五月の水仙は枯れない

 六時になった。

 スマホは鳴らなかった。

 六時半になった。

 鳴らなかった。

 ベッドの端に座って、画面を膝の上に伏せていた。伏せたまま、ときどき裏返した。裏返すたびに、時計の数字だけが変わっていた。

 一年と少し、毎朝、この時間には来ていた。

 『おはよ』の三文字。

 寝坊した日は七時を過ぎた。寝ぼけて『おはお』と打ってきた朝もあった。それでも、来なかった朝は、一度もなかった。

 

 七時になった。

 来なかった。

 窓の外で、隣の家の車が、エンジンをかけて出ていった。いつもなら、その音を聞くころには、画面に三文字が光っていた。

 

 一度目の五月七日も、こうだった。七時に目が覚めて、何もなくて、寝坊したのかな、と思った。七時半に、私から『おはよう』と送った。既読はすぐについた。返事は来なかった。

 二度目の五月七日は、来た。『おはよ』のあとに、もう一つ。『ごめん。しばらく、大学休む』。

 どちらの朝も、あの人は全部を思い出していた。

 思い出して、私から離れることを選んでいた。

 

 スマホを、表に返した。

 メッセージの画面を開いた。

 『おはよう』と打ちかけて、指が止まった。

 送れば、あの人は返事を書かなければならなくなる。

 書く返事は、たぶん、もう決まっている。

 ごめん。今日ちょっと。しばらく。

 

 一度目も、二度目も、離れていったあの人が、いなくなった。

 三度目は、離れた私が、いなくなった。

 立て札には、願いに背きし者は守りを離る、とあった。何に背けば背いたことになるのかは、どこにも書いていなかった。

 でも、三度並べれば、形は見えた。

 離れたほうが、いなくなる。

 

 打ちかけた文字を、消した。

 何も送らなかった。

 あの人に、あの一行を書かせてはいけない。

 書かせる前に、会わなければいけない。

 

 顔を洗って、服を着た。鞄に、財布とスマホと、定期入れだけを入れた。

 台所で、母が朝のニュースを見ていた。味噌汁の匂いと、天気予報の、明るい声がしていた。

「あら、早いね。一限?」

「……うん」

「朝ごはんは」

「……いい」

 靴を履いた。玄関の扉を開けると、朝の空気が、まだ少し冷たかった。

 

 駅に向かって、歩いた。

 途中から、走っていた。

 ランドセルの列を、車道の側から追い越した。鞄の中で、定期入れが、走るたびに跳ねた。

 

 ホームには、行かなかった。

 改札の前を通り過ぎて、駅の反対側へ抜けた。線路沿いの細い道を、フェンスの向こうを電車が通り過ぎるのと同じ向きに、走った。

 小さな一軒家。去年の夏に、唐揚げを山のように食べた家。

 玄関の前に、おばさんがいた。ゴミ袋を、門の脇に出しているところだった。

「……あら、渚沙ちゃん」

 おばさんが、目を丸くした。

「どうしたの、こんな朝早く。……裕太?」

「……はい」

 息が切れていた。

「あの子なら、さっき出てったよ。向こうの部屋に戻るって」

 

 足元がぐらりとした。

「……さっき、って」

「三十分くらい前かしら。一緒に戻るんじゃなかったの? 渚沙ちゃんと」

 おばさんは、首を傾げた。

「なんだか、顔色が悪くてね。朝ごはんも食べないで。……喧嘩でもした?」

「……してないです」

「そう。ならいいけど」

 おばさんは、私の顔を覗き込んだ。

「渚沙ちゃんも、顔、真っ白よ」

 

 お礼を言って、駅へ走って戻った。

 三十分前。

 七時四十分の電車を、避けたのだ。

 ホームの、いつもの車両の、いつもの扉の前で、私と会わないために。

 

 七時四十分の電車に、一人で乗った。

 いつもの車両の、いつもの扉の前。

 扉が閉まって、電車が動き出した。窓の外を、線路沿いの家並みが流れていった。その中に、さっきの小さな一軒家の屋根が、一瞬だけ見えた。

 

 一時間と少し、電車に揺られた。

 車内は通勤の人で混んでいた。吊り革を掴んだ手のひらが、汗で滑った。向かいに立ったスーツの人の鞄の角が、ときどき、私の膝に当たった。

 スマホを、何度も見た。

 何も来ていなかった。

 来ていないことに、少しだけ、ほっとした。

 まだ、書いていない。

 あの人は、まだ、あの一行を送ってきていない。

 

 大学のある町の駅で降りて、改札を出た。

 駅の近くの、あの人の部屋へ歩いた。三月の終わりに、引っ越しの段ボールを一緒に運んだ部屋。二階建ての、白い外壁の、小さなアパート。

 外階段を上がって、二階の、奥から二番目の扉の前に立った。

 インターホンを押した。

 鳴っているのが、扉越しに聞こえた。

 誰も、出てこなかった。

 もう一度、押した。

 扉に耳をつけた。

 何の音もしなかった。

 

 階段を下りて、見上げた。

 カーテンが、閉まっていた。

 いるのか、いないのか、わからなかった。

 

 どこに行ったのか。

 一度目の五月七日、あの人は、どこにいたのか。

 

 覚えていた。

 昼休みの学食。窓際の端の、いつもの四人掛けではなく、真ん中のテーブル。髪の明るい、上級生らしい人たちの輪の中。

 十二時二十分を過ぎたころ、あの人は、あそこに現れた。

 大きな声で笑っていた。知らない笑い方で。

 あれがあの人の、一度目の離れ方だった。

 

 スマホの時計を見た。

 九時十二分。

 あと、三時間。

 

 二限の教室には、行った。

 行っても、一文字も頭に入らなかった。教授の声が、遠くの工事の音みたいに聞こえていた。窓際の席で、誰かが日差しを避けてブラインドを下ろした。

 ノートの端に、時間を書いた。

 十時半。

 十一時。

 十一時半。

 書いた数字の横に、あの人の手首を思い出していた。黒い革のベルトの、三つ目の穴。

 今朝も、あれを巻いているだろうか。

 

 二限が終わった。

 十二時を、少し過ぎていた。

 私は鞄を掴んで、教室を出た。

 

 学食は昼休みの人でいっぱいだった。揚げ物の油の匂いと、食券機の電子音。去年の四月と、何も変わらない音だった。

 窓際の端の、四人掛けのテーブル。いつも二人で並んで座る席。

 誰も、座っていなかった。

 私は何も頼まずに、その席の片側に座った。

 入り口のほうを、見た。

 

 真ん中のテーブルに、あの人たちがいた。

 髪の明るい、上級生らしい人たち。五、六人。大きな声で笑いながら、テーブルを占領していた。

 一度目と、同じ顔ぶれだった。

 その中に、あの人は、まだいなかった。

 

 十二時十五分。

 十二時十七分。

 十二時十八分。

 

 入り口に、人影が立った。

 紺色のパーカー。少し寝癖のついた髪。

 右手に、スマホを握っていた。

 左の手首に、黒い革のベルトが、見えた。

 

 裕太だった。