五月の水仙は枯れない

 立て札の前に立った。

 灰色に褪せた板。墨で書かれた文字。ところどころ、かすれていた。

 この社は、古くより——

 縁を結ぶ神を祀る。

 人の願いを聞き届け、その縁を結び、守る。

 願いを掛けし者は、その願いの続くかぎり——

 あの夜、ここから先は、字の輪郭が溶けていた。光を近づけても、遠ざけても、読めるのは、ところどころの一文字だけだった。代。日。命。それから、一番下の、覚。

 私は、その続きに目を落とした。

 今度は、目が滑らなかった。

 あの夜の私は、あの灰色の一枚を知らなかった。今朝の私は、知っていた。違うのは、それだけだった。

 

 願いを掛けし者は、その願いの続くかぎり、縁を結ばれ、守られる。

 ただし、縁は、代なくして結ばれず。

 定めの日来たらば、縁の内より、代を召す。

 代は、命ひとつ。

 

 読めた。

 読めてしまった。

 一文字ずつ、指でなぞるように、目で追った。墨はかすれていたのに、字は、一つも溶けなかった。

 縁の内より、代を召す。

 代は、命ひとつ。

 

 定めの日。

 五月七日。

 あの人が、全部を思い出す日。

 一度目も、二度目も、あの日のあとで、あの人が、いなくなった。三度目は、私が。

 縁の内より。

 縁を結んだ、二人のうちの、どちらかから。

 

 膝が、また、崩れそうになった。

 立て札の縁に、手をついた。

 次の行が、目の前にあった。

 

 願いに背きし者は、守りを離る。

 

 背く。

 一度目も、二度目も、私から離れていったのは、あの人だった。三度目は、私が、あの人から離れた。

 離れたほうが、守りを外れる。

 外れたほうが、召される。

 

 最後の三行が、残っていた。

 

 願いは、返すこともできる。

 掛けし者、その手にて、心より手放すとき。

 返されし願いは、重ねし日々の覚えを、掛けし者より連れて去る。

 

 返すことも、できる。

 私は、その行を、何度も読んだ。

 返せる。

 掛けた者が、自分の手で。心から、手放せば。

 あの夜、一番下に一文字だけ読めた、覚。

 そのかわり、重ねた日々の覚えを、持っていかれる。

 あの人が、何度も戻ってきた日々を。

 

 でも、今のあの人は、まだ何も思い出していない。

 持っていかれる覚えを、まだ、持っていない。

 今なら。

 

 立て札から、手を離した。

 振り返った。

 絵馬掛けの一番奥。灰色の一枚。

 あれを、あの人が外せば。

 

 昼過ぎに裕太にメッセージを送った。

『今日、会える?』

『神社で』

 既読はすぐについた。

『いいけど。昨日も行ったじゃん』

『来てほしい』

 少しして、返事が来た。

『わかった。三時』

 

 三時少し前に裕太が鳥居をくぐってきた。

 Tシャツにハーフパンツで、眠そうな顔をしていた。

「おはよ。……いや、もう昼か」

 私の顔を見て、首を傾げた。

「……どした。顔、真っ白だけど」

「……こっち」

 私は裕太の手を取って、本殿の脇の暗がりへ歩いた。

 裕太は何も言わずについてきた。

 ついてきながら、少しだけ足取りが重くなった。

 

 絵馬掛けの前で、立ち止まった。

 今朝寄せた絵馬を、もう一度脇に寄せた。

 一番奥の灰色の一枚が、現れた。

「……見て」

 裕太は覗き込んだ。

 眉を寄せた。

「……渚沙とずっと一緒にいたい」

 読み上げて、それから目を丸くした。

「え、なにこれ。……誰が書いたの」

「……あなたの字」

「は?」

 裕太はもう一度覗き込んだ。

 眉間の皺が深くなった。

「……いや、似てるけど。俺、こんなの書いてないし。昨日だって、渚沙とずっと一緒にいただろ」

 

 私は息を吸った。

 全部、話すと決めていた。

 今朝、灰色の絵馬の前でしゃがみ込んだときから。

 何も知らないこの人に、全部を。

 

「……裕太」

 

 呼んだ。

 裕太が動きを止めた。

「……今、名前で呼んだ?」

「……うん」

 今までに声に出した「裕太」は、どれも、零れたか、叫んだか、縋ったかだった。

 選んで、呼んだのは初めてだった。

 この人に全部を話すために。

「……聞いて」

 

 私は話した。

 高三の四月の教室で、何度も目を覚ましたこと。

 一度目の周で、あなたは大学二年の五月に、バイクの事故で死んだこと。

 二度目の周で、あなたは海の町の民宿に住み込んで、トラックとぶつかったこと。

 三度目の周で、私が刺されて死んだこと。死ぬ前に、あなたが何度も過去に戻っている、と言ったこと。

 この神社の立て札に、願いには代が要る、と書いてあること。代は命ひとつ、と書いてあること。

 そして、願いは、返すこともできる、と書いてあること。掛けた人が、心から手放せば。

 話しながら、裕太の手を引いて、立て札の前に立たせた。

 裕太は私の指さす行を、目で追った。

「……縁の内より、代を召す」

 小さな声で読み上げた。

「……代は、命ひとつ。……願いは、返すこともできる。……心より、手放すとき」

 それから首を傾げた。

「……古い言い回しで、よくわかんないけど」

 裕太の目は一度も滑らなかった。

 それなのに、この人の顔には、何も浮かばなかった。

 私は裕太の手を引いて、絵馬掛けの前に戻った。

「……だから、外して」

 声が震えた。

「この絵馬、外して。お願い」

 

 裕太は長いあいだ、口を開かなかった。

 私の顔を見ていた。

 境内の楠の上で、蝉の声が急に大きくなった。

 それからゆっくりと、絵馬のほうに目をやった。

「……渚沙」

「……うん」

「疲れてる?」

 

 優しい声だった。

 心配している声だった。

 信じていない声だった。

「……本当なの」

「うん。わかった」

 わかった、と言ったこの人は、何もわかっていなかった。

 当たり前だった。

 昨日の夜、花火の下で好きだと言って、好きだと言われたばかりの人に、あなたは何度も死んだ、と言われて。

 信じられるはずがなかった。

「……外して」

 もう一度言った。

「……信じなくていいから。外して。それだけで、いいから」

 

 裕太は絵馬掛けに手を伸ばした。

「……まあ、いたずらだったら、外しちゃってもいいよな。俺の字に似てんの、なんか気持ち悪いし」

 灰色の絵馬の紐に、指をかけた。

 引いた。

 

 紐は動かなかった。

 

 裕太の指は紐にかかったまま、止まっていた。

 力を込めているのか、込めていないのか、わからなかった。

 紐がほどけないのか、指が動かないのか、わからなかった。

 裕太は自分の手を見ていた。

「……あれ」

 もう一度引いた。

 動かなかった。

 色の褪せた、毛羽立った紐が、何年も前からそうであったように、そこに掛かっていた。

 

「……固っ。結び目、固まってんのかな」

 裕太は手を離した。

 指先を見て、首を傾げて、それから私のほうを見た。

「ごめん、無理っぽい。……なんか、変な感じ。指に、力入んなかった」

 

 私は灰色の絵馬を見ていた。

 掛けし者、その手にて、心より手放すとき。

 心より。

 昨日の夜、花火の下で好きだと言ったばかりの人だった。

 その人に、ずっと一緒にいたい、を手放せと言っても、手放せるはずがなかった。この人の指が止まったのは、この人があの絵馬の言葉を、今も本気で思っているからだった。

 信じていない人には、手放す理由がない。

 この願いが何をしてきたのかを知っている人にしか、これは手放せないのだ。

 

 あの人が全部を思い出すのは。

 五月七日。

 大学二年の五月七日の朝。

 

「……渚沙?」

 裕太が私の顔を覗き込んだ。

 私は首を振った。

「……ううん。ごめん。変なこと、言った」

「いや、いいけど」

 裕太は私の頭にぽんと手を置いた。

「昨日、寝てないだろ。……帰ろ。送るから」

 

 鳥居をくぐって、坂を下りた。

 裕太の手は温かかった。

 何も知らない人の手だった。

 あの紐を外せなかった手だった。

 

 待たなければいけないのだと思った。

 あと、二年近く。

 この人が全部を思い出す朝まで。

 そのとき隣にいて、知ってる、と言う。

 それからあの絵馬の前に、この人を連れてくる。

 

 角を三つ曲がって、家の前に着いた。

 裕太は手を振って帰っていった。

 角を曲がる前に、一度だけ、振り返った。

 何か言いたそうな顔をして、何も言わずに、角の向こうへ消えた。

 

 私の頭に置かれた手の重さが、角を曲がって見えなくなってからも、髪に残っていた。