五月の水仙は枯れない

 夏祭りの次の朝、六時に家を出た。

 母には散歩、とだけ言った。

 住宅街はまだ眠っていた。どこかの家の庭で、水を撒く音がしていた。夜のうちに冷えた空気が、坂の途中でも、まだ肌に残っていた。

 鳥居の前で、足を止めた。

 境内には夏祭りの名残があった。屋台を畳んだあとの、四角く色の変わった砂利。石段の脇に寄せられた、提灯を吊るしていた縄。本殿の前の賽銭箱のまわりに、昨夜の人の足跡が、まだいくつも残っていた。

 誰もいなかった。

 

 鳥居をくぐった。

 本殿の前を通り過ぎた。

 本殿の脇の、暗がりのほうへ歩いた。

 昨夜、裕太がじっと見つめていた場所。

 一度目と二度目の夏祭りの夜に、裕太が、お守りを買いに行くと言って逸れていった場所。

 絵馬掛けが、あった。

 

 何百枚もの絵馬が、幾重にも重なって掛かっていた。

 五角形の木の板に、色とりどりのペンで書かれた願い。合格祈願。家内安全。恋愛成就。夏祭りの夜に書かれたばかりの新しいものが、一番手前に、ぎっしりと並んでいた。

 二度目の五月の終わりの夜に、私はここに立った。スマホの光を当てて、表に見えているものだけを眺めて、帰った。

 何を探せばいいのか、わからなかったから。

 今はわかっていた。

 

 手前の絵馬を、そっと脇に寄せた。

 一枚ずつ。紐が絡まないように。

 奥に、もう一列あった。春に書かれたらしい、少し日に焼けたもの。それも、脇に寄せた。

 さらに奥に、去年のものらしい、色の褪せた列があった。

 指先が冷たくなっていった。

 寄せても寄せても、知らない人の願いしか出てこなかった。

 ここではないのかもしれない、と思った。

 あの暗がりで、あの人は、何か別のことをしていたのかもしれない。インクは、お守りの袋に名前を書いたときのものだったのかもしれない。

 

 最後の列の、一番奥だった。

 

 一枚だけ、他と違う絵馬が掛かっていた。

 灰色だった。

 木の色が雨と風に晒されて、すっかり抜けていた。角が丸く削れて、表面に細かいひびが走っていた。掛けている紐も、色が褪せて、白っぽく毛羽立っていた。

 一年や二年で、こうはならない。

 何年も。

 何年も、ここに掛かっていたみたいだった。

 

 墨が薄れていた。

 それでも、読めた。

 渚沙とずっと一緒にいたい

 

 動けなかった。

 見覚えのある字だった。

 少し右上がりの、急いで書いたみたいな字。

 黒板の三十番の枠に書かれていた字。

 白いの減ってたから。 今里

 あの人の字だった。

 

 手を、伸ばしかけて、止めた。

 触れられなかった。

 触れたら、何かが崩れる気がした。

 私は絵馬掛けの前に立ったまま、その一枚を見ていた。

 渚沙とずっと一緒にいたい。

 あの人が、書いた。

 

 一度目と二度目の夏祭りの夜、あの人はこの暗がりへ逸れて、人差し指の脇にインクをつけて戻ってきた。家の前で、何かを言いかけて、やめた。

 昨夜は指に、インクがなかった。「渚沙、あのさ」も、「やっぱ、いいや」も、来なかった。

 来なかったのは、あの人がここで何も書かなかった夜だった。

 

 書いた夜には、言いかけて、やめた。

 書かなかった夜には、何も言いかけなかった。

 あの人が二度、玄関の明かりの下で言えずに飲み込んだのは、これだったのだ。

 渚沙とずっと一緒にいたい、と書いたこと。

 書いたことを、言おうとして、照れて、やめた。

 ただ、それだけのことだったのかもしれない。

 

 でも、この絵馬は、昨夜のものではなかった。

 一度目の夏祭りのものでも、二度目の夏祭りのものでもなかった。

 一年前に書かれた絵馬なら、こんなに灰色にはならない。二年前でも、たぶん、ならない。

 それなら、いつ。

 いつ、あの人は、これを書いたのか。

 

 一度目の夏祭りよりも、前に。

 私が何も知らずに、あの人と恋をした一度目の四月よりも、前に。

 私の知らない、どこかの夏に。

 

 膝から、力が抜けた。

 砂利の上に、しゃがみ込んだ。

 朝の光が、楠の枝のあいだから細かく落ちてきて、灰色の絵馬の表面を、ちらちらと照らしていた。

 何度も、過去に戻っている。

 三度目の最後に、あの人はそう言った。

 あの人は、私の知らない周を、生きていたのだ。

 私が一度目だと思っていた四月よりも、前の周を。

 そこで、この絵馬を書いた。

 渚沙とずっと一緒にいたい、と。

 

 そして、それから。

 それから、何が始まったのか。

 

 私はゆっくりと立ち上がった。

 本殿の脇の、古い木の立て札のほうを見た。

 二度目の春、夜のスマホの光の中で、途中までしか読めなかった立て札。

 朝の光が、その板の上に、斜めに差していた。