五月の水仙は枯れない

 振り返った。

 アパートの階段の影に、相良さんが立っていた。

 黒いパーカーのフードを目深に被っていた。

「……相良、さん」

「女子会、楽しかった?」

 低い声だった。

 笑っているような声だった。

「三人でご飯、って言ってたよね。……男、何人いた?」

「……」

「位置、見てたよ。店の前まで行った。窓から、見えた」

 相良さんは一歩近づいてきた。

「あいつでしょ。今里」

 

 私は後ずさった。

 背中が階段の手すりに当たった。

「……違う。亜美が、呼んだだけで」

「送ってもらって。家の前まで。……俺、家の前まで送ったこと、何回あったっけ」

 相良さんの手が伸びてきた。

 手首を、掴まれた。

「上、行こ。話しよ」

「……相良さん、痛い」

「話、しよって」

 

 引きずられるように階段を上った。

 外廊下の突き当たりの私の部屋の前。

「鍵」

 震える手で鍵を出した。

 鍵穴になかなか入らなかった。

 相良さんの手が私の手の上から鍵を掴んで、差し込んで、回した。

 扉が開いた。

 背中を押された。

 暗い部屋の中に倒れ込むように入った。

 扉が、閉まった。

 

 明かりはつけられなかった。

 窓から入る街灯の光だけが、部屋の中をぼんやりと照らしていた。

 窓際のコップに白い花が挿さっていた。

 相良さんは台所の前に立っていた。

「俺さ」

 かすれた声だった。

「渚沙だけは、俺を見てくれると思ってた。……親父も、兄貴も、誰も見てくれなかったけど、渚沙だけは」

「……見てた」

「嘘だよ」

 相良さんの声が裏返った。

「あいつの顔、見てたでしょ。窓から見えたよ。……俺のこと、一回も、あんな顔で見たことないくせに」

 

 相良さんの手が台所の流しの上で、何かを掴んだ。

 街灯の光が、細く光った。

 包丁だった。

 息が、できなくなった。

「……相良さん」

「渚沙が悪いんだよ」

 相良さんは泣いていた。

 泣きながら包丁を握っていた。

「渚沙が、俺じゃないやつのこと考えるから。……ずっと、そうだったでしょ。付き合ってから、ずっと。俺の隣にいて、ずっと、どっか遠いとこ見てたでしょ」

 

 遠いところ。

 亜美も同じことを言った。

 今年の渚沙、ずっと、どっか遠いとこにいるみたい。

 私はずっと、遠いところを見ていた。

 最初の夏の石段を。二度目の夏の防波堤を。

 あの人のいない場所から、あの人が生きている場所を。

 

 扉が、激しく叩かれた。

「——山吹さん!」

 あの人の声だった。

 相良さんの肩が、跳ねた。

「山吹さん、開けて! ……いるだろ!」

 帰ったはずの人だった。

 角を曲がって見えなくなったはずの人だった。

 扉の鍵は閉まっていなかった。相良さんが閉め忘れていた。

 扉が、開いた。

 外廊下の明かりを背にして、あの人が立っていた。

 

 相良さんが振り返った。

 あの人を見た。

 包丁を、握り直した。

「——お前か」

 相良さんがあの人のほうへ、踏み出した。

 あの人は動かなかった。

 避けようとしなかった。

 私を見ていた。

 部屋の奥の、私を。

 まるで、自分に向かってくるものなんか、どうでもいいみたいに。

 

 体が、勝手に動いた。

 考えるより先に。

 言葉を探すより、ずっと先に。

 私は、あの人と相良さんのあいだに、飛び込んでいた。

 

 脇腹に、熱いものが入ってきた。

 

 音が、しなかった。

 痛みも、すぐには来なかった。

 ただ、熱かった。

 相良さんの顔が、目の前にあった。

 真っ白だった。

 自分の手を見て、私を見て、それから何かを叫んで、包丁から手を離した。

 後ずさって、あの人を突き飛ばして外廊下へ飛び出していった。

 足音が階段を駆け下りていった。

 

 膝から、力が抜けた。

 床に崩れる前に、誰かの腕が、私を抱きとめた。

「——渚沙!」

 あの人だった。

 床に座り込んで、私を抱えて、私の脇腹を両手で押さえていた。

「渚沙、渚沙、しっかりしろ。……今、救急車、呼ぶから」

 あの人の声が、震えていた。

 あの人の手が、濡れていた。

 温かかった。

 私の血だった。

 

「……なんで」

 声が、出た。

 自分の声ではないみたいに、遠かった。

「なんで、戻ってきたの」

「……顔」

 あの人は、片手でスマホを耳に当てながら、言った。

「スマホ見たときの、顔。……あれ、見たことあったから」

「……」

「前に、見たことあったんだよ。……同じ顔」

 

 前に。

 この世界で、あの人と私は、ほとんど話したことがなかった。

 あの人が、私のそんな顔を見たことは、一度もないはずだった。

「……前、って」

 あの人は、答えなかった。

 電話の向こうに住所を叫んでいた。

 叫び終えて、スマホを床に放って、両手で私の脇腹を押さえ直した。

 強く。

 痛いくらい、強く。

「……ごめん」

 あの人が、言った。

「ごめん、渚沙。……また、間に合わなかった」

 

 また。

 その言葉を、私は、前にも聞いていた。

 二度目の夏の海沿いの国道で。散らばった線香花火の横で。

 ごめん。また、間に合わなかった。

 あのとき、私は、聞き流した。救急車が来るから、しゃべらないで、と言って。

 今、私は、聞き流さなかった。

「……また、って」

 かすれた声で、言った。

「また、って、なに」

 

 あの人は、私の顔を見た。

 泣いていた。

 声を出さずに、ぼろぼろと、涙を落としていた。

 その涙が、私の頬に、落ちた。

 温かかった。

「……お前を、なくしたくないから」

 あの人の声が、崩れた。

「俺は、何度も、過去に戻ってるんだ」

 

 

 世界が、音を失った。

 

 何度も。

 過去に。

 戻っている。

 この人も。

 この人も、ずっと、同じ時間の中にいた。

 最初の夏の石段も。二度目の夏の防波堤も。高三の十一月の廊下も。今夜の飲み会の暖簾も。

 この人は、全部、知っていた。

 知っていて、私の名前を、呼んでしまった。

 知っていて、「何もしない、でも、いなくもならない」と言った。

 知っていて、また、私の前に、立っていた。

 最初の世界の、あの人の通夜で、萩原くんが言っていた。

 ——なあ朔。もし同じ日を何回もやり直せるとしたらさ、お前どうする。

 ゲームの話だと思った、と萩原くんは泣き笑いの顔で言った。

 ゲームの話ではなかった。

 一度目の五月の銀杏並木で、のど飴を押しつけて、「明日、熱出るから」と言った。

 私が顔をしかめていたからだ、と、あのときは思った。

 あれも、もしかしたら。

 

 ずっと、一人だと思っていた。

 この繰り返しの中で、覚えているのは、私だけだと。

 違った。

 この人も、ずっと、一人で。

 

 手を、伸ばした。

 あの人の頬に、触れた。

 濡れていた。

「……裕太」

 

 呼んだ。

 あの四月の朝から、二年半、一度も、心の中でさえ呼ばなかった名前を。

 あの人、としか呼ばずにきた人の、名前を。

 裕太が、目を見開いた。

「……渚沙」

「……ずっと、一人で、戻ってたの」

「……」

「……ずっと?」

 裕太は、答えなかった。

 答えないまま、私の手に自分の手を重ねた。

 それが、答えだった。

 

 遠くで、サイレンが鳴っていた。

 近づいてくるのか、遠ざかっていくのか、わからなかった。

 体が、冷たくなっていった。

 裕太の手だけが、温かかった。

「……ごめんね」

 私は、言った。

 何に謝っているのか、今度は、わかっていた。

「……一人に、して」

 

 裕太の顔が、滲んでいった。

 窓際のコップの白い花が、滲んでいった。

 街灯の光が、滲んでいった。

 最後に聞こえたのは、裕太が、私の名前を呼ぶ声だった。

 何度も。

 何度も。

 

    *

 

 チョークの粉の匂いがした。

 椅子を引く音。誰かの笑い声。窓の外で鳥が鳴いている。

「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」

 

 私は目を開けた。

 脇腹に、手を当てた。

 紺色のブレザーの下で、何も、痛まなかった。