走った。
サンダルが脱げそうになって、途中で脱いで、手に持って走った。アスファルトが、まだ昼間の熱を残していた。
海沿いの一本道には、街灯がほとんどなかった。左手に黒い海があって、右手に黒い山があって、その間を、道だけがぼんやりと白く続いていた。
サイレンの音が、近くなったり、遠くなったりした。
カーブを曲がったところで、光が見えた。
トラックが、道を塞ぐように斜めに停まっていた。ハザードランプが、黄色く点滅していた。その光の中で、何人かの人影が動いていた。
道の端に、バイクが倒れていた。
前輪が、おかしな方向に曲がっていた。
その少し先に、誰かが横たわっていた。
紺色のTシャツだった。
何を叫んだのか、覚えていない。
気がつくと、私はアスファルトに膝をついていた。
裕太は、仰向けに倒れていた。ヘルメットは外れて、少し離れたところに転がっていた。こめかみから流れた血が、アスファルトの上で黒く広がっていた。
「動かさないで! 救急車、もう呼んだから!」
知らない女の人の声がした。
私は、裕太の手を握った。
冷たくはなかった。まだ、温かかった。
手首に、黒い革のベルトがあった。文字盤のガラスが、割れていた。
秒針は、動いていた。
「裕太」
瞼が、動いた。
ゆっくりと目が開いて、焦点の合わない目が、私のほうを向いた。
「……なぎ、さ」
「うん。いる。ここにいる」
「……」
裕太の唇が、動いた。
声になっていなかった。私は顔を近づけた。血と、汗と、潮の匂いがした。
「ごめん」
「いい。いいから、しゃべらないで」
「……また、間に合わなかった」
「救急車、来るから。もうすぐ来るから。しゃべらないで」
私は、握った手に力を込めた。
裕太の指が、少しだけ、握り返してきた。
それから、ゆっくりと、力が抜けていった。
「裕太」
瞼が、閉じていた。
「ねえ、裕太。聞こえる?」
答えはなかった。
声に出したのは、四月の朝以来だった。
すぐ横の道の上に、コンビニの袋が落ちていた。
中身が、散らばっていた。
細い紙の束。色とりどりの、線香花火。
ハザードランプが点くたびに、それが黄色く浮かび上がって、また消えた。
病院に着いてから、四時間後だった。
廊下の長椅子に座っていた私のところに、看護師さんが来て、何か言った。何を言われたのかは覚えていない。覚えているのは、その人のサンダルの底が、床の上できゅっと鳴ったことだけだ。
日付が変わる少し前に、裕太のお母さんが着いた。
おばさんは、私を見て、何か言おうとして、言えずに、私の手を両手で包んだ。
同じだった。
前の春と、同じ手だった。同じ冷たさで、同じ震え方だった。
私は、また、泣けなかった。
最後に裕太が何を言ったのか、うまく思い出せない。
ごめん、と言った気がする。
それだけだった。
それだけで、十分だった。十分すぎて、それ以上のことを思い出そうとすると、頭の奥が白くなった。
出棺のあと、斎場の玄関で萩原くんに呼び止められた。
「山吹さん。……あのとき、なんで、バイクのこと」
萩原くんはそこまで言って、口をつぐんだ。
私の顔を見て、何かを言いかけて、やめた。
「……ごめん。なんでもない」
私は答えなかった。
答えられるはずがなかった。
葬儀のあと、私はあの海の町へ向かう電車には乗らなかった。
斎場を出て、歩いた。どこへ向かっているのかは、途中からわかっていた。
——神社には、行くな。
帰れ、のすぐあとだった。拒むことしかしなかったあの人が、ひとつだけ、違う種類の言葉を口にした。
あの夜、立て札は、途中までしか読めなかった。
あのとき、裕太はどうして、行くなと言ったのだろう。
答えてくれる人は、もういない。
鳥居をくぐった。
夕方だった。蝉の声が境内を埋め尽くしていた。
砂利の上を歩いて、本殿の前に立った。
前の春はここで膝をついた。雨の中で、指を組んで、問いかけた。
今日は、膝をつかなかった。
指も、組まなかった。
何を問えばいいのか、わからなかった。
本当に大好きだよ、と裕太は言った。あの答えは、もう聞いた。聞いたのに、何も終わらなかった。
その続きの「でも」を、私はまだ、どこにも持っていけずにいる。
私は本殿を見上げていた。
願ったことは、一度もない。
今日も、何も願わなかった。
蝉の声が、ふっと途切れた。
*
「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」
目を開けると、黒板に白いチョークで座席表が描かれていた。
教卓の上にお菓子の空き箱が置かれている。
窓の外で桜が半分くらい散っていた。
三年二組の教室だった。
出席番号順にクラスメイトが一人ずつ立ち上がって、前へ出ていく。紙を引いて、開いて、黒板に名前を書き込んでいく。
廊下側の列から、今里くん、と誰かが呼ぶ声がした。
私は自分の番が近づいてくるのを、ただ座って待っていた。
窓際の、後ろから二番目。
その番号だけは、引きたくなかった。
サンダルが脱げそうになって、途中で脱いで、手に持って走った。アスファルトが、まだ昼間の熱を残していた。
海沿いの一本道には、街灯がほとんどなかった。左手に黒い海があって、右手に黒い山があって、その間を、道だけがぼんやりと白く続いていた。
サイレンの音が、近くなったり、遠くなったりした。
カーブを曲がったところで、光が見えた。
トラックが、道を塞ぐように斜めに停まっていた。ハザードランプが、黄色く点滅していた。その光の中で、何人かの人影が動いていた。
道の端に、バイクが倒れていた。
前輪が、おかしな方向に曲がっていた。
その少し先に、誰かが横たわっていた。
紺色のTシャツだった。
何を叫んだのか、覚えていない。
気がつくと、私はアスファルトに膝をついていた。
裕太は、仰向けに倒れていた。ヘルメットは外れて、少し離れたところに転がっていた。こめかみから流れた血が、アスファルトの上で黒く広がっていた。
「動かさないで! 救急車、もう呼んだから!」
知らない女の人の声がした。
私は、裕太の手を握った。
冷たくはなかった。まだ、温かかった。
手首に、黒い革のベルトがあった。文字盤のガラスが、割れていた。
秒針は、動いていた。
「裕太」
瞼が、動いた。
ゆっくりと目が開いて、焦点の合わない目が、私のほうを向いた。
「……なぎ、さ」
「うん。いる。ここにいる」
「……」
裕太の唇が、動いた。
声になっていなかった。私は顔を近づけた。血と、汗と、潮の匂いがした。
「ごめん」
「いい。いいから、しゃべらないで」
「……また、間に合わなかった」
「救急車、来るから。もうすぐ来るから。しゃべらないで」
私は、握った手に力を込めた。
裕太の指が、少しだけ、握り返してきた。
それから、ゆっくりと、力が抜けていった。
「裕太」
瞼が、閉じていた。
「ねえ、裕太。聞こえる?」
答えはなかった。
声に出したのは、四月の朝以来だった。
すぐ横の道の上に、コンビニの袋が落ちていた。
中身が、散らばっていた。
細い紙の束。色とりどりの、線香花火。
ハザードランプが点くたびに、それが黄色く浮かび上がって、また消えた。
病院に着いてから、四時間後だった。
廊下の長椅子に座っていた私のところに、看護師さんが来て、何か言った。何を言われたのかは覚えていない。覚えているのは、その人のサンダルの底が、床の上できゅっと鳴ったことだけだ。
日付が変わる少し前に、裕太のお母さんが着いた。
おばさんは、私を見て、何か言おうとして、言えずに、私の手を両手で包んだ。
同じだった。
前の春と、同じ手だった。同じ冷たさで、同じ震え方だった。
私は、また、泣けなかった。
最後に裕太が何を言ったのか、うまく思い出せない。
ごめん、と言った気がする。
それだけだった。
それだけで、十分だった。十分すぎて、それ以上のことを思い出そうとすると、頭の奥が白くなった。
出棺のあと、斎場の玄関で萩原くんに呼び止められた。
「山吹さん。……あのとき、なんで、バイクのこと」
萩原くんはそこまで言って、口をつぐんだ。
私の顔を見て、何かを言いかけて、やめた。
「……ごめん。なんでもない」
私は答えなかった。
答えられるはずがなかった。
葬儀のあと、私はあの海の町へ向かう電車には乗らなかった。
斎場を出て、歩いた。どこへ向かっているのかは、途中からわかっていた。
——神社には、行くな。
帰れ、のすぐあとだった。拒むことしかしなかったあの人が、ひとつだけ、違う種類の言葉を口にした。
あの夜、立て札は、途中までしか読めなかった。
あのとき、裕太はどうして、行くなと言ったのだろう。
答えてくれる人は、もういない。
鳥居をくぐった。
夕方だった。蝉の声が境内を埋め尽くしていた。
砂利の上を歩いて、本殿の前に立った。
前の春はここで膝をついた。雨の中で、指を組んで、問いかけた。
今日は、膝をつかなかった。
指も、組まなかった。
何を問えばいいのか、わからなかった。
本当に大好きだよ、と裕太は言った。あの答えは、もう聞いた。聞いたのに、何も終わらなかった。
その続きの「でも」を、私はまだ、どこにも持っていけずにいる。
私は本殿を見上げていた。
願ったことは、一度もない。
今日も、何も願わなかった。
蝉の声が、ふっと途切れた。
*
「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」
目を開けると、黒板に白いチョークで座席表が描かれていた。
教卓の上にお菓子の空き箱が置かれている。
窓の外で桜が半分くらい散っていた。
三年二組の教室だった。
出席番号順にクラスメイトが一人ずつ立ち上がって、前へ出ていく。紙を引いて、開いて、黒板に名前を書き込んでいく。
廊下側の列から、今里くん、と誰かが呼ぶ声がした。
私は自分の番が近づいてくるのを、ただ座って待っていた。
窓際の、後ろから二番目。
その番号だけは、引きたくなかった。
