五月の水仙は枯れない

 四月。

 隣の県の国立大学。私は文学部で、裕太は経済学部。

 毎朝、地元の駅の、同じホームの、同じ車両の、同じ扉の前で待ち合わせた。昼は学食の窓際の端のテーブルで会った。裕太は四月の二週目までに、カレーを七回食べた。

「俺らは、同じ大学でよかったな」

 裕太はスプーンを口に運びながら、何でもない声で言った。

 私はその「よかった」を、胸のどこかに、そっとしまった。

 

 六月の終わりの誕生日に、黒い革のベルトの腕時計を渡した。

 三度目だった。今度は迷わなかった。この時計と一緒に、あの五月の先まで行ってほしかった。

「……手首に、何か巻いててほしかったから」

 裕太は笑った。

 ベルトの穴を、一つずつ試した。

 三つ目で、止めた。

「これ、毎日つける」

 

 夏休みには裕太の家で、夕飯をごちそうになった。

 線路沿いの小さな一軒家。おばさんは初めて会った日から、私を「渚沙ちゃん」と呼んで、唐揚げを山のように揚げた。

 帰り際、玄関でおばさんが私の手を両手で包んだ。

「また来てね」

 指先が温かかった。

 二度目の夏にも、この玄関で、この手に握られた。そのあとのことを、私は覚えていた。

 今度は覚えていることを、ここで終わらせたかった。

「……また、来ます」

 私はおばさんの手を、握り返した。

 

 秋が来て、冬が来た。

 十一月の終わりに、初めて二人で遠くの町まで電車に乗って、紅葉を見た。

 乗り換えを二回して、最後は、一時間に一本しかない二両編成の電車だった。

 二度目の夏に、毎週乗った電車と、同じ形をしていた。

 揺れ方まで、似ていた。窓の外を流れていくのが、海ではなく山だったことに、私は少しだけほっとした。

 山あいの駅で降りると、空気が地元より一枚ぶん冷たかった。

 川沿いの道を、上流のほうへ歩いた。

 両側の山が斜面ごと、赤と黄色に染まっていた。足もとで、落ち葉が踏むたびに乾いた音を立てた。

 裕太は何度も立ち止まって、スマホを構えた。構えて、画面を覗いて、首を傾げた。

「写真だと、ぜんぜん赤くなんない」

「……目で見るのが、いちばん」

「渚沙、たまに、ばあちゃんっぽいこと言うよな」

 橋の上で、裕太が欄干から身を乗り出した。

 川面を赤い葉が一枚、くるくる回りながら流れていった。

 裕太はそれが橋の下に消えるまで、目で追っていた。

 手首の時計が、欄干に当たって、こつ、と鳴った。

「あ、やべ」

 裕太は慌てて文字盤を確かめた。傷がないのを見て、長く息を吐いた。

「……大事にしてんだから」

 私に言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。

 

 裕太は帰りの電車で、私の肩にもたれて眠った。

 二両編成の電車は、ほとんど空だった。暖房の風が足もとから上がってきた。

 肩に重さが少しずつ預けられていった。最初は遠慮がちに、それから、全部。

 髪から昼間の落ち葉の匂いがした。

 私は動かなかった。

 向かいの窓に、眠っている裕太と、起きている私が、並んで映っていた。

 手首で、秒針が細い音を立てていた。

 私は窓の外の暗い田んぼを見ながら、その音を聞いていた。

 

 元日に、坂の上の神社へ、初詣に行った。

 あの夏の日から、裕太はあの交差点で右に曲がらなくなった。

 でも、元日の朝、「初詣、どこ行く?」と訊いたら、この人は少し考えてから、「……近いとこでいいんじゃね」と言った。

 近いところは、あそこしかなかった。

 

 本殿の前で、並んで手を合わせた。

 何を願ったのかは、訊かなかった。

 訊かれもしなかった。

 参拝を終えて、人の流れに押されるように、本殿の脇へ出た。

 絵馬掛けの前は、新年の絵馬で埋まっていた。合格祈願。家内安全。恋愛成就。

「絵馬、書く?」

 裕太が訊いた。

「……書かない」

 早すぎた。

 裕太は少しだけこちらを見た。

「……だよな。俺も、なんか、ああいうの苦手」

 それだけ言って、裕太は絵馬掛けから目を離した。

 私は見ていた。

 手前の新しい絵馬の群れを。その奥の何列もの、知らない人の願いを。

 そのいちばん奥に、今も、あれがある。

 灰色の、何年も前の夏の、一枚が。

 

 家に帰って、部屋の壁に、新しいカレンダーを掛けた。

 駅前の本屋で、アルバイトの帰りに買った、白い地に小さな花の絵がついたもの。

 一月のまっさらなページ。

 私はまっさらな升目を、端から端まで見た。

 それから四枚、めくった。

 

 五月。

 右上に、水色の小さな花の絵があった。

 七日は水曜日だった。

 

 鉛筆で、七の数字の横に、小さな点を一つ、打った。

 丸でもなく、バツでもなく。

 目を凝らさなければ、わからないくらいの、点を。

 

 それから一月に戻した。

 二月になっても、三月になっても、私はカレンダーを先へめくらなかった。

 めくらなくても、わかっていた。

 あの点がどこにあるのか。

 あと、何日なのか。

 

 四月になった。

 大学二年の春。

 二年に上がる前の春休みに、裕太は大学のある町で一人暮らしを始めた。ゼミの先輩が卒業して、駅の近くの安い部屋が空くのだと、一年の秋から言っていた。

 一度目にも、二度目にも、なかったことだった。

 四度目の周で、私はこういう小さなずれを、もう何度も見てきた。私が一つ違うことをすると、そのずっと先で、何かが一つ、違う形になる。

 朝のホームの待ち合わせは、なくなった。そのかわりに、大学の最寄りの駅の改札で、待ち合わせるようになった。

 キャンパスの桜が、講義棟の窓の高さまで咲いていた。昼休み、裕太と二人で、学食の前のベンチでパンを食べた。花びらが裕太のパンの上に落ちた。

「来年も、ここで食お」

 裕太が花びらをつまんで捨てながら、言った。

「……うん」

 来年。

 この人の口から、その言葉を聞くたびに、胸の奥で、何かが小さく鳴った。

 

 この一年、あの問いは一度も来なかった。

 俺がいなくなったらどうする。

 一度目の私は、屋上の階段で、紙コップを手に、答えられなかった。

 今の私は答えを持っていた。

 持ったまま、一年、待っていた。

 言う場所はここではなかった。

 

 四月の終わりに、カレンダーを、めくった。

 五月。

 水色の花の絵の下に、あの点があった。

 一月に打ったときより、ずっと濃く見えた。

 

 五月六日の夜。

 連休の最後の日だった。

 連休のあいだ、裕太は実家に帰っていた。

 裕太は一年のころと同じように、角を三つ曲がって、家の前まで送ってくれた。

 玄関の明かりが、ついていた。

「じゃ、また明日」

 裕太が手を上げた。

 手首で、黒い革のベルトの時計が、玄関の明かりを受けて、鈍く光った。

「……裕太」

「ん?」

 何か、言おうとした。

 何を言えばいいのか、わからなかった。

 明日の朝、この人は全部を思い出す。

 何度もの春と、夏と、五月を。私の知らない最初の夏と、私が覚えていない周の、すべてを。

 そして、たぶん私から離れようとする。

 

「……また明日」

 それだけ、言った。

「おう。明日、一緒に戻るだろ。渚沙、一限だっけ」

「……二限」

「じゃあ、ホームで。七時四十分の」

 裕太は手を振って、角を曲がっていった。

 

 その夜は、眠らなかった。

 ベッドの上に座って、窓の外が暗いのを見ていた。

 枕元で、スマホの時計が、ゆっくり数字を変えていった。

 零時。一時。三時。

 四時を過ぎて、窓の外が少しずつ青くなり始めた。

 

 この人は明日の朝、何回目の朝を迎えるのだろう。

 私は、四回目だった。

 この人は、もっと多いはずだった。

 

 五時を過ぎた。

 鳥が一羽、鳴いた。

 私はベッドを下りて、カーテンを開けた。

 五月七日の、朝だった。