五月の水仙は枯れない

 中間テストが終わると、学校の空気が一気に文化祭へ傾いた。

 うちの高校の文化祭は、六月の第三土曜日にある。三年生にとっては最後で、受験の前に騒げる最後の機会でもあった。

「三年二組は、喫茶店に決まりました」

 ロングホームルームで、実行委員の子が黒板に大きく書いた。

 メニュー班、装飾班、調理班、買い出し班。黒板に並んだ班の名前の下に、自分の名前を書き込んでいく。席替えの日と同じように、白いチョークを持って、順番に前へ出る。

 私は、装飾班の下に「山吹」と書いた。

 席に戻ると、隣で今里くんが私の手元を覗き込んだ。

「装飾?」

「……うん」

「なんで」

「字、書くの、好きだから」

 黒板の看板やメニューボードを書く係が、装飾班の中にあるらしかった。言葉を口に出すのは遅いけれど、紙の上に書くのは苦にならない。書き直せるし、待たせる相手もいない。

「へえ」

 今里くんは、少し考えるような顔をしてから、立ち上がった。

 前に出て、チョークを取って、買い出し班の下に「今里」と書いた。

 戻ってきて、椅子に座った。

「……装飾じゃないんだ」

「俺が装飾やったら、店つぶれるよ」

 今里くんは笑った。

「でも、買い出し班って、装飾の材料も買いに行くんだって。だから、なんか要るもんあったら言って」

 私は、黒板の二つの名前を見た。

 装飾班の「山吹」と、買い出し班の「今里」。

 離れていた。でも、線で繋がっているような気がした。

 

 放課後の教室は、毎日少しずつ喫茶店に変わっていった。

 机を寄せて、テーブルクロス代わりの布を掛ける。窓に色紙を貼って、天井から紙の花を吊るす。教室の後ろでは、調理班がホットプレートの配線をめぐって、実行委員と揉めていた。

 私は、教室の隅に新聞紙を敷いて、メニューボードを書いていた。

 ホームセンターで買ってきた小さな黒板に、白いチョークで一文字ずつ。

 アイスコーヒー 百五十円

 字の大きさを揃えるのが難しい。書いては消して、また書く。指先が、チョークの粉で白くなっていく。

「うわ、うま」

 頭の上から声がして、顔を上げた。

 今里くんが、買い出しの袋を両手に提げて立っていた。

「それ、渚沙が書いてんの」

「……うん」

「ほんとに字うまいんだ」

「……ふつう」

「ふつうじゃないって。店っぽい」

 今里くんは袋を床に置いて、しゃがみ込んだ。私と同じ高さで、メニューボードをじっと見る。

 近かった。

 肩が触れそうなくらい。

 私は、チョークを持ったまま動けなくなった。

「……今里くん」

「ん」

「そこ、踏んでる」

 今里くんの靴の先が、新聞紙の上に置いた書き損じの紙を踏んでいた。

「あ、ごめん」

 慌てて足をどけて、それから、その紙を拾い上げた。

 私が練習で書いた「いらっしゃいませ」だった。三回書き直して、三回とも納得がいかなかったもの。

「これ、捨てんの?」

「……うん。下手だから」

「もらっていい?」

「……え」

「いや、なんか。いいなと思って」

 今里くんは、紙を丁寧に四つ折りにして、制服の胸ポケットに入れた。

 何か言わなきゃ、と思った。

 言葉を探しているうちに、教室の後ろから「今里ー、ガムテープどこ」と呼ぶ声がして、今里くんは「袋の中!」と答えながら立ち上がった。

 行ってしまった。

 私は、白くなった自分の指先を見ていた。

 胸ポケットの中の、下手な「いらっしゃいませ」のことを考えていた。

 

 次の日の放課後、メニューボードの前に、小さな紙箱が置いてあった。

 チョークだった。白が一箱と、ピンクと水色が一本ずつ。

 箱の上に、ノートの切れ端が載っていた。

 白いの減ってたから。 今里

 斜めに傾いた、急いで書いたみたいな字だった。

 裏返すと、方眼の上に、二次関数のグラフが半分だけ描いてあった。頂点のところで、線が途切れていた。

 私は、その切れ端を眺めていた。開け放した窓から風が入って、紙の端が小さくめくれた。

 昨日、ほとんど話もしなかった。私が白いチョークを使い切りそうになっていたことに、いつ気づいたんだろう。

 顔を上げると、教室の反対側で、今里くんが段ボールを潰していた。目が合うと、何でもない顔をして、また段ボールに戻った。

 私は、ピンクのチョークを手に取った。

 メニューボードの一番上に、「本日のおすすめ」と書いた。

 白い字の中に、そこだけ柔らかい色が浮かんだ。

 帰り際、今里くんがメニューボードの前で足を止めた。

「ピンク、使ったんだ」

「……うん。ありがとう」

 今度は、三日もかからなかった。

 今里くんは、少し驚いたような顔をしてから、笑った。

「字ってさ、書く人の声っぽいよな」

「……声?」

「渚沙の字、渚沙がしゃべってるみたい。ゆっくりで、ちゃんとしてる」

 今里くんは、そう言って、鞄を肩に掛け直した。

 私は、メニューボードを見た。

 自分の声が、そこに並んでいるような気がした。

 ノートの切れ端は、捨てずに、生徒手帳のあいだに挟んだ。

 

 文化祭の三日前だった。

 昼休み、亜美と一緒に購買に行った帰り、二階の階段の踊り場で、足が止まった。

 窓のそばに、今里くんがいた。

 一人ではなかった。

 知らない女の子と、話していた。

 知らない、というのは正確ではない。顔は見たことがある。隣の一組の子だ。髪を高い位置で一つに結んでいて、背がすらっと高くて、よく笑う。名前は、たしか、早瀬さん。

 早瀬さんは、今里くんの腕を軽く叩きながら、何か楽しそうに話していた。

 今里くんも、笑っていた。

 私の前で、よくする笑い方だった。

「……渚沙?」

 亜美が、私の顔を覗き込んだ。

 私は、返事をしなかった。購買のパンの袋が、指の先で小さく鳴った。

 早瀬さんが、スカートのポケットから何かを取り出した。

 薄い水色の、封筒だった。

 それを、今里くんに差し出した。両手で。少しうつむいて、耳のあたりを赤くして。

 今里くんは、封筒を見て、それから早瀬さんを見て、何か言っていた。一度、首を横に振って、それからまた何か。

 声は、ここまでは届かなかった。

 最後に、今里くんが、封筒を受け取った。

「ほんとありがとう。当日、絶対いてね」

 早瀬さんの声だけが、はっきりと聞こえた。

 弾むような声だった。

 私は、階段を下りた。

 亜美が後ろから「ちょっと、渚沙」と呼んだ。振り返らなかった。

 上履きが、階段の角で、ぱたぱたと音を立てていた。

 その音がやけに大きくて、自分が走っているのだと、しばらく気づかなかった。