五月の水仙は枯れない

 六月の文化祭で、私は受付の係になった。

 装飾班にも、看板にも、手を挙げなかった。教室の前の廊下に長机を出して、入場券をもぎる係。誰とも話さなくていい係。

 あの人は買い出し班だった。

 準備期間のあいだ、あの人は袋を提げて何度も廊下を通り過ぎた。

 私の机の前を通るとき、ときどき歩く速さが落ちた。

 何か言いかけて、やめて、教室の中に入っていった。

 

 文化祭の三日前、二階の階段の踊り場で、あの人と早瀬さんが話しているのを見た。

 薄い水色の封筒が、あの人の手に渡った。

 私は階段を下りた。

 ゆっくりと。

 上履きの音は、鳴らなかった。

 萩原くん宛てだと、知っていた。知っているから、何も感じなかった。

 感じないようにしていた。

 

 文化祭の当日、中庭の植え込みのそばで、萩原くんが耳まで真っ赤になって、封筒を受け取っていた。

 私は廊下の窓から、それを見下ろしていた。

 受付を交代したあとだった。長机の上の菓子の缶には、もぎった半券が、半分くらい溜まっていた。階段の下から、焼きそばのソースの匂いが上がってきていた。

 隣には、誰もいなかった。

 今年は誰も、紙コップを二つ持ってこなかった。

 あの問いも、来なかった。

 

 七月の最後の土曜日。

 坂の上の神社の、夏祭り。

 亜美から、誘われた。

「みんなで行こうよ。朔と、朔の彼女と、あと今里も誘ってさ」

「……ごめん。その日、用事」

「何の」

「……家の」

 亜美は電話の向こうで、長いあいだ黙っていた。

「……渚沙さ」

「……うん」

「あたし、何かした?」

 

 耳に当てたスマホが、急に重くなった。

 四年前、屋上の階段で、あの人が私に訊いた言葉と、同じだった。

 俺、なんかした?

 私は、あのとき、三日間黙っていた。黙っているあいだ、あの人は一人で待っていた。

「……してない」

「じゃあ、なんで」

「……」

「今年の渚沙、ずっと、どっか遠いとこにいるみたい。……あたし、置いてかれてる気がする」

 亜美の声が揺れていた。

 私はベッドの上で、膝を抱えた。

 ごめん、と言おうとした。

 言えなかった。

 言ったら、理由を訊かれる。理由を訊かれたら、答えられない。

「……ごめん」

 結局それだけ言った。

 亜美は「わかった」と言って、電話を切った。

 

 夏祭りの夜、私は、家の二階の自分の部屋にいた。

 窓を開けると、湿った夜の空気が、網戸越しに入ってきた。蚊取り線香の匂いが、どこかの家から流れてきた。

 遠くで、どん、と音がした。

 川のほうの空に、光の輪が広がった。

 この部屋からは、坂の上の神社は見えなかった。楠も、石段も、見えなかった。花火だけが、屋根と屋根のあいだの細い空に、小さく開いては消えていった。

 今年も、あの人はあの石段に座っているのだろうか。

 誰かに、好きだと言っているのだろうか。

 それとも、一人で。

 

 最後の花火が上がった。

 金色の光が、屋根のあいだで、しだれ柳の形に垂れ落ちていった。

 今ごろ、あの人はお守りを買いに行っているかもしれない。

 本殿の脇の暗がりに逸れて、何かをして、それから賽銭箱の前で長く手を合わせて。

 人差し指の脇に、インクをつけて。

 誰かの家の前で、「やっぱ、いいや」と言って。

 その誰かは、私ではなかった。

 私は窓を閉めた。

 

 九月の終わり、進路指導室に呼ばれた。

 東京の、私立大学。文学部。指定校推薦。

 書類を持って、家に帰った。

 その夜、居間のテーブルに書類を置いて、両親に言った。

 テレビでは、天気予報が、明日の雨を告げていた。父がリモコンで音を小さくした。

「……これ、受ける」

 

 母は書類を手に取って、一枚目から、ゆっくり読んでいた。

 父は読まなかった。

「東京か」

「……うん」

「通えなくもないだろう。一時間半くらいか」

「……一人暮らし、したい」

 父は眉を上げた。

「わざわざか」

「……うん」

「わざわざ東京まで行かなくても、隣の県の国立を受ければいいだろう。成績は足りてるって、先生も言ってたじゃないか」

「……」

「専願なんだろう、これ。出したら、他は受けられない。……何を急いでるんだ」

 

 急いでいた。

 隣の県の国立には、あの人が行く。

 同じキャンパスで、同じ学食で、同じ銀杏並木の下で。

 そこに、私がいてはいけなかった。

「……行きたいの」

「理由を言いなさい」

「……昔から、行きたかったから」

 父は眉を寄せた。

「母さんは、昔から憧れてたみたいだって言うけどな。……お父さんは、お前の口から、そんなこと一度も聞いたことないぞ」

 

 父の言うとおりだった。

 口に出したことは、一度しかなかった。

 父にではなかった。四年前の十月、門の前で。

 憧れてた大学より、あなたの隣の席がよかったの、と。

 行かないと決めたあとで、一度だけ。

 その言葉は、この世界のどこにも、残っていなかった。

「……行かせて」

 声が、震えた。

 自分でも驚くくらい、大きな声だった。

「お願い。……行かせて」

 父は、黙った。

 母が父の腕に、そっと手を置いた。

 長い沈黙のあとで、父がため息をついた。

「……好きにしなさい」

 そう言って、居間を出ていった。

 母は何も言わずに、私の湯呑みにお茶を注ぎ足した。

 

 十一月の半ば、廊下で、あの人とすれ違った。

 すれ違う、ほんの一歩手前で、あの人が足を止めた。

「……山吹さん」

 私も止まってしまった。

「東京の大学、決まったって。小野寺から聞いた」

「……うん」

「おめでとう」

「……ありがとう」

 それで終わるはずだった。

 あの人は、動かなかった。

 廊下の窓から入る光が、あの人の横顔を半分だけ照らしていた。

「……あのさ」

「……」

「俺、なんかした?」

 

 同じ言葉だった。

 四年前、屋上の階段で。今年の七月、電話の向こうの亜美が。

 そして、今。

「四月から、ずっと、避けられてる気がして。……俺、山吹さんに、何かしたかなって」

 あの人は足元に目を落とした。

「話したこと、ほとんどないのに。……変だよな、こんなこと訊くの」

 私は、あの人の顔を見た。

 見てしまった。

 私の答えを待っている顔。

 急かさずに。

 話を変えずに。

 

「……何も、してない」

 声が、細くなった。

「何も、してないから」

 息を、吸った。

「……だから、何もしないで」

 

 あの人は瞬きをした。

 意味がわからない、という顔だった。

 私はあの人の横をすり抜けて、廊下を歩いた。

 振り返らなかった。

 背中のほうで、あの人がしばらく立ち尽くしている気配がした。

 

 卒業式は、三月の半ばだった。

 校門の前で、みんなが写真を撮っていた。

 あの人も萩原くんたちと、看板の横に並んでいた。誰かがスマホを構えて、「はい、チーズ」と言った。あの人は緊張した顔で、口の端を持ち上げていた。

 誰も、「もっと普通に笑って」とは言わなかった。

 誰も、何枚も撮り直さなかった。

 シャッターは、一度だけ切られた。

 私は校門の前を、通り過ぎた。

 

 照れくさそうに笑っている、あの最後の一枚は。

 この世界には、どこにもなかった。