五月の水仙は枯れない

「十日後だった」

 裕太はそれ以上、どうやって、とは言わなかった。

 私も、訊かなかった。

「そのあと、あの神社の立て札を、最後まで読んだ」

 裕太は自分の膝のあたりを見ていた。

「願いに背きし者は、守りを離る。……そう書いてあった。背いた奴から、取られるんだって、そのとき、わかった」

 願いは、渚沙とずっと一緒にいたい。

 だから、離れようとした者が、取られる。

「誰も離れなかったら、願い主じゃないほうが、取られる」

 裕太は麦茶のグラスに指をかけて、持ち上げずに、また離した。

「五月七日が終わるとき、お前は俺から離れてた。だから、お前が取られた」

「定めの日って」

「五月七日だ。……一人目のお前が、死んだ日」

 言葉を選ぶように、少し間があった。

「その日から、始まる。いつ来るかは、決まってない。三週間のときもあったし、半年近くかかったときもあった。……来られる隙ができたら、来る」

 

 定めの日の話を、すぐには受け取れなかった。

 受け取る前に、別のことに気づいてしまった。

 高三の夏、夏祭りの次の日。私は、何も覚えていないこの人を神社に連れていって、全部を話した。

 あのときのこの人は、信じなかった。

 信じなかったから、私から離れなかった。

「……もし、あのとき、あなたが信じてたら」

 裕太の顔がゆっくりと固まっていった。

「怖くなって、私から離れてたら」

 指先が冷たくなっていた。

 何も知らないまま、私は賭けていたのだ。

 信じてもらえなかったことに、あの夏、私は少しだけ傷ついていた。その「信じてもらえなかった」が、この人を生かしていた。

 

「だから、次の周で、俺は自分が離れることにした」

 裕太はそれだけ言った。

 そのあとのことは、私のほうがよく知っていた。先輩たちのテーブル。海の町。東京のアパートの、階段の影。

「俺が背けば、取られるのは俺だ。……それで、いいと思ってた」

「海の町の周で、神社には行くなって言ったのは」

「お前が、何か知ってる気がしたから。初めて話した日に、いきなり裕太って呼んだろ。……あそこに近づけたら、もっと深く巻き込まれると思った」

「朔が、小野寺の飲み会の話を持ってきたときも」

「俺から、行きたいって言った」

 短い答えだった。

 

「でも、海の町の周の、線香花火の日」

 私は言った。

「あなた、バイクで、防波堤の下まで来たよね。……わかってたんでしょう。あの日だって」

「……朝から、なんとなく」

 裕太は少しだけ目を伏せた。

「逃げても、どこにいても、同じだって知ってた。だったら」

 それから言った。

「線香花火くらい、買ってきたかったんだよ」

 

 防波堤の下でエンジンを鳴らしたまま、私を見上げていた顔を思い出した。

 あれはそういう顔だったのだ。

「そのあと、また、間に合わなかった、って言ったよね」

「……嫌われてから、終わりたかったんだ。そうすれば、お前は泣かなくて済むと思ってた」

「私、泣かなかったよ。……二回とも。お葬式で、一回も」

 裕太はほっとしたのか、傷ついたのか、自分でもわからない、という顔をした。

 私は裕太の袖を指先でつまんだ。

「……今日は」

 裕太が低い声で言った。

「今朝、あの一行を送ってたら、取られるのは俺だった。……お前が、止めたんだよ」

 

 横断歩道の白い車を思い出した。

 あの「知ってる」で、私はこの人の手首を掴んだ。掴んで、離れる側から引き戻した。

 引き戻したぶんだけ、私が前に出たのだ。

「……うん」

 私は頷いた。

「知ってて止めたわけじゃ、ないけど。……知ってても、止めたと思う」

 裕太は小さく息を吐いた。認めたのか、諦めたのか、わからない息だった。

 それでも袖は引き抜かれなかった。

 

「私が、神社に行ったから、戻ったんだよね。あなたのお葬式のあとで」

「……お前が死んだあと、俺が神社に行くと、戻ってた。毎回」

 残されたほうが、あそこに立つと、戻る。

「でも、一人目から三人目までの私は、何も覚えてなかった」

「……ああ。毎回、何も知らない顔で、よろしくって」

「私は、あの雨の日に、あそこで、ひとつだけ訊いたの。……それからは、死んでも、覚えてた」

 裕太は何を、とは訊かなかった。

「……ひとつ、わからないことがあるの」

 私は言った。

「私は、高三の四月の朝から、全部覚えてる。でも、あなたは、五月七日まで何も思い出さない。どうして」

 裕太は天井を見ていた。

「たぶん、俺のは、願いが返してくるんだ。取り立ての日に、何を賭けてるのか、思い出させるみたいに」

「……私のは」

「お前のは、お前が、あそこで何か訊いたからだろ。……答えのかわりに、覚えてることを、渡されたんじゃないの」

 確かめる方法は、どこにもなかった。

 でも、そういうことなのだと思った。

「記憶が戻る前も、ときどき、夢は見てたんだ」

 裕太は続けた。

「お前が、どっか行っちゃう夢。起きたら、どんな夢だったかは忘れてるんだけど、嫌な感じだけ残ってて」

 一度目の高三の文化祭で、紙コップを二つ持ったこの人が、俺がいなくなったらどうする、と訊いた。

 あれも、その夢の残りだったのかもしれない。

 

 窓の外を車が一台通り過ぎていった。その光がカーテン越しに天井を撫でて、消えた。

「一番、最初は?」

 裕太の肩が小さく揺れた。

「あとにさせて、って言ったよね。……一番最初は、どうやって始まったの」

 長い沈黙だった。

「……雨だった」

 裕太がそう言った。