五月の水仙は枯れない

 お前の葬式の日だった。

 裕太はそう話し始めた。

 一人目の私は、大学二年の五月七日に、事故で死んだ。何の前触れもなく。朝、「五限終わったら電話する」とメッセージを送ってきて、その電話はかかってこなかった。

「俺、ずっとスマホ握って待ってたんだよ。五限が終わる時間になっても、鳴らなくて。……怒ってた。なんで電話してこないんだって」

 裕太は自分の手のひらを見ていた。

 そこに、まだスマホがあるみたいに。

「そのとき、もう、お前は」

 続きは言わなかった。

 

 葬式のあと、どこに行けばいいのかわからなくて、歩いたんだ。

 気がついたら、あの神社にいた。

 裕太の声の向こうに、その日が見えた。

 斎場の前で、誰かが差し出した傘を、この人は受け取らなかった。黒いネクタイが、雨を吸って、胸に貼りついていた。駅前のロータリーを抜けて、坂を上った。高校の帰りに、私と何度も歩いた坂だった。鳥居の下で、一度だけ立ち止まった。それから、砂利を踏んで、本殿の前まで歩いた。

「雨が、すごくて。傘、どこかに置いてきてて」

 私は、息を止めた。

「本殿の前で、膝ついた。……砂利の上に。喪服のまま」

 膝が、砂利に沈んだ。喪服のズボンが、水を吸って、重くなった。雨は、首の後ろから背中へ、まっすぐ流れ込んでいった。

 裕太の声が、少しずつ遠くなっていく気がした。

 違う。遠くなっているのは、私のほうだった。

 私の中で、別の雨の音が鳴り始めていた。

 砂利を打つ音と、屋根から落ちる雨垂れの音。少しずつずれた間隔で、鳴り続けていた音。

「どこ」

 自分の声が、ひどく小さかった。

「どこで、膝をついたの」

 裕太は、怪訝そうに私を見た。

「どこって……正面。賽銭箱の、ちょっと手前」

「三歩くらい?」

 裕太の顔から、表情が消えた。

「……なんで、知ってんの」

 私は、答えられなかった。

 膝の下で、喪服のスカートが水を吸っていく感触を、思い出していた。冷たいと思ったのは最初の数秒だけで、そこから先は、自分の膝がどこにあるのかもわからなくなった。

「私も、そこにいた」

 やっと、声になった。

「あなたのお葬式のあと。雨の中で。同じところで、膝をついてた」

 

 裕太は、何も言わなかった。

 私も、何も言えなかった。

 同じ場所だった。

 同じ雨の中で、同じ砂利の上で、同じ喪服を着て。私たちは、別々の時間に、同じ場所で膝をついていたのだ。お互いを失ったあとで。

「……俺は、泣いてた」

 しばらくして、裕太が言った。

「みっともないくらい、泣いてた。声出して」

 私は、泣けなかった。

 この人は、泣いていた。

 同じ場所で、同じ姿勢で、私たちは、正反対のことをしていた。

「泣いてて、そのうち、思い出したんだ」

「何を」

「高三の夏祭りの夜に、書いたもの」

 膝をついたまま、這うように、本殿の脇へ進んだ。雨に濡れた絵馬が、何百枚も、重たい音を立ててぶつかり合っていた。一枚ずつ、震える指で、めくった。高三の夏の、自分の一枚を探して。

 まだ、灰色にはなっていなかった。墨が、雨粒を弾いていた。

 渚沙とずっと一緒にいたい

「書いたのに、って思った」

 裕太の声が、初めて、はっきりと震えた。

「ずっと一緒にいたいって、書いたのに。書いたのに、なんでって。……その絵馬の前に、ずっと立ってた」

 願ってはいない、と裕太は言った。

 もう一度会わせてくれとも、返してくれとも、言わなかった。言えなかった。ただ、立っていた。

「そこから、記憶がない」

「……」

「次に気がついたのは、大学二年の、五月七日の朝だった。二年分、何も知らないまま、もう一回お前と付き合って、もう一回大学に入って。……その二年のことは、ちゃんと覚えてるのに、そのあいだ、俺は何も知らなかった」

 

 窓の外で、雨が降り始めていた。

 いつから降っていたのか、わからなかった。

 私は、テーブルの上の、麦茶のグラスを見ていた。氷は、もう全部溶けていた。

 一人目の私。

 五限が終わったら電話する、と言って、電話をしなかった人。

 二人目の私。

 今日、帰りに何食べる、と振り返った人。

 三人目の私。

 ちょっとだけ時間ちょうだい、と言って、時間をもらえなかった人。

 三人とも、私だった。

 私が、何も覚えていない、私だった。

 この人だけが、覚えていた。

 何も知らないまま死んでいった三人の私のことを、この人だけが、一人で、ずっと。

「……ねえ」

 私はテーブル越しに手を伸ばした。

 裕太の手に触れた。冷たかった。

「その人たちのこと、もっと教えて」

 裕太が顔を上げた。

「今じゃなくていい。いつか。……私、知っておきたい。三人とも、私なんでしょう」

 裕太は私の手を見ていた。

 長いあいだ、見ていた。

 それからゆっくりと握り返してきた。

 泣くかと思った。私が、ではなく、裕太が。

 泣かなかった。

 ただ握った手に、少しずつ力がこもっていった。三人分の重さを、少しだけ私のほうに寄せるみたいに。

 

 どれくらい、そうしていたのかわからない。

 雨の音が少し強くなった。

 私はひとつだけ、まだ訊いていないことを口にした。

「あの絵馬」

 裕太の手がわずかに固まった。

「高三の夏祭りの次の朝に見つけた、古いの。……あれが、その雨の日の絵馬なんだよね」

「……ああ」

 裕太は低い声で言った。

「あれは、最初のやつだ。考えてみたら、最初からおかしかったんだよな。お前の葬式の日、書いてから二年近く経ってたのに、燃やされてなかった」

「……」

「俺がそのあと書いたのは、毎年ちゃんと燃やされてた。あれだけが、ずっと残ってる」

 高三の夏。

 私は何も覚えていないこの人を、あの絵馬の前に立たせた。

「私、外してって頼んだよね」

「……覚えてる」

「あのときのあなたは、外せなかった。……花火の下で、好きだって言ったばかりだったから」

 握った手が離れかけた。

 私は離さなかった。

「でも、今のあなたは、全部知ってる。……ずっと、知ってたんだよね。返せるって」

 裕太は目を逸らした。

 窓のほうを見て、雨の音を聞いているみたいな顔をして、何も言わなかった。

 その沈黙が答えだった。

「……裕太」

 自分の声が冷えていくのがわかった。

「どうして、外さなかったの」