五月の水仙は枯れない

 店を出ると、夜の空気が冷たかった。

 十月の下旬の、土曜日の夜。駅前の通りは、飲み会帰りの人たちで賑わっていた。

 昼過ぎの雨で濡れたアスファルトに、カラオケの看板の光が、赤や青に滲んでいた。どこかの店の前で、呼び込みの声が、同じ言葉を繰り返していた。

 亜美が私の腕を掴んだ。

「渚沙、ほんとに大丈夫? あたしも一緒に帰ろうか」

「……大丈夫。亜美、終電あるでしょ」

「あるけど」

 亜美は私の後ろに立っているあの人を、ちらりと見た。

 それから私の耳元で、小さな声で言った。

「……今里、悪いやつじゃないから」

「……知ってる」

 亜美は驚いたような顔をした。

 それから少しだけ笑って、「またね」と言って、萩原くんたちと改札のほうへ歩いていった。

 明るい茶色の髪が、人混みの中に紛れて、見えなくなった。

 

 一駅ぶんの道を、二人で歩いた。

 線路沿いの、細い道だった。ときどき頭の上を電車が通り過ぎて、そのたびに会話が途切れた。窓の明かりが、ひと続きの帯になって、私たちの上を流れていった。

 フェンスの向こうで、線路の砂利が、街灯の光を受けて、ところどころ白く浮いていた。どこかの家の庭から、金木犀の匂いがした。

 会話、と言えるほどのことは、ほとんどなかった。

 あの人は私の半歩前を歩いていた。車道側を。

 私の歩幅に合わせて、ゆっくりと。

 街灯の下を通るたびに、黒いジャケットの肩の上を、光が滑っていった。

 一度目の春の、最初の帰り道で、最初の十歩で私が小走りになりかけて、何も言わずにゆっくりになったのと、同じ速さだった。

 

「……東京、疲れたって言ってたじゃん」

 あの人が前を向いたまま言った。

「……うん」

「なんで、東京にしたの」

 答えを、探した。

 あなたから、離れるため。

 言えるはずがなかった。

「……昔から、行きたかったから」

「そっか」

 あの人は、それ以上、訊かなかった。

 前を向いたまま、少しだけ歩く速さを落とした。

 

 ポケットの中で、スマホが震えた。

 取り出して、画面を見た。

 相良さんからだった。

『今、どこ』

 着信が、また来ていた。四件目だった。

 位置共有のアプリを開いた。

 私の青い点が、線路沿いの道の上を、ゆっくり動いていた。

 相良さんの青い点は、どこにもなかった。

 地図の上から、消えていた。

 

 指先が、冷たくなった。

 位置共有を、切ったのだと思った。

 相良さんが自分の場所を、私に見せないようにしたのだと。

 いつから。

 どこで。

 私は、振り返った。

 線路沿いの道の、ずっと後ろのほうに、人影がいくつか見えた。どれも知らない人のように見えた。暗くて、よくわからなかった。

 遠くで、踏切の警報機が鳴り始めた。

「……どうした」

 あの人が足を止めた。

「……なんでもない」

 私はスマホをポケットにしまった。

 歩き出すと、靴の底が、濡れた落ち葉を踏んで、小さく滑った。あの人の手が、一瞬、こちらへ動いて、止まった。

 

 駅に着いた。

 改札の前は、さっきの駅よりずっと静かだった。売店のシャッターは、もう下りていた。自動改札の電子音が、ときどき思い出したように鳴った。

 私のアパートは、駅の改札を出て、角を二つ曲がった先だった。

「ここで、いい」

 私は言った。

 あの人は改札の前で立ち止まった。

 立ち止まったまま、動かなかった。

「……家の前まで、送る」

「……いい」

「送る」

 飲み会の廊下で聞いたのと、同じ言い方だった。

 引かない人の、言い方だった。

「……角、二つだけだから」

「じゃあ、角二つぶん」

 改札の横の時計は、十時を少し回っていた。

 

 角を一つ曲がった。

 街灯の少ない、住宅街の道だった。

 どこかの家の窓から、テレビの音が漏れていた。自転車が一台、ベルを鳴らさずに、私たちの横を追い越していった。あの人は少しだけ車道の側に寄った。

 角を二つ曲がった。

 古いアパートの、二階の外廊下が見えた。

 外廊下の蛍光灯が、一本だけ、切れかけて瞬いていた。

「……ここ」

 私は階段の下で立ち止まった。

 階段の下に、住人の自転車が三台、斜めに並んでいた。一台のかごに、誰かのチラシが、雨に濡れたまま貼りついていた。

 あの人はアパートを見上げた。二階の、私の部屋の窓を。明かりは、ついていなかった。

「……一人暮らし?」

「……うん」

「そっか」

 

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 頭の上を、最終に近い電車が通り過ぎていった。車輪の音が、線路のほうへ、長く尾を引いて遠ざかっていった。

「山吹さん」

「……うん」

「さっき、スマホ見たとき、顔、変わったよな」

 スマホを握る指に、力が入った。

「……変わってない」

「変わった」

 あの人は私の顔を見ていた。

 それから視線を下ろした。

 スマホを握っている私の手を。

 カーディガンの袖口から、ほんの少しだけ覗いている、手首を。

 

 あの人の顔から、表情が消えた。

 私は袖を引っ張った。

 遅かった。

「……それ」

「……ぶつけた」

「どこに」

 亜美と、同じことを訊いた。

 私は答えなかった。

 あの人は、長いあいだ、黙っていた。

 黙って、私の手首のあたりを見ていた。

 拳を握っているのが、わかった。

 

「……ごめん」

 あの人が、言った。

 何に謝っているのか、わからなかった。

「今日は、帰る。……でも、何かあったら、小野寺に連絡して。俺でもいい。番号、小野寺に渡しとくから」

「……」

「何もしない、って言ったよな。……でも、これは、何もしないってわけにいかない」

 あの人は一歩、後ろに下がった。

「おやすみ」

「……おやすみ」

 

 あの人が角を曲がって見えなくなるまで、私は階段の下に立っていた。

 一度も、振り返らなかった。

 振り返ってほしい、と思ったことに、自分で驚いた。

 階段の鉄の手すりに、手を置いた。夜の冷たさが、手のひらに移ってきた。頭の上で、切れかけた蛍光灯が、じじ、と小さく鳴った。

 

 ポケットの中で、スマホが震えた。

 相良さんからの、メッセージだった。

『見てたよ』

 

 背中のほうで、足音がした。