五月の水仙は枯れない

 五月七日は、何事もなく過ぎた。

 大学一年の五月七日。あの日が来るのは、一年後だった。

 それでも朝、目が覚めた瞬間に、カレンダーを見た。体が勝手にそうした。

 スマホには、何も来ていなかった。

 来るはずがなかった。あの人の連絡先は、この世界の私のスマホには、最初から入っていなかった。

 

 写真のサークルには、毎週通った。

 部室は、古い学生会館の三階の、窓の小さな部屋だった。棚にカメラがいくつも並んでいて、壁には部員が撮った写真が、隙間なく貼られていた。

 窓の外の中庭から、軽音サークルの練習の音が、途切れ途切れに上がってきた。部屋の隅の暗室からは、現像液の酸っぱい匂いが、かすかに漏れていた。

 相良さんはいつもそこにいた。

「山吹さん、今日はこれ使って」

 部室のカメラを貸してくれて、使い方を教えてくれた。露出、絞り、シャッタースピード。私が設定を迷っていると、横から手を伸ばして、ダイヤルを回してくれた。

「ほら、これで撮ってみて」

 ファインダーを覗くと、世界が、四角く切り取られていた。

 その枠の中にいるものだけを見ていればよかった。

 

 六月、サークルで、近くの公園に撮影に行った。

 紫陽花が、斜面いっぱいに咲いていた。前の晩の雨で、土の道がぬかるんでいて、スニーカーの先が、すぐに黒く濡れた。

 私はしゃがみ込んで、雨上がりの花びらに残った水滴を撮った。

「上手いじゃん」

 背中から、相良さんの声がした。

 振り返ると、相良さんが私にカメラを向けていた。

 シャッターの音がした。

「……え」

「ごめん、勝手に。……いい顔してたから」

 相良さんはカメラの液晶を私に見せた。

 紫陽花の前で、振り返りかけた私が写っていた。

 笑っていなかった。

 驚いたような、少し怯えたような顔だった。

「……変な顔」

「そんなことないって。……山吹さん、撮られるの苦手?」

 

 苦手だった。

 撮る側でいたかった。

 レンズの向こうにいる誰かを、何枚も撮り直して、最後の一枚だけがちゃんと笑っている、というのを、見ている側で。

「……はい」

「そっか。じゃあ、慣れるまで、俺が撮るよ」

 相良さんはまた、シャッターを切った。

 今度は、私は顔を背けていた。

 相良さんは液晶を見て、満足そうに笑った。

「これもいい」

 

 七月の終わりに、相良さんに、好きだと言われた。

 サークルの飲み会の帰り、駅までの道を二人で歩いていたときだった。

「山吹さんのこと、ずっといいなって思ってた。……付き合ってくれない?」

 街灯の下で、相良さんは立ち止まった。

 まっすぐ、私を見ていた。

 私は答えを探した。

 探しているあいだに、相良さんが言った。

「すぐ答えなくていいよ。……でも、たぶん、山吹さんも、嫌じゃないでしょ」

 

 嫌じゃなかった。

 相良さんは、優しかった。言葉が遅れる私を、いつも助けてくれた。困ったときには、先に答えを出してくれた。私を見ていてくれた。

 好きかどうかは、わからなかった。

 わからないまま、頭のどこかで、別のことを考えていた。

 七月の最後の土曜日。

 今夜は、坂の上の神社の、夏祭りの日だった。

 あの人は今年も、あの石段に座っているのだろうか。

 誰かの袖を、見ているのだろうか。

「……はい」

 私は、言った。

 声が、自分のものではないみたいだった。

 相良さんは目を細めて、私の頭に手を置いた。

「よかった」

 

 アパートに帰って、ベッドに座った。

 スマホが震えた。亜美からだった。

 高三の夏から、亜美とはほとんど連絡を取っていなかった。それでも亜美は、月に一度くらい、短いメッセージを送ってきた。私はそのたびに、短く返していた。

『今日、神社のお祭りだったよ』

『朔と、朔の彼女と、あと今里と行った』

『今里、なんか、ずっと上の空だった』

『渚沙、元気?』

 

 私はその四行を、しばらく見ていた。

 今里、なんか、ずっと上の空だった。

 指が、画面の上で止まっていた。

 何を打てばいいのか、わからなかった。

『元気だよ。彼氏できた』

 打って、送った。

 送ってから、なぜそれを書いたのか、わからなくなった。

 既読が、すぐについた。

 少し間があって、返事が来た。

『え、まじで! おめでと!』

『今度、写真見せて』

 私はスマホを伏せた。

 

 秋になった。

 相良さんはよく、私を撮った。

 大学の中庭で。駅のホームで。アパートの近くの商店街で。私が気づかないうちに、シャッターを切っていた。

「山吹さんって、撮られてるの気づいてないときが、一番いい顔してる」

 相良さんはそう言って笑った。

 私は自分が写った写真を、ほとんど見なかった。

 講義室の窓の外で、欅が、少しずつ色を変えていった。床は、相変わらずきしんでいた。窓際の席に座ると、乾いた葉がガラスに当たって、落ちていく音がした。

 

 冬が来て、春休みになった。

 アパートの部屋は、窓の隙間から風が入った。電気ストーブの前で、膝を抱えて、本を読んだ。

 実家には、帰らなかった。

 父とは、推薦のことで言い合いをしてから、あまり話していなかった。母からは、ときどき野菜や缶詰の入った段ボールが届いた。一番上に、短い手紙が入っていた。

 元気にしてる? ちゃんと食べてる?

 私は手紙を読んで、段ボールを押し入れにしまった。

 

 四月。私は二年生になった。

 相良さんは四年生になって、就職活動を始めた。サークルには、あまり顔を出さなくなった。

 代わりに夜、電話がかかってくるようになった。

「今日、何してた?」

「……講義と、バイト」

「誰と?」

「……一人で」

「そっか。ならいいけど」

 ならいいけど、の意味を、私は深く考えなかった。

 

 連休が終わった。

 五月七日の朝、目が覚めた。

 カレンダーを見た。

 水曜日。

 布団の中で、足の指が、縮こまった。

 あの人は今朝、どんな顔で目を覚ましたのだろう。

 地元の駅の、あのホームで。隣の県の国立大学へ向かう、七時四十分の電車を待ちながら。

 その隣に、今年は誰も立っていない。

 私はスマホを手に取った。

 あの人の連絡先は、どこにもなかった。

 

 その日の夜、相良さんから、電話がかかってきた。

「今日さ、四限のあと、誰と話してた?」

 声が、いつもより低かった。

「……え」

「中庭で。男と話してたでしょ。見えたんだよ、通りかかったとき」

 ゼミの男の子に、プリントを渡しただけだった。

「……プリントを」

「ふうん」

 電話の向こうで、相良さんが長く息を吐いた。

「まあ、いいけど。……山吹さんさ、自分が可愛いって自覚、ないよね」

 

 褒められているのだと思った。

 思おうとした。

 電話を切ったあと、窓の外で、知らない電車が走っていく音がした。

 この部屋で、息が楽だと思ったのは、いつまでだっただろう。

 思い出せなかった。