脇腹から、手を離した。
指先に、何もついていなかった。
紺色のブレザーの生地が、ただ乾いていた。
「——出席番号順な。相沢から」
前の席の子が立ち上がって、教卓へ歩いていく。
私は、膝の上で、両手を握った。
握った手の中に、まだ、あの人の頬の濡れた感触が残っている気がした。
ずっと、一人で、戻ってたの。
最期に、私はそう訊いた。
裕太は、答えなかった。答えないまま、私の手に、自分の手を重ねた。
四度目の四月だった。
一度目は、何も知らなかった。二度目は、知っていて、助けようとした。三度目は、知っていて、逃げた。
どれも、同じ場所に着いた。
そして、三度目の最後に、知った。
私だけではなかった。
箱から引いた紙は、四度目の二十九だった。三十番の枠には、少し右上がりの字で「今里」。私は「山吹」と書いて、交換はしなかった。
机を運んで、窓際の列へ。
窓の外で、校庭の桜が半分くらい散っていた。
心臓が、うるさかった。
来る。
隣の机が、がたん、と音を立てて止まる。
そして、あの人が。
何度も戻ってきた、あの人が。
「よっ、と」
声がした。
私は、顔を上げた。
裕太がいた。
机の端を両手で押さえて、位置を微妙に調整していた。一度前に出しすぎて、また少し引いた。
私を見た。
目が、合った。
私は、待った。
あの人の目の奥に、何かが浮かぶのを。
飲み会の暖簾をくぐったときの、探していたものをやっと見つけた人の顔を。
あの夜、床に座り込んで、ぼろぼろと涙を落としていた顔を。
浮かばなかった。
「よろしく。山吹さん、だよね」
息が、止まった。
何も、なかった。
あの人の目の中には、座席表で見たばかりの同級生の名前しか、なかった。
一度目の四月と、同じ顔だった。
「……うん」
やっと、それだけ言えた。
裕太は、少し首を傾げた。
「……大丈夫? 顔色、悪いけど」
私は、机の下で、自分の手を強く握った。
爪が、手のひらに食い込んだ。
この人は、覚えていない。
三度目の最後に、あれほど泣いていた人が。「……お前を、なくしたくないから」と言った人が。何度も過去に戻っている、と言った人が。
今、ここでは、何も覚えていない。
「……大丈夫」
声が出た。
「……ちょっと、寝不足で」
「そっか。無理すんなよ」
裕太は机に頬杖をついて、窓の外を見た。
私はその横顔を見ていた。
一度目の四月も、この横顔だった。
亜美も、何も知らない高三の顔で、窓際いいな、と笑った。改札の前で私の手首を掴んで泣いた亜美は、どこにもいなかった。
水曜日の昼休みには、隣でパンの袋が破れて、「昼いつもどこで食べてんの」が来た。今度は怖がらずに答えた。立ち上がる前に、口の端のパンくずを、指で教えた。この人は反対側をこすって、二度目で取れた。
金曜日の放課後には、「しゃべるの遅いよね」が来た。その続きは二度目の周では、とうとう聞けなかった。
「待ってると、ちゃんと来るじゃん。考えたやつが。……それが、いいなって。思っただけ」
全部を覚えている私のまま、何も覚えていないこの人の口から、もう一度聞いた。
その夜、水色のノートを開いた。
今度はあの人のことを書くためではなかった。私が知っていることを、並べるためだった。
一度目。あの人は五月七日の朝、変わった。『おはよ』が来なかった。
二度目。あの人は五月七日の朝、大学を休むと言った。そのまま、いなくなった。
三度目。あの人は五月の十日には、もう私の連絡先を探していた。
シャーペンが、止まった。
どの周も、あの人が変わるのは、五月七日だった。
あの人は五月七日に、思い出すのだ。
それまでの自分が、何度戻ってきたのかを。
だから、それまでは何も覚えていない。
だから、今日、あの顔で「よろしく」と言った。
ノートの上に、書いた。
五月七日。
四度目の四月から、二年と少し先。
何も覚えていないあの人と、二年間。
一度目も二度目も、私はあの人と恋をした。三度目は逃げた。
窓の外で、雨が降り始めていた。
私はノートを閉じた。
今度は、逃げない。
今度は、止めようともしない。
ただ、もう一度、この人と恋をする。
そして、五月七日の朝、この人が全部を思い出したとき、隣にいる。
言うのだ。
知ってる、と。
全部、知ってる、と。
今度は、一人にしない。
四月の終わり、雨の日だった。
六限が終わって、昇降口で靴を履き替えると、外はひどい土砂降りになっていた。
朝は晴れていた。傘を持ってきていなかった。
亜美は委員会で遅くなる日だった。
傘立ての傘が、一本、また一本と抜かれていって、生徒たちが雨の中へ出ていった。
校門の先が白く霞んでいた。
「——傘ないの?」
隣で、声がした。
裕太だった。
黒い傘を一本、手に提げていた。
「……ない」
「駅だよね、山吹さん」
「……うん」
「じゃあ、入る?」
裕太は傘を開いた。
黒い布がばさりと広がった。
「……いいの」
「いいって。どうせ同じ方向だし」
これまでの三回になかったのは、雨ではなかった。傘を持たない私と、傘を持ったこの人が、昇降口に二人きりでいることだった。
傘の中に、入った。
狭かった。
裕太の肩と、私の肩がほとんど触れそうだった。
雨の音が黒い布の上で、ばらばらと鳴っていた。
裕太は前を向いたまま歩いていた。
私も、黙ってその歩幅に合わせた。
沈黙が嫌ではなかった。
交差点で、裕太はまっすぐ駅のほうへ歩いた。
右には曲がらなかった。この人が「こっちのが近い」と言って曲がるのは、五月の、中間テストの前だった。
駅の屋根の下に着いた。
裕太が傘を閉じた。
水滴がコンクリートの上に、ぱたぱたと落ちた。
「……ありがとう」
「いいって」
裕太は傘を振って水を切った。
そのとき、見えた。
裕太の左肩が、びしょ濡れだった。
紺色のブレザーの肩から袖にかけて、雨がしみ込んで、色が変わっていた。
右肩は乾いていた。
私の肩も、乾いていた。
傘を、ずっと私のほうに傾けていたのだ。
校門から、ここまで。
黙ったまま。
裕太は、自分の肩には気づいていないような顔をしていた。
気づいていないふりをしているのだと、わかった。
言ったら、この人はきっと照れて、何でもない顔をする。
だから、言わなかった。
見ていた。
濡れた左肩を。
それから、改札へ向かう裕太の背中を。
「じゃあ、また明日」
裕太が振り返って、手を上げた。
「……また明日」
私も、手を上げた。
改札の向こうに、裕太の背中が消えていった。
雨の音が少しずつ弱くなっていった。
この人は何も覚えていない。
私が誰なのかも。私たちが何度、この四月を繰り返してきたのかも。
覚えていないまま、傘を私のほうに傾けて、自分の左肩を濡らしていた。
一度目も、二度目も、そうだった。
何も覚えていないこの人は、何度でも、私を好きになった。
そして今、四度目の私の前で、また。
胸の奥が痛いほど温かかった。
目の奥が熱かった。
こぼさないように、瞬きをこらえた。
あの雨の神社で涙が出なかったのとは、違う理由だった。
泣いたら、この温かさが、流れてしまう気がした。
私は駅の屋根の下で、濡れていない自分の両肩を、そっと抱いた。
指先に、何もついていなかった。
紺色のブレザーの生地が、ただ乾いていた。
「——出席番号順な。相沢から」
前の席の子が立ち上がって、教卓へ歩いていく。
私は、膝の上で、両手を握った。
握った手の中に、まだ、あの人の頬の濡れた感触が残っている気がした。
ずっと、一人で、戻ってたの。
最期に、私はそう訊いた。
裕太は、答えなかった。答えないまま、私の手に、自分の手を重ねた。
四度目の四月だった。
一度目は、何も知らなかった。二度目は、知っていて、助けようとした。三度目は、知っていて、逃げた。
どれも、同じ場所に着いた。
そして、三度目の最後に、知った。
私だけではなかった。
箱から引いた紙は、四度目の二十九だった。三十番の枠には、少し右上がりの字で「今里」。私は「山吹」と書いて、交換はしなかった。
机を運んで、窓際の列へ。
窓の外で、校庭の桜が半分くらい散っていた。
心臓が、うるさかった。
来る。
隣の机が、がたん、と音を立てて止まる。
そして、あの人が。
何度も戻ってきた、あの人が。
「よっ、と」
声がした。
私は、顔を上げた。
裕太がいた。
机の端を両手で押さえて、位置を微妙に調整していた。一度前に出しすぎて、また少し引いた。
私を見た。
目が、合った。
私は、待った。
あの人の目の奥に、何かが浮かぶのを。
飲み会の暖簾をくぐったときの、探していたものをやっと見つけた人の顔を。
あの夜、床に座り込んで、ぼろぼろと涙を落としていた顔を。
浮かばなかった。
「よろしく。山吹さん、だよね」
息が、止まった。
何も、なかった。
あの人の目の中には、座席表で見たばかりの同級生の名前しか、なかった。
一度目の四月と、同じ顔だった。
「……うん」
やっと、それだけ言えた。
裕太は、少し首を傾げた。
「……大丈夫? 顔色、悪いけど」
私は、机の下で、自分の手を強く握った。
爪が、手のひらに食い込んだ。
この人は、覚えていない。
三度目の最後に、あれほど泣いていた人が。「……お前を、なくしたくないから」と言った人が。何度も過去に戻っている、と言った人が。
今、ここでは、何も覚えていない。
「……大丈夫」
声が出た。
「……ちょっと、寝不足で」
「そっか。無理すんなよ」
裕太は机に頬杖をついて、窓の外を見た。
私はその横顔を見ていた。
一度目の四月も、この横顔だった。
亜美も、何も知らない高三の顔で、窓際いいな、と笑った。改札の前で私の手首を掴んで泣いた亜美は、どこにもいなかった。
水曜日の昼休みには、隣でパンの袋が破れて、「昼いつもどこで食べてんの」が来た。今度は怖がらずに答えた。立ち上がる前に、口の端のパンくずを、指で教えた。この人は反対側をこすって、二度目で取れた。
金曜日の放課後には、「しゃべるの遅いよね」が来た。その続きは二度目の周では、とうとう聞けなかった。
「待ってると、ちゃんと来るじゃん。考えたやつが。……それが、いいなって。思っただけ」
全部を覚えている私のまま、何も覚えていないこの人の口から、もう一度聞いた。
その夜、水色のノートを開いた。
今度はあの人のことを書くためではなかった。私が知っていることを、並べるためだった。
一度目。あの人は五月七日の朝、変わった。『おはよ』が来なかった。
二度目。あの人は五月七日の朝、大学を休むと言った。そのまま、いなくなった。
三度目。あの人は五月の十日には、もう私の連絡先を探していた。
シャーペンが、止まった。
どの周も、あの人が変わるのは、五月七日だった。
あの人は五月七日に、思い出すのだ。
それまでの自分が、何度戻ってきたのかを。
だから、それまでは何も覚えていない。
だから、今日、あの顔で「よろしく」と言った。
ノートの上に、書いた。
五月七日。
四度目の四月から、二年と少し先。
何も覚えていないあの人と、二年間。
一度目も二度目も、私はあの人と恋をした。三度目は逃げた。
窓の外で、雨が降り始めていた。
私はノートを閉じた。
今度は、逃げない。
今度は、止めようともしない。
ただ、もう一度、この人と恋をする。
そして、五月七日の朝、この人が全部を思い出したとき、隣にいる。
言うのだ。
知ってる、と。
全部、知ってる、と。
今度は、一人にしない。
四月の終わり、雨の日だった。
六限が終わって、昇降口で靴を履き替えると、外はひどい土砂降りになっていた。
朝は晴れていた。傘を持ってきていなかった。
亜美は委員会で遅くなる日だった。
傘立ての傘が、一本、また一本と抜かれていって、生徒たちが雨の中へ出ていった。
校門の先が白く霞んでいた。
「——傘ないの?」
隣で、声がした。
裕太だった。
黒い傘を一本、手に提げていた。
「……ない」
「駅だよね、山吹さん」
「……うん」
「じゃあ、入る?」
裕太は傘を開いた。
黒い布がばさりと広がった。
「……いいの」
「いいって。どうせ同じ方向だし」
これまでの三回になかったのは、雨ではなかった。傘を持たない私と、傘を持ったこの人が、昇降口に二人きりでいることだった。
傘の中に、入った。
狭かった。
裕太の肩と、私の肩がほとんど触れそうだった。
雨の音が黒い布の上で、ばらばらと鳴っていた。
裕太は前を向いたまま歩いていた。
私も、黙ってその歩幅に合わせた。
沈黙が嫌ではなかった。
交差点で、裕太はまっすぐ駅のほうへ歩いた。
右には曲がらなかった。この人が「こっちのが近い」と言って曲がるのは、五月の、中間テストの前だった。
駅の屋根の下に着いた。
裕太が傘を閉じた。
水滴がコンクリートの上に、ぱたぱたと落ちた。
「……ありがとう」
「いいって」
裕太は傘を振って水を切った。
そのとき、見えた。
裕太の左肩が、びしょ濡れだった。
紺色のブレザーの肩から袖にかけて、雨がしみ込んで、色が変わっていた。
右肩は乾いていた。
私の肩も、乾いていた。
傘を、ずっと私のほうに傾けていたのだ。
校門から、ここまで。
黙ったまま。
裕太は、自分の肩には気づいていないような顔をしていた。
気づいていないふりをしているのだと、わかった。
言ったら、この人はきっと照れて、何でもない顔をする。
だから、言わなかった。
見ていた。
濡れた左肩を。
それから、改札へ向かう裕太の背中を。
「じゃあ、また明日」
裕太が振り返って、手を上げた。
「……また明日」
私も、手を上げた。
改札の向こうに、裕太の背中が消えていった。
雨の音が少しずつ弱くなっていった。
この人は何も覚えていない。
私が誰なのかも。私たちが何度、この四月を繰り返してきたのかも。
覚えていないまま、傘を私のほうに傾けて、自分の左肩を濡らしていた。
一度目も、二度目も、そうだった。
何も覚えていないこの人は、何度でも、私を好きになった。
そして今、四度目の私の前で、また。
胸の奥が痛いほど温かかった。
目の奥が熱かった。
こぼさないように、瞬きをこらえた。
あの雨の神社で涙が出なかったのとは、違う理由だった。
泣いたら、この温かさが、流れてしまう気がした。
私は駅の屋根の下で、濡れていない自分の両肩を、そっと抱いた。
