九月になっても、暑い日が続いた。
昼になると、欅の下のベンチに日陰を探す学生が集まった。講義室の窓は開け放たれて、天井の古い扇風機が、ぎこちなく回っていた。
キャンパスでは、みんなが半袖を着ていた。
私だけが、長袖を着ていた。
「山吹さん、暑くないの」
ゼミの女の子に訊かれた。
「……冷房、苦手で」
「えー、でも外、三十度あるよ」
「……うん」
私はカーディガンの袖を、指先まで引っ張った。
袖口の毛糸が、汗で手の甲に貼りついた。
二度としない、と相良さんは言った。
二度目は、八月の終わりだった。
三度目は、九月の半ばだった。
どれも最初と同じだった。何かのきっかけで、相良さんの声が低くなる。私の言葉が遅れる。遅れているあいだに、手が伸びてくる。
終わると、相良さんは泣いて謝った。次の日には、花を持ってきた。
窓際のコップには、いつも白い花が挿さっていた。
枯れる前に、次の花が来た。
古い花は、ゴミの日の朝に新聞紙に包んで出した。包むとき、乾いた花びらが、指のあいだでかさかさと崩れた。
相良さんは優しい日もあった。
熱を出した日には、コンビニでスポーツドリンクとゼリーを買ってきて、一晩中そばにいてくれた。額に冷たいタオルを当てて、「大丈夫、大丈夫」と言いながら、私の髪を撫でてくれた。
枕元で、ゼリーの蓋が半分だけ開いていた。カーテンの隙間から入る街灯の光が、天井に細い線を引いていた。
「俺、渚沙がいないと、ダメなんだよ」
熱に浮かされた耳に、その声が何度も聞こえた。
ある夜、相良さんが酔って電話をかけてきた。
日付が変わる少し前だった。電話の向こうで、どこかの駅のアナウンスがくぐもって聞こえていた。
実家からの帰りだと言った。父親と、また言い合いになったのだと。
相良さんの実家は、私の町と同じ県の北のほうにあった。
「親父がさ、お前は昔から中途半端だって。……兄貴と比べて、ずっと、そう言われてきた」
電話の向こうで、相良さんの声が子どもみたいに揺れていた。
「誰も、俺のこと、ちゃんと見てくれなかった。……渚沙が、初めてなんだよ。俺の話、最後まで聞いてくれたの」
最後まで。
私はただ、言葉が遅れて、黙っていただけだった。
黙っているあいだ、この人はずっと話し続けていた。
あの人なら、待ってくれた。
ふとそう思った。
思ってしまってから、スマホを握る手に、力が入った。
「……渚沙? 聞いてる?」
「……うん。聞いてる」
窓の外を、酔った誰かの笑い声が、ゆっくり遠ざかっていった。
優しさと、そうでないものが、同じ手から来ていた。
だから、わからなくなった。
どちらが本当の相良さんなのか。
どちらも、本当なのか。
わからないまま、私はここにいた。
九月の終わりになって、ようやく朝晩が涼しくなった。講義室の窓の外で、欅の葉の先が少しだけ黄色くなり始めていた。
十月の初め、亜美から電話がかかってきた。
「渚沙、今週末、そっち行っていい?」
「……え」
「東京。久しぶりに、会いたい。……あたし、渚沙の住んでるとこ、一回も見たことないし」
断ろうとした。
断る理由を、探した。
探しているあいだに、亜美が言った。
「断らないでね。もう、新幹線の切符、取ったから」
新幹線ではなかった。在来線で、一時間半の距離だった。
亜美なりの、冗談だった。
私はほんの少し笑った。笑ったのは、久しぶりだった。
「……うん。待ってる」
電話を切ってから、部屋を見回した。
窓際のコップの白い花が、少し首を垂れていた。床に落ちた髪の毛を一本ずつ拾った。それから窓を開けて、こもった空気を入れ替えた。
土曜日の昼、駅の改札で、亜美を待った。
人の流れの中に、見覚えのある髪を見つけた。卒業式の日より、少し伸びていた。明るい茶色に染まっていた。
「渚沙!」
亜美が大きく手を振った。
駆け寄ってきて、私の両手を掴んだ。
その瞬間、亜美の表情が、止まった。
私の手首を掴んだ指が、カーディガンの袖をほんの少し押し上げていた。
袖の下の、黄色く変わりかけた痣が、見えていた。
私は手を引こうとした。
亜美は離さなかった。
「……渚沙」
低い声だった。
高三の夏、電話の向こうで「あたし、何かした?」と訊いたときとは、まるで違う声だった。
「これ、なに」
「……ぶつけた」
「どこに」
「……ドアに」
「両方の手首を?」
亜美は私のもう一方の手も掴んで、袖を押し上げた。
同じ形の痣が、あった。
改札の前を、人が流れていった。誰も、私たちを見ていなかった。
亜美は長いあいだ、黙っていた。
黙って、私の手首を見ていた。
「彼氏?」
私は答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。
亜美の手が、震えていた。
「……ねえ、渚沙」
「……うん」
「なんで、別れないの」
言葉を、探した。
探して、見つけた言葉は、口に出せば、ひどく間違っているとわかる言葉だった。
私がここにいれば、あの人は死なない。
この人のそばにいれば、あの人のそばにいなくて済む。
これくらい、あの人がいなくなることに比べたら。
どれも言えなかった。
言えば、亜美は、私が頭がおかしくなったと思う。
「……相良さん、優しいときも、あるから」
やっとそれだけ言った。
亜美の顔が、歪んだ。
「優しいときもある、は、理由にならないよ」
はっきりした声だった。
「優しい人は、手首に痣つけない。……つけたあとで優しくするのは、優しいんじゃない。渚沙を逃がさないためだよ」
「……」
「渚沙が、何を考えてるのか、あたしには、わかんない。高三のときから、ずっと、わかんない。……でも、これは、違う。これだけは、絶対に、違う」
亜美の目から、涙が一粒、落ちた。
私の手首の上に、落ちた。
温かかった。
「……ごめん」
私は言った。
何に謝っているのか、わからなかった。
「謝らないで。渚沙が謝ることじゃない」
亜美は私の手首を、両手で包んだ。
それから顔を上げて、改札の向こうを見た。
「……あたし、一人じゃ、どうにもできない気がする」
亜美は唇を噛んだ。
「ちょっと、考えさせて。……渚沙を、ここから連れ出す方法」
昼になると、欅の下のベンチに日陰を探す学生が集まった。講義室の窓は開け放たれて、天井の古い扇風機が、ぎこちなく回っていた。
キャンパスでは、みんなが半袖を着ていた。
私だけが、長袖を着ていた。
「山吹さん、暑くないの」
ゼミの女の子に訊かれた。
「……冷房、苦手で」
「えー、でも外、三十度あるよ」
「……うん」
私はカーディガンの袖を、指先まで引っ張った。
袖口の毛糸が、汗で手の甲に貼りついた。
二度としない、と相良さんは言った。
二度目は、八月の終わりだった。
三度目は、九月の半ばだった。
どれも最初と同じだった。何かのきっかけで、相良さんの声が低くなる。私の言葉が遅れる。遅れているあいだに、手が伸びてくる。
終わると、相良さんは泣いて謝った。次の日には、花を持ってきた。
窓際のコップには、いつも白い花が挿さっていた。
枯れる前に、次の花が来た。
古い花は、ゴミの日の朝に新聞紙に包んで出した。包むとき、乾いた花びらが、指のあいだでかさかさと崩れた。
相良さんは優しい日もあった。
熱を出した日には、コンビニでスポーツドリンクとゼリーを買ってきて、一晩中そばにいてくれた。額に冷たいタオルを当てて、「大丈夫、大丈夫」と言いながら、私の髪を撫でてくれた。
枕元で、ゼリーの蓋が半分だけ開いていた。カーテンの隙間から入る街灯の光が、天井に細い線を引いていた。
「俺、渚沙がいないと、ダメなんだよ」
熱に浮かされた耳に、その声が何度も聞こえた。
ある夜、相良さんが酔って電話をかけてきた。
日付が変わる少し前だった。電話の向こうで、どこかの駅のアナウンスがくぐもって聞こえていた。
実家からの帰りだと言った。父親と、また言い合いになったのだと。
相良さんの実家は、私の町と同じ県の北のほうにあった。
「親父がさ、お前は昔から中途半端だって。……兄貴と比べて、ずっと、そう言われてきた」
電話の向こうで、相良さんの声が子どもみたいに揺れていた。
「誰も、俺のこと、ちゃんと見てくれなかった。……渚沙が、初めてなんだよ。俺の話、最後まで聞いてくれたの」
最後まで。
私はただ、言葉が遅れて、黙っていただけだった。
黙っているあいだ、この人はずっと話し続けていた。
あの人なら、待ってくれた。
ふとそう思った。
思ってしまってから、スマホを握る手に、力が入った。
「……渚沙? 聞いてる?」
「……うん。聞いてる」
窓の外を、酔った誰かの笑い声が、ゆっくり遠ざかっていった。
優しさと、そうでないものが、同じ手から来ていた。
だから、わからなくなった。
どちらが本当の相良さんなのか。
どちらも、本当なのか。
わからないまま、私はここにいた。
九月の終わりになって、ようやく朝晩が涼しくなった。講義室の窓の外で、欅の葉の先が少しだけ黄色くなり始めていた。
十月の初め、亜美から電話がかかってきた。
「渚沙、今週末、そっち行っていい?」
「……え」
「東京。久しぶりに、会いたい。……あたし、渚沙の住んでるとこ、一回も見たことないし」
断ろうとした。
断る理由を、探した。
探しているあいだに、亜美が言った。
「断らないでね。もう、新幹線の切符、取ったから」
新幹線ではなかった。在来線で、一時間半の距離だった。
亜美なりの、冗談だった。
私はほんの少し笑った。笑ったのは、久しぶりだった。
「……うん。待ってる」
電話を切ってから、部屋を見回した。
窓際のコップの白い花が、少し首を垂れていた。床に落ちた髪の毛を一本ずつ拾った。それから窓を開けて、こもった空気を入れ替えた。
土曜日の昼、駅の改札で、亜美を待った。
人の流れの中に、見覚えのある髪を見つけた。卒業式の日より、少し伸びていた。明るい茶色に染まっていた。
「渚沙!」
亜美が大きく手を振った。
駆け寄ってきて、私の両手を掴んだ。
その瞬間、亜美の表情が、止まった。
私の手首を掴んだ指が、カーディガンの袖をほんの少し押し上げていた。
袖の下の、黄色く変わりかけた痣が、見えていた。
私は手を引こうとした。
亜美は離さなかった。
「……渚沙」
低い声だった。
高三の夏、電話の向こうで「あたし、何かした?」と訊いたときとは、まるで違う声だった。
「これ、なに」
「……ぶつけた」
「どこに」
「……ドアに」
「両方の手首を?」
亜美は私のもう一方の手も掴んで、袖を押し上げた。
同じ形の痣が、あった。
改札の前を、人が流れていった。誰も、私たちを見ていなかった。
亜美は長いあいだ、黙っていた。
黙って、私の手首を見ていた。
「彼氏?」
私は答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。
亜美の手が、震えていた。
「……ねえ、渚沙」
「……うん」
「なんで、別れないの」
言葉を、探した。
探して、見つけた言葉は、口に出せば、ひどく間違っているとわかる言葉だった。
私がここにいれば、あの人は死なない。
この人のそばにいれば、あの人のそばにいなくて済む。
これくらい、あの人がいなくなることに比べたら。
どれも言えなかった。
言えば、亜美は、私が頭がおかしくなったと思う。
「……相良さん、優しいときも、あるから」
やっとそれだけ言った。
亜美の顔が、歪んだ。
「優しいときもある、は、理由にならないよ」
はっきりした声だった。
「優しい人は、手首に痣つけない。……つけたあとで優しくするのは、優しいんじゃない。渚沙を逃がさないためだよ」
「……」
「渚沙が、何を考えてるのか、あたしには、わかんない。高三のときから、ずっと、わかんない。……でも、これは、違う。これだけは、絶対に、違う」
亜美の目から、涙が一粒、落ちた。
私の手首の上に、落ちた。
温かかった。
「……ごめん」
私は言った。
何に謝っているのか、わからなかった。
「謝らないで。渚沙が謝ることじゃない」
亜美は私の手首を、両手で包んだ。
それから顔を上げて、改札の向こうを見た。
「……あたし、一人じゃ、どうにもできない気がする」
亜美は唇を噛んだ。
「ちょっと、考えさせて。……渚沙を、ここから連れ出す方法」
