

 

 私は立ち上がった。

 自分でも、どうして立ったのか、わからなかった。

 床に座っていられなかった。この部屋の空気の中に、座っていられなかった。

 胸の奥で何かがぐらぐらと煮え立っていた。悲しいのか、苦しいのか、腹が立っているのか、自分でも区別がつかなかった。

 ただこのままここにいたら、何か、取り返しのつかないことを言ってしまう気がした。

「……ごめん」

 鞄を、掴んだ。

「……ちょっと、一人に」

 

 玄関まで、四歩だった。

 靴を履いた。

 ドアノブに、手をかけた。

「ちょっとだけ、じか——」

 

 言いかけて、止まった。

 自分の口から出かけた言葉が、耳に届いた。

 ちょっとだけ、時間ちょうだい。

 

 三人目の私が、最後に言った言葉。

 今日、帰りに何食べる、の次の、私。駅の改札の前で、この人にそう言って、一度も振り返らずに歩いていった私。

 五月七日の、夜だった。

 今と、同じ。

 

 背中で、床が鳴った。

 振り返るより先に、手首を掴まれた。

 

「今日だけは」

 

 裕太の声は、低くて、かすれていた。

 息が、荒かった。四歩の距離を、床を蹴って詰めてきた人の息だった。

「今日だけは、一人で帰るな」

 

 手首を掴んだ指が、震えていた。

 痛いくらいに、強かった。

 それなのに、震えていた。

「……頼むから」

 

 私はドアノブから、手を離した。

 

 振り返った。

 裕太は玄関の段差の一段上に立っていた。私より、少しだけ高いところから、私の手首を掴んでいた。

 顔が濡れていた。

 いつから濡れていたのか、わからなかった。

 

「……あのときも」

 裕太が言った。

「改札の前で、お前が、そう言った。ちょっとだけ、時間ちょうだい、って」

「……うん」

「俺、行かせたんだよ」

 声が崩れた。

「お前が、そう言うなら、って。……時間くらい、いくらでも、って。そう思って、改札の向こうに歩いてくお前の背中、見てた」

 

 十日後だった、と、この人は言った。

 どうやって、とは言わなかった。

 

「今日だけは」

 裕太はもう一度言った。

「明日になったら、どこ行ってもいい。俺のこと、どれだけ怒ってもいい。……でも、今日だけは、行かないでくれ」

 

 私は靴を脱いだ。

 一つずつ、ゆっくり。

 脱いだ靴を、玄関の隅に揃えた。

 それから掴まれていないほうの手で、裕太の手の甲に、触れた。

「……行かない」

 

 裕太の指から、少しずつ力が抜けていった。

 抜けていって、それでも離れなかった。

 

 

 部屋に戻っても、私は裕太の隣には座らなかった。

 ローテーブルの向こう側の、壁際に座った。膝を抱えた。

 裕太は、ローテーブルの麦茶のグラスに手を伸ばしかけて、やめた。

 ベッドにもたれて、床に座って、私のほうを見ていた。見ていて、ときどき、目を逸らした。

 怒っていた。

 私はたぶん、怒っていた。

 何に怒っているのか、まだ言葉にならなかった。ならないまま、胸の底で、重たいものが、形を探していた。

 

 雨の音が続いていた。

 麦茶のグラスが、ローテーブルの上に、二つ、置きっぱなしになっていた。

 

 十一時を過ぎた。

 十一時半を過ぎた。

 裕太は壁の時計を見ていた。

 私は裕太の左の手首を見ていた。黒い革のベルト。秒針が細い音を立てていた。

 

 十一時五十九分。

 裕太が息を止めたのがわかった。

 

 零時。

 

 裕太が長い息を吐いた。

 吐いて、ベッドにもたれたまま、天井を見上げた。

「……終わった」

 小さな声だった。

「五月七日、終わった」

 それから天井を見上げたまま、言った。

「……どっちでも同じだって、わかってた」

 私は黙っていた。

「お前がここにいても、出ていっても。……わかってた。でも」

 裕太の喉が動いた。

「改札の向こうに歩いてくお前の背中だけは、もう見たくなかった」

 

 私は膝を抱えたまま、その横顔を見ていた。

 終わったのは、五月七日だった。

 何かが始まったのは、たぶんその日のうちだった。

 横断歩道の白い車。

 お前か、と言った、この人の白い顔。

 

 私は壁際から、動かなかった。

 裕太も、ベッドの前から、動かなかった。

 ローテーブル一つぶんの距離を置いたまま、二人とも、朝まで眠らなかった。