五月の水仙は枯れない

 五月七日の夜だった。

 裕太のアパートの床に、二人で座っていた。

 ローテーブルの上に、麦茶のグラスが二つ。どちらも、ほとんど減っていない。氷が溶けて、グラスの外側についた水滴が、テーブルに丸い跡を作っていた。

 昼間、中庭のベンチで、いくつか短い言葉を交わしたあとは、裕太はほとんど口をきかなかった。

 驚いていた、というのとは少し違う。何かを確かめるように私の顔を何度も見て、見るたびに、目を逸らした。六回分の時間の中で、私がこうして目の前に座っているのは初めてなのだと、途中で気づいた。

「……あの周の最後」

 ようやく、裕太が言った。

「お前、ずっと一人で戻ってたのって、言ったよな。……あの夏、お前が絵馬の前で話したのは、あの続きだったんだな」

「……うん」

「……ずっと、覚えてたんだな」

 裕太は両手で顔をこすった。

「……何から話せばいい」

「最初から」

 裕太は首を横に振った。

「最初のは、あとにさせて」

「どうして」

「いちばん、話しにくいから」

 私は頷いた。

 裕太は膝の上で指を組んだ。組んで、ほどいて、また組んだ。

「最初に記憶が戻ったのは、大学二年の、五月七日の朝だった」

 

 目が覚めたら、頭の中に、お前の葬式があったんだ。

 裕太はそう言った。

 遺影があって、花があって、お前の母さんが泣いてて。それが、昨日のことみたいに、全部そこにあった。なのに、スマホを見たら、お前から「おはよう」って来てた。

「意味がわかんなかった。夢だと思おうとした。でも、夢にしちゃ細かすぎて」

「……うん」

「その日、お前が死ぬことだけは、わかってた。五月七日だったから」

 だから、その日は一日中、私のそばを離れなかったのだという。

 講義を休ませて、部屋から出さなかった。私は怒って、呆れて、最後には笑っていたらしい。

「五月七日は、何も起きなかった」

 裕太はグラスの水滴を指でなぞった。

「終わったと思った。なんだか知らないけど、助かったんだって」

 終わっていなかった。

 次の日も、その次の日も、裕太は私についてまわった。講義にも、バイトにも、コンビニにも。

「今日の裕太、なんか過保護」

 その私は、そう言って笑ったのだそうだ。コンビニの棚の前で、アイスを選びながら。

「それ、ちょっと言いそう」

 私が言うと、裕太は少しだけ笑った。

 笑って、それから、黙った。

「……三週間後だった」

「うん」

「駅の階段で」

 心臓がどくんと鳴った。

「俺、一段下にいたんだよ。お前の、すぐ下に。手、伸ばせば届くところにいたのに」

 裕太の声は、平らだった。

 何度も何度も、頭の中で繰り返してきた言葉を、ただ読み上げているような声だった。

 

「……じゃあ」

 私は自分の手を見ながら言った。

「ずっと一緒にいても、だめなんだ」

「だめだった」

「どこか、遠くに行くのは? 二人で。誰も知らないところに」

「場所じゃないんだ」

 裕太はすぐに答えた。

 たぶん、私が今考えていることは、全部、この人がもう考えてきたことなのだ。

「階段がなかったら、道路になる。道路がなかったら、別の何かになる。……そういうふうに、できてる」

「……」

「ごめん」

「なんで謝るの」

「お前、今、一生懸命考えてるだろ。考えて、ひとつずつ潰されてる」

 図星だった。

 私は唇を噛んだ。

「……その私、最後に何て言ってた?」

 訊いてから、訊いていいことだったのかと思った。

 裕太はしばらく天井を見ていた。

「階段の上で、振り返って」

「うん」

「『今日、帰りに何食べる?』って」

 それだけだった。

 それが、二人目の私の、最後の言葉だった。

 私はその言葉を、口の中で一度だけ繰り返した。今日、帰りに、何食べる。

 私が言いそうな言葉だった。

 私が言いそうな言葉を言って、私は死んだのだ。私の知らないところで。

「……それで」

 裕太が言った。

 膝の上で組んだ指に、力が入っていた。

「次の周で、俺は、全部話した」

 私は顔を上げた。

「五月七日の朝。記憶が戻って、すぐ。お前の家まで行って、玄関で」

 全部、と裕太は言った。お前が死ぬこと。俺が一回、それを見てること。何をしても、止められなかったこと。

「……私、信じた?」

「笑った」

 裕太は、少しだけ口の端を上げた。

「『裕太、ゲームのやりすぎ』って。寝癖のまま」

 私なら、そう言う気がした。

 そう言って、心配そうに、裕太の額に手を当てたりする気がした。

「昼に、大学の前で、看板が落ちてきた。お前の目の前に。あと半歩前にいたら、当たってた」

「……」

「そこから、お前の顔が変わった」

 信じかけたのだ、と裕太は言った。

 信じかけて、怖くなって。怖くなった相手が、自分の死ではなく、それを知っている裕太のほうだったのか、それとも、そういう世界そのものだったのか。裕太には、わからなかったという。

「その日の夜、駅の改札で、お前が言ったんだ」

 ちょっとだけ、時間ちょうだい。

 その私は、そう言って、改札の向こうへ歩いていった。一度も振り返らなかったのだという。

 裕太は、私を見ていなかった。

「……俺が、話したせいで」

 声が途切れた。

「お前は、俺から、離れていった」