五月の水仙は枯れない

 裕太は入り口に立ったまま、動かなかった。

 真ん中のテーブルを、見ていた。

 テーブルの誰かが、こちらに気づいて、手を上げた。

「あれ、今里くんじゃん。珍しー」

「今日こそ来いって。な?」

 裕太は笑おうとした。

 口の端が持ち上がりかけた。

 私の知らない笑い方の、最初の形だった。

 一度目の昼に、この席から見た。大きな声で、隣の人の肩を叩いて、まるで自分がそこにいることを周りに知らせるみたいに笑っていた、あの顔の。

 

 裕太が一歩、真ん中のテーブルのほうへ踏み出した。

 右手のスマホの画面が、光っていた。

 メッセージの画面だった。

 打ちかけの文字が、見えた気がした。

 

 私は立ち上がった。

 走らなかった。

 走ったら、この人は逃げる気がした。

 テーブルと椅子のあいだを、まっすぐ歩いた。トレイを持った人の肩を避けて、誰かの鞄を跨いで。

 裕太の二歩手前で止まった。

 

「裕太」

 

 裕太の肩が跳ねた。

 振り向いた。

 

 目が赤かった。

 眠っていない人の目だった。泣いたあとの人の目だった。

 その目が私を見た。

 一秒。

 ほんの一秒、あの顔になった。

 三度目の飲み会の暖簾をくぐった夜。私を見つけたときの、探していたものをやっと見つけた人の顔。

 それから、その顔が音を立てずに崩れた。

 崩れて、何かを被るみたいに、表情が消えた。

 

「……渚沙」

 声がかすれていた。

「ごめん。俺、今日、ちょっと」

 

 来た。

 ごめん。今日。ちょっと。

 一度目の昼に、図書館の裏のベンチで、何度も読み返した一行。

 この人は、今、それを、口で言おうとしていた。

 続きを、言わせてはいけなかった。

 

「知ってる」

 

 裕太が、止まった。

「……え」

「知ってる。全部、知ってる」

 

 声は、震えなかった。

 震えないように、一晩中、胸の中で言い直してきた。

 

「今朝、あなたが、全部思い出したこと」

 裕太の顔から、血の気が引いていった。

「一度目のあなたは、今日、あのテーブルに座った。二度目のあなたは、しばらく大学休む、って送ってきて、海の町へ行った」

「……」

「三度目は、私が逃げた」

 裕太の手から、スマホが滑り落ちかけた。

 指が、かろうじて、端を掴んでいた。

「……わかってる」

 小さな声だった。

「今朝、あの夏のこと、全部思い出したから」

 

 わかっていたのだ。

 目が覚めて、全部が戻ってきたとき、この人は、高三の夏の午後も、一緒に取り戻していた。絵馬の前で、私が何を話したのかを。私が、ずっと覚えていたことを。

 知っていて、それでも、この人は、七時四十分の電車を避けた。

 知っていて、それでも、あの一行を書こうとしていた。

 

 私は、一歩、近づいた。

 左の手首を、掴んだ。

 黒い革のベルトの上から。秒針の、細い振動が、指先に伝わってきた。

 

「何回目?」

 

 裕太は、答えなかった。

 唇が、少しだけ開いて、閉じた。

「私は、四回目」

 

 真ん中のテーブルの誰かが、「え、なに、修羅場?」と笑った。誰かが、「やめなって」と小声で言った。

 学食のざわめきが、どこか遠くで鳴っていた。

 

「……七」

 裕太が、言った。

 ほとんど、息だけの声だった。

「……七回目」

 

 七回。

 私は、四回。

 

 四と七のあいだにある数を、頭の中で、数えた。

 数えなくても、わかっていた。

 わかっていたのに、数えずにはいられなかった。

 

 この人は、私の知らない周を、三つ、生きてきた。

 その三つの周にも、私はいた。

 高三の四月に、窓際の二十九番の席に座って、この人に「よろしく」と言われた私が。石段で「渚沙って、呼んでいい?」と訊かれた私が。花火の下で、好きだ、と言われた私が。

 三人。

 私の、覚えていない、私が。

 

「……そっか」

 声が、今度は、少しだけ揺れた。

「私、あと三回、あなたと恋してたんだ」

 

 裕太の目が見開かれた。

「覚えてないだけで」

 

 

 裕太の膝が折れかけた。

 私は掴んだ手首を、引いた。

 引いて、支えた。この人の体は、思っていたより、ずっと重かった。

「……外、出よ」

 裕太は何も答えなかった。

 答えないまま、私に引かれて、歩き出した。

 真ん中のテーブルの前を、通り過ぎた。上級生たちが、ぽかんとした顔で、こちらを見ていた。

 裕太は一度もそちらを見なかった。

 

 学食の外はよく晴れていた。

 中庭の欅が若い葉を揺らしていた。昼休みの学生たちが、芝生の上で、弁当を広げていた。

 私は裕太の手首を掴んだまま、中庭の端のベンチまで歩いた。

 座らせた。

 隣に、座った。

 

 裕太は両肘を膝について、うなだれていた。

 右手のスマホの画面は、もう暗くなっていた。

「……送ろうとしてた?」

 訊いた。

 裕太はしばらく黙っていた。

 それから小さく頷いた。

「……何て」

「……ごめん。しばらく、会えない」

 

 息を、吐いた。

 間に合った。

 何に間に合ったのか、本当のところは、まだわからなかった。でも、この人があの一行を送る前に、この手首を掴めた。

 それだけはわかった。

 

「……いつから」

 うなだれたまま、裕太が言った。

「いつから、知ってた」

「……二度目の、高三の四月から」

「……じゃあ、あの夏の」

 裕太の声が途切れた。

「神社の。……絵馬の」

「……うん」

「あれ、全部、本当のことだったのか」

「……うん」

「俺、疲れてる? って、言ったよな」

「……言った」

「……送るから、って」

「……うん。送ってくれた」

 

 裕太は両手で、顔を覆った。

 長いあいだ、そうしていた。

 指のあいだから、息が漏れていた。泣いているのか、笑っているのか、わからない息だった。

 私は何も言わなかった。

 この人の左の手首を、ずっと掴んでいた。

 秒針が指の下で、止まらずに動いていた。

 

 昼休みの終わりのチャイムが鳴った。

 芝生の上の学生たちが、弁当箱を片づけて、講義棟のほうへ歩いていった。

 裕太は顔を上げなかった。

 私も、三限には行かなかった。

 

「……話さなきゃいけないことが、ある」

 ずいぶん経ってから、裕太が言った。

 顔を覆ったままの、くぐもった声だった。

「たぶん、すごく、長い」

「……うん」

「ここじゃ、無理だ」

「……じゃあ、あなたの部屋で」

 裕太は少しだけ顔を上げた。

 赤い目で、私を見た。

 何かを言いかけて、やめた。

 それから小さく頷いた。

 

 大学の正門を出て、駅のほうへ歩いた。

 裕太の部屋は、駅の手前の線路を渡った先だった。

 大通りの横断歩道で、信号が赤になった。

 二人で並んで止まった。

 裕太は私の手を握っていた。今朝電車を一本ずらして私を避けた人が、今は、指が白くなるくらい強く。

 

 信号が青に変わった。

 私は一歩、踏み出した。

 

 腕を、後ろに引かれた。

 体が裕太の胸にぶつかった。

 目の前を、白い乗用車が、速度を落とさずに走り抜けていった。

 風が前髪を持ち上げた。

 クラクションは、鳴らなかった。ブレーキの音も、しなかった。

 運転席の人が、こちらを見もしないまま、交差点の向こうへ消えていった。

 

 信号は青だった。

 私の側は確かに、青だった。

 

 裕太の腕が私の体に回ったまま、固まっていた。

 背中越しに、この人の心臓の音が聞こえた。ひどく速かった。

「……裕太?」

 振り返って、見上げた。

 裕太は車が消えていった交差点の向こうを、見ていた。

 顔が真っ白だった。

 今朝の私よりも、ずっと。

「……お前か」

 

 聞き取れないくらいの声だった。

 私に言ったのではなかった。

 私の向こうの何かに向かって、言っていた。

「……なに?」

 裕太は答えなかった。

 答えないまま、私の手を、握り直した。

 さっきよりも、もっと強く。

「……行こう」

 

 横断歩道を、渡った。

 裕太は私の手を離さなかった。私を、自分と車道のあいだに挟まないように、ずっと車道の側を歩いた。角を曲がるたびに、左右を見た。見て、それからもう一度見た。

 私はその横顔を見ていた。

 知っていることと、知らないことが、この人と私のあいだに、まだたくさんあった。

 

 線路を渡った。

 白い外壁の小さなアパートが見えた。

 外階段を上がる前に、裕太が立ち止まった。

 私の手を、見下ろした。

 手首の時計の、秒針の音が二人のあいだで、細く鳴っていた。

「……渚沙」

「……うん」

 裕太は何か言いかけて、口を閉じた。

 それから私の手を引いて、外階段を上がった。一段ずつ、私より一段下を。

 鍵を開ける手が、二度、鍵穴を外した。

 

 今朝、この人は七時四十分の電車を避けた。

 昼にはあの一行を、口で言おうとした。

 そして今、この人は一段下から、私の手を離さずにいる。

 

 五月七日。

 この日が何の始まりなのか。

 私はまだ、半分しか知らなかった。