五月の水仙は枯れない

 五月七日の夜の電話から、相良さんは少しずつ変わっていった。

 変わっていった、と思っていた。

 新歓の座敷で、私の出身を、私の代わりに答えた。好きだと言ったあとで、私の返事を先に決めた。撮られるのが苦手だと言った私に、シャッターを切り続けた。

 どれも最初から、そこにあった。

 私が見ないようにしていただけだった。

 

 五月の十日、亜美から、メッセージが来た。

『渚沙、今里が、渚沙の連絡先教えてって言ってきた』

『なんか、すごい真剣な顔で。朔経由で』

『教えていい?』

 

 私はスマホを握ったまま、ベッドの上で動けなくなった。

 あの人が。

 私の連絡先を。

 二年間、一度もまともに話さなかった人が。避け続けた人が。何もしないで、と言った人が。

 なぜ、今。

 指が、画面の上で止まっていた。

 教えて、と打ちたかった。

 打てなかった。

 打ったら、全部が、また始まる。あの人が私に近づく。近づいたあの人は、また私から離れようとする。離れようとして、いなくなる。

 一度目も、二度目も、そうだった。

『ごめん。教えないで』

 打って、送った。

 送ってから、スマホを伏せた。

 その夜、相良さんから、二度目の「誰と話してた?」の電話がかかってきた。

 

 五月の半ば、相良さんが私のスマホにアプリをひとつ入れた。

「位置、共有しとこ。心配だから」

 アパートの近くのファミレスで、向かいの席から、相良さんは私のスマホを受け取って、慣れた手つきで設定を進めた。

「最近、変なニュース多いじゃん。夜、一人で帰るとき、どこにいるかわかってたら安心だし」

「……うん」

「俺のも見れるようにしとくから。お互いさま」

 画面に、地図が映った。

 青い点が二つ。一つは私で、一つは相良さんだった。

 同じ店の、同じテーブルの上で、二つの点が重なっていた。

 

 五月二十七日の朝、五時に目が覚めた。

 枕元のスマホを見た。五時十二分。

 何も、鳴らなかった。

 一度目の世界の今日、あの人はこの時間に、息を止めた。

 今年のあの人がどこで何をしているのか、私は知らなかった。知らないように、してきた。

 それでもこの時間に、何も鳴らない。

 スマホの画面には、位置共有のアプリの通知が、ひとつだけ来ていた。相良さんが朝のジョギングに出たらしかった。青い点が、公園の周りを、ゆっくり回っていた。

 私はその点を見ながら、息を吐いた。

 

 それから相良さんはよく電話をくれるようになった。

「今、図書館?」

「……うん」

「四限、休講だったんだ。知らなかった」

 四限が休講になったことを、私は相良さんに言っていなかった。

 電話を切ったあと、地図の上の自分の青い点を、長いあいだ見ていた。

 

 六月の初め、相良さんが私のスマホの連絡先を一つずつ見ていった。

「この、ゼミの……木村って、男?」

「……うん。課題の連絡用で」

「そっか」

 相良さんは画面を繰る指を止めて、その名前を見ていた。

「課題なら、グループのほうで連絡取れるよね。……個別のは、消してくれたら、俺、安心するんだけど」

 怒っている声ではなかった。

 お願いする声だった。

 首を少し傾けて、私の顔を覗き込んで。

「……うん」

 私は自分の指で、その連絡先を消した。

 相良さんはほっとしたように笑って、私の頭を撫でた。

「ありがと。……ごめんね、面倒くさい彼氏で」

 面倒くさいとは、思わなかった。

 この人が安心するなら、それでいいと思った。

 夏が来るまでに、私のスマホの連絡先は、半分になっていた。

 

 梅雨が来て、アパートの窓に、毎日雨が当たった。

 部屋の中に、乾ききらない洗濯物の匂いがこもった。講義室の床は、湿気を吸って、いつもより低い音できしんだ。

 相良さんは就職活動がうまくいっていないようだった。面接の帰りに、私のアパートに寄って、何も言わずにベッドに倒れ込むことが増えた。

「俺、なんでダメなんだろ」

 天井を見ながら、相良さんは言った。

「親父がさ、大手以外は就職じゃないって。兄貴は、ちゃんと大手入ってるし」

 私はベッドの端に座って、相良さんの手を握った。

「……相良さんは、ダメじゃない」

「……渚沙だけだよ、そう言ってくれるの」

 相良さんは私の手を、強く握り返した。

 強すぎて、指の骨が軋んだ。

 

 六月の終わり、駅の階段を下りていたときだった。

 雨で濡れた段の角に、踵が乗った。

 体が、前に傾いた。

 手すりに伸ばした手が、空を切った。

 その瞬間、後ろから、腕を掴まれた。

「危ない」

 相良さんだった。

 私の腕を掴んだまま、相良さんは息を吐いた。

「……渚沙、ぼーっとしすぎ。俺いなかったら、落ちてたよ」

 階段の下を見た。コンクリートの床が、ずっと下にあった。

 膝が、小さく震えていた。

「……ありがとう」

「いいって」

 相良さんは私の腕を離さないまま、最後の段まで一緒に下りてくれた。

 この人がいなかったら、私はあの階段の下にいた。

 掴まれた腕が、しばらく、じんと痺れていた。

 

 七月十九日の夜、ベッドの中で、スマホのカレンダーを見ていた。

 二度目の世界の今日、あの人は海沿いの国道で、トラックとぶつかった。線香花火の袋を、道に散らばらせて。

 今年は何も起きなかった。

 起きていないと、思った。

 亜美からも、何も来ていない。何かあれば、きっと、亜美が知らせてくる。

 あの人は、生きている。

 今年のあの人は、二十歳の夏を、生きている。

 

 私はスマホを胸に押し当てた。

 目の奥が、熱かった。

 これで、よかったのだと思った。

 私があの人のそばにいなければ、あの人は私から離れなくていい。離れなくていいから、いなくならない。

 私の理屈は、正しかった。

 隣で、相良さんが寝返りを打った。寝ぼけた声で、私の名前を呼んだ。

 私はスマホを伏せて、相良さんの背中に額をつけた。

 この人のそばに、いればいい。

 この人のそばにいれば、あの人のそばにいなくて済む。

 

 相良さんの背中は、汗で少し湿っていて、規則正しく上下していた。