「……駅のほう」
「あ、同じだ」
今里くんは嬉しそうに言った。
知っていた。
知っていたけれど、今まで一度も、一緒に帰ったことはなかった。今里くんはいつも萩原くんと帰っていたし、私は亜美と帰っていた。
今日は、萩原くんは部活で、亜美は歯医者だった。
校門を出て、二人で並んで歩いた。
今里くんの歩幅は、私より大きい。最初の十歩くらいで私が小走りになりかけて、それに気づいた今里くんが、何も言わずにゆっくりになった。
住宅街の中を抜けていく道。垣根から、つつじの花がこぼれている。どこかの家から、夕飯の匂いがした。
「こっち」
交差点で今里くんが右を指した。
駅は、まっすぐだった。
「……駅、あっちだよ」
「こっちのが近い」
そうだっただろうか。
私は、この道を三年間通っている。ここを右に曲がったことは、一度もなかった。
でも、今里くんがもう曲がり始めていたので、私もついていった。
坂を少し上ったところに神社があった。
古い石の鳥居。その向こうに、小さな本殿が見える。境内には大きな楠が一本立っていて、夕方の光を枝の間から細かく落としていた。
「ここ、抜けられんの」
今里くんは慣れた様子で鳥居をくぐった。
「知ってた?」
「……知らなかった」
「俺、中学のとき、よく来てた。塾サボって」
「サボってたの」
「ちょっとだけ」
砂利を踏む音が、二人分、境内に響いた。
本殿の脇に古い木の立て札があった。
雨風に晒されて、灰色に褪せている。墨で書かれた文字が、ところどころかすれていた。その奥で、黄色い花が一輪、揺れていた。
私は、なんとなく足を止めた。
この社は、古くより——
一行目を読んだところで、
「山吹さん」
呼ばれて、顔を上げた。
今里くんが、本殿の前の石段に座っていた。
「ちょっと休憩」
ぽん、と自分の隣の段を叩く。
私は立て札から離れて、その隣に座った。
石段は、昼間の熱をまだわずかに残していた。
二人とも、黙って座っていた。
楠の葉が、風に揺れて鳴っていた。境内の奥で、鳩が一羽、地面をつついている。
沈黙が、嫌ではなかった。
誰かと二人きりで黙っているのが、こんなに楽なのは初めてだった。何か言わなきゃ、と焦らなくていい。言葉が来るまで、待っていればいい。
「山吹さんってさ」
今里くんが膝の上で指を組んだ。
「卒業したら、何したいとかある?」
私は、少し考えた。
考えて、考えて、それでもうまくまとまらなかった。
「……まだ、わかんない」
「そっか」
「今里くんは?」
「俺も、わかんない」
今里くんは空を見上げた。
「でも、なんか、こういうのがいいなって思う」
「……こういうの?」
「こういう。なんもしてないけど、いい感じのやつ」
意味がわからなくて、私は今里くんの横顔を見た。
今里くんも、自分で言ってよくわかっていないような顔をしていた。
それがおかしくて、私は少し笑った。
「なんだよ」
「ううん。……私も、それ、いいと思う」
「な」
今里くんも、笑った。
鳩が、ばさばさと音を立てて飛び立った。
今里くんはその行方を目で追っていた。灰色の羽が、楠の梢を越えて見えなくなるまで。
それから、前を向いたまま、言った。
「あのさ」
「うん」
「山吹さんって、言いにくくない?」
「……え」
「や、ま、ぶ、き、さ、ん。六文字。長い」
「……自分で、言ってるのに」
「そう。だから、長い」
今里くんは、組んだ指をほどいて、また組んだ。
「渚沙って、呼んでいい?」
心臓が、変な音を立てた。
なぎさ。
家族と亜美以外に、そう呼ばれたことはほとんどなかった。
今里くんの声で聞くと、自分の名前が、知らない言葉みたいに聞こえた。
答えなきゃ、と思った。
いいよ、と言えばいい。三文字だ。今里くんの理屈なら、短いほうがいい。
口が、開かなかった。
頭の中で、言葉がぐるぐる回っていた。いいよ。うん。別に。どうぞ。どれも合っている気がして、どれも違う気がした。
隣を見ると、今里くんは前を向いたままだった。
膝の上の指が、少しだけ強く組まれていた。
でも、急かさなかった。
聞き返しもしなかった。
ただ、待っていた。
石段の上で、楠の葉の音を聞きながら、私の言葉が来るのを、待っていた。
「……いいよ」
やっと、それだけ言えた。
今里くんが、こちらを向いた。
「やった」
子どもみたいな笑い方だった。
それから、少し照れたように、鼻の頭を指でこすった。
「……渚沙」
「……うん」
「呼んでみただけ」
「……知ってる」
今里くんは声を出して笑って、立ち上がった。制服のズボンについた砂を払って、私に手を差し出した。
私は、その手を見た。
見ている間に、今里くんが「あ」と言って、手を引っ込めかけた。
引っ込める前に、私はその手を掴んだ。
今里くんの手は、思っていたより大きくて、かすかに汗ばんでいた。
引っ張り上げられて、立ち上がった。手は、すぐに離れた。
「行こ」
今里くんが、先に歩き出した。
私は、鳥居のほうへ向かうその背中を見ていた。
本殿の脇を通るとき、立て札に、もう一度だけ目をやった。
一行目の続きは、読まなかった。
神社を抜けた先の道は、ぐるりと大きく回り込んで、さっきの交差点の少し先に出た。
駅まで、どう考えても遠回りだった。
「……近くなかった」
「え、そう?」
今里くんはとぼけた顔で前を向いていた。
私は、返事の代わりに、歩く速さを少しだけ落とした。
言わなくても、たぶん、伝わっている気がした。
家に帰って、制服のまま、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見ていた。
渚沙、と呼ぶ声が、まだ耳の奥に残っていた。
差し出された手。すぐに離れた手。近くなかった、と言ったときの、とぼけた横顔。
石段の上で、何も言わずに待っていた、組まれた指。
私は、枕に顔を埋めた。
胸の奥で、何かが形になりかけていた。
いつものように、少し時間がかかった。
かかったけれど、ちゃんと来た。
——今里くんのことが、好きだ。
「あ、同じだ」
今里くんは嬉しそうに言った。
知っていた。
知っていたけれど、今まで一度も、一緒に帰ったことはなかった。今里くんはいつも萩原くんと帰っていたし、私は亜美と帰っていた。
今日は、萩原くんは部活で、亜美は歯医者だった。
校門を出て、二人で並んで歩いた。
今里くんの歩幅は、私より大きい。最初の十歩くらいで私が小走りになりかけて、それに気づいた今里くんが、何も言わずにゆっくりになった。
住宅街の中を抜けていく道。垣根から、つつじの花がこぼれている。どこかの家から、夕飯の匂いがした。
「こっち」
交差点で今里くんが右を指した。
駅は、まっすぐだった。
「……駅、あっちだよ」
「こっちのが近い」
そうだっただろうか。
私は、この道を三年間通っている。ここを右に曲がったことは、一度もなかった。
でも、今里くんがもう曲がり始めていたので、私もついていった。
坂を少し上ったところに神社があった。
古い石の鳥居。その向こうに、小さな本殿が見える。境内には大きな楠が一本立っていて、夕方の光を枝の間から細かく落としていた。
「ここ、抜けられんの」
今里くんは慣れた様子で鳥居をくぐった。
「知ってた?」
「……知らなかった」
「俺、中学のとき、よく来てた。塾サボって」
「サボってたの」
「ちょっとだけ」
砂利を踏む音が、二人分、境内に響いた。
本殿の脇に古い木の立て札があった。
雨風に晒されて、灰色に褪せている。墨で書かれた文字が、ところどころかすれていた。その奥で、黄色い花が一輪、揺れていた。
私は、なんとなく足を止めた。
この社は、古くより——
一行目を読んだところで、
「山吹さん」
呼ばれて、顔を上げた。
今里くんが、本殿の前の石段に座っていた。
「ちょっと休憩」
ぽん、と自分の隣の段を叩く。
私は立て札から離れて、その隣に座った。
石段は、昼間の熱をまだわずかに残していた。
二人とも、黙って座っていた。
楠の葉が、風に揺れて鳴っていた。境内の奥で、鳩が一羽、地面をつついている。
沈黙が、嫌ではなかった。
誰かと二人きりで黙っているのが、こんなに楽なのは初めてだった。何か言わなきゃ、と焦らなくていい。言葉が来るまで、待っていればいい。
「山吹さんってさ」
今里くんが膝の上で指を組んだ。
「卒業したら、何したいとかある?」
私は、少し考えた。
考えて、考えて、それでもうまくまとまらなかった。
「……まだ、わかんない」
「そっか」
「今里くんは?」
「俺も、わかんない」
今里くんは空を見上げた。
「でも、なんか、こういうのがいいなって思う」
「……こういうの?」
「こういう。なんもしてないけど、いい感じのやつ」
意味がわからなくて、私は今里くんの横顔を見た。
今里くんも、自分で言ってよくわかっていないような顔をしていた。
それがおかしくて、私は少し笑った。
「なんだよ」
「ううん。……私も、それ、いいと思う」
「な」
今里くんも、笑った。
鳩が、ばさばさと音を立てて飛び立った。
今里くんはその行方を目で追っていた。灰色の羽が、楠の梢を越えて見えなくなるまで。
それから、前を向いたまま、言った。
「あのさ」
「うん」
「山吹さんって、言いにくくない?」
「……え」
「や、ま、ぶ、き、さ、ん。六文字。長い」
「……自分で、言ってるのに」
「そう。だから、長い」
今里くんは、組んだ指をほどいて、また組んだ。
「渚沙って、呼んでいい?」
心臓が、変な音を立てた。
なぎさ。
家族と亜美以外に、そう呼ばれたことはほとんどなかった。
今里くんの声で聞くと、自分の名前が、知らない言葉みたいに聞こえた。
答えなきゃ、と思った。
いいよ、と言えばいい。三文字だ。今里くんの理屈なら、短いほうがいい。
口が、開かなかった。
頭の中で、言葉がぐるぐる回っていた。いいよ。うん。別に。どうぞ。どれも合っている気がして、どれも違う気がした。
隣を見ると、今里くんは前を向いたままだった。
膝の上の指が、少しだけ強く組まれていた。
でも、急かさなかった。
聞き返しもしなかった。
ただ、待っていた。
石段の上で、楠の葉の音を聞きながら、私の言葉が来るのを、待っていた。
「……いいよ」
やっと、それだけ言えた。
今里くんが、こちらを向いた。
「やった」
子どもみたいな笑い方だった。
それから、少し照れたように、鼻の頭を指でこすった。
「……渚沙」
「……うん」
「呼んでみただけ」
「……知ってる」
今里くんは声を出して笑って、立ち上がった。制服のズボンについた砂を払って、私に手を差し出した。
私は、その手を見た。
見ている間に、今里くんが「あ」と言って、手を引っ込めかけた。
引っ込める前に、私はその手を掴んだ。
今里くんの手は、思っていたより大きくて、かすかに汗ばんでいた。
引っ張り上げられて、立ち上がった。手は、すぐに離れた。
「行こ」
今里くんが、先に歩き出した。
私は、鳥居のほうへ向かうその背中を見ていた。
本殿の脇を通るとき、立て札に、もう一度だけ目をやった。
一行目の続きは、読まなかった。
神社を抜けた先の道は、ぐるりと大きく回り込んで、さっきの交差点の少し先に出た。
駅まで、どう考えても遠回りだった。
「……近くなかった」
「え、そう?」
今里くんはとぼけた顔で前を向いていた。
私は、返事の代わりに、歩く速さを少しだけ落とした。
言わなくても、たぶん、伝わっている気がした。
家に帰って、制服のまま、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見ていた。
渚沙、と呼ぶ声が、まだ耳の奥に残っていた。
差し出された手。すぐに離れた手。近くなかった、と言ったときの、とぼけた横顔。
石段の上で、何も言わずに待っていた、組まれた指。
私は、枕に顔を埋めた。
胸の奥で、何かが形になりかけていた。
いつものように、少し時間がかかった。
かかったけれど、ちゃんと来た。
——今里くんのことが、好きだ。
