五月の水仙は枯れない

 亜美から電話があったのは、東京に来た日から十日後だった。

「来週の土曜、そっちで飲み会やるから。渚沙も来て」

「……飲み会」

「高校のメンバーで。朔と、美月と、あと何人か。東京に出てきてる子もいるし、こっちから行く子もいるし。……場所は、渚沙の駅の一つ隣にするから。近すぎると、彼氏に見つかりそうだし」

 亜美の声は明るかった。

 明るくしようとしている声だった。

「彼氏には、女子会って言えばいいよ。あたしと、美月と三人で飲むって。嘘じゃないし。途中からちょっと人数増えるだけ」

「……亜美」

「なに」

「……これ、あのときの、連れ出す方法?」

 電話の向こうで、亜美が少し黙った。

「一個目、かな」

 

 一個目、と亜美は言った。

 二個目も三個目も、考えているのだと思った。

「渚沙の周り、今、彼氏しかいないでしょ。……だから、ちょっとずつ、人を戻す。高校の友達とか、渚沙のこと昔から知ってる人とか。そういう人たちの中にいたら、渚沙、思い出すかもしれないじゃん」

「……何を」

「自分が、どういう顔で笑ってたか」

 

 私はスマホを耳に当てたまま、窓際のコップを見ていた。

 白い花が三本、挿さっていた。

 昨日、相良さんが持ってきたものだった。

「……行く」

 言ってから、自分で驚いた。

 亜美も驚いたようだった。

「……ほんと?」

「……うん」

「絶対だよ。ドタキャンしたら、あたし、渚沙の家まで迎えに行くからね」

 

 その週は、講義に出て、図書館で課題をして、夜は早く寝た。相良さんからの電話には、いつも通りに出た。いつも通りの声が出ることに、自分で少し驚いた。

 土曜日の夕方、相良さんにメッセージを送った。

『今日、亜美と、高校の友達と、三人でご飯行ってくる』

 既読はすぐについた。

『何時まで?』

『九時くらい』

『店どこ』

 店の名前を送った。

 既読のまま、五分ほど、何も来なかった。それから返事が来た。

『わかった。楽しんで』

 位置共有のアプリを開いた。

 私の青い点が、アパートにあった。相良さんの青い点は、大学の近くの相良さんのアパートにあった。

 二つの点は、電車で二駅、離れていた。

 家を出る前に、鏡の前で、カーディガンの袖を確かめた。外は昼過ぎに降った雨で、道路がまだ濡れていた。電車の窓を、細かい水滴が斜めに流れていった。

 

 店は、駅から歩いて五分のチェーンの居酒屋だった。

 入口の横に、今日のおすすめを書いた黒板が立てかけてあった。土曜日の夜の店の中は、どの席からも笑い声とグラスの音がしていた。

 座敷の奥の、仕切りのある部屋。暖簾をくぐると、亜美が「渚沙!」と手を振った。隣に早瀬さんがいた。その向かいに、萩原くんと、高校で同じクラスだった男の子が二人。

「山吹さん、久しぶり」

 萩原くんが大きな声で言った。

 高三の四月から、ほとんど話したことがなかった。それでも萩原くんの声は、一度目の春に、四つの机の上で聞いていたのと、同じ大きさだった。

「……久しぶり」

 私は亜美の隣に座った。

 座って、長袖の袖口を、指先まで引っ張った。

 亜美が何も言わずに、ソフトドリンクのページを開いたメニューを、私のほうへ向けてくれた。

 

 乾杯をして、みんなが近況を話し始めた。

 萩原くんと早瀬さんは、東京と隣の県の遠距離で、まだ続いているのだと言った。同じクラスだった男の子の一人は、来年から留学するのだと言った。

 テーブルの上に、枝豆と、唐揚げと、大きなサラダの皿が並んだ。早瀬さんが取り皿を一枚ずつ回してくれた。

 私はウーロン茶を飲みながら、聞いていた。

 誰も、私に答えを急かさなかった。

 話を振られると、少し遅れて答えた。遅れているあいだ、誰も、代わりに答えなかった。

 亜美がテーブルの下で、私の手をそっと握った。

 

 八時を少し過ぎたころだった。

 仕切りの向こうの部屋で、誰かの誕生日を祝う歌が始まって、店員の手拍子が重なった。

 萩原くんのスマホが、鳴った。

「あ、着いたって。……ちょっと、迎えに行ってくる」

 萩原くんが席を立った。

 亜美が一瞬だけ、私の顔を見た。

 何かを言おうとして、言わなかった。

「……誰か、来るの」

「……うん。朔が、連れてくるって」

 亜美はグラスを両手で持って、テーブルの上を見ていた。

「ごめん、渚沙。言わなくて。……言ったら、来なかったでしょ」

 

 心臓が、鳴った。

 誰が来るのか、訊かなくても、わかった。

 五月から、五回、私の連絡先を訊いてきた人。

 変なくらい必死だった人。

 立ち上がろうとした。

 足が、動かなかった。

 座布団の端を掴んだ指に、畳の目が食い込んだ。

 

 暖簾が、揺れた。

 萩原くんが先に入ってきた。

「お待たせー。……ほら、入れって」

 萩原くんの後ろから背の高い人が、暖簾をくぐった。

 黒いジャケット。少し伸びた髪。息が、少し上がっていた。駅から走ってきたのだとわかった。

 部屋の中を、見回した。

 私を、見つけた。

 

 目が、合った。

 

 高三の十一月、廊下で「俺、なんかした?」と訊かれた日から、夏の駅の、線路越しの一瞬を除けば、一度も、正面から見たことのない顔だった。

 最初の夏の石段で、指を組んで待っていた顔だった。

 二度目の夏の防波堤で、エンジンを鳴らしたまま見上げていた顔だった。

 あの人だった。

 何も変わっていなかった。

 なのに、何かが、決定的に違っていた。

 

 あの人の目が、私の顔の上で、止まっていた。

 驚いている顔ではなかった。

 探していたものを、やっと見つけた人の顔だった。

 見つけて、それが、まだそこにあることを、確かめている顔だった。

 あの人の唇が、動いた。

「——渚沙」

 

 部屋が、静かになった。

 萩原くんが、「え」と言った。

 早瀬さんが、グラスを持ったまま止まった。

 亜美が、私の手を、強く握った。

 あの人は、自分の口を押さえた。

 それから、ゆっくりと、手を下ろした。

「……ごめん、山吹さん。高校のとき、周りがそう呼んでたから」

 

 嘘だった。

 高校のとき、私を「渚沙」と呼んでいたのは、亜美と、家族だけだった。

 この世界では。

 あの人は、私を、一度も、下の名前で呼んだことがなかった。

 この世界では。

 私は、テーブルの下で、亜美の手を握り返した。

 握っていないと、どこかへ落ちていきそうだった。