五月の水仙は枯れない

 それから、土曜日の朝は、一本早い電車に乗るようになった。

 乗り換えは二回。最後の一時間は、窓の外がずっと海だった。二両しかない電車は冷房の効きが悪くて、窓を少しだけ開けると、潮の匂いと一緒に、生ぬるい風が入ってきた。

 無人駅のベンチには、毎週、裕太が座っていた。

 次の土曜日も。その次の土曜日も。

「……また来た」

「来た」

「暑いのに」

「暑いね」

 裕太は、ため息のように笑った。

 

 防波堤の上を、二人で歩いた。

 海は凪いでいて、遠くの漁船が、ほとんど動いていないように見えた。

「おかみさんがさ、昨日の夜、テレビ見ながら寝てて」

 裕太が話した。

「起こしたら、『寝てない』って言うんだよ。いびきかいてたのに。で、そのまま三十分くらい『寝てない』って言いながらまた寝てた」

 私は笑った。

 裕太も、少し笑った。

 このごろの裕太は、よく話した。

 最初のころは、何を訊いても一言しか返ってこなかった。目も合わせてくれなかった。今は、訊かなくても話してくれた。民宿の仕事のこと、常連の釣り客のこと、裏の家の犬のこと。

 話しながら、ときどき私を見た。

 見て、少しだけ長く、目を留めた。

 何かを、覚えておこうとするように。

 私はそれを、いいことだと思っていた。

 

 午後は、民宿の手伝いをした。

 おかみさんは、私のことを「裕太くんの彼女さん」と呼ぶようになっていた。最初のころは訂正しようとしたけれど、途中で諦めた。裕太も、訂正しなかった。

 二階の客室で、干した布団を二人で畳んだ。

 布団の端を持って、向かい合って、半分に折った。もう半分に折った。裕太の手と私の手が、布団の角で重なった。日に焼けた手首に、黒い革のベルトが見えた。

 裕太は、すぐには手を離さなかった。

「……何」

「いや」

 裕太は目を逸らして、布団を押し入れに押し込んだ。

 窓の外で、蝉が鳴いていた。

 

 夕方、防波堤の端に並んで座った。

 日が傾いて、海が少しずつ橙色に変わっていった。風が出てきて、昼間の熱がようやく引き始めていた。

「来週も、来ていい?」

 来ていい、とは、一度も言われていなかった。

 訊いたのは、初めてだった。

 訊いたら、断られる気がしていた。だから、毎週、訊かずに来ていた。

 裕太は、海を見ていた。

 しばらく、何も言わなかった。

「……うん」

 小さな声だった。

 私は、膝を抱えた腕に、顔を半分埋めた。そうしないと、何かがこぼれそうだった。

「なあ」

「うん」

「花火、する?」

 顔を上げると、裕太がこちらを見ていた。

「花火なんて、ずっとしてないじゃん。……線香花火くらいなら、そこの浜でできるし」

「……うん。したい」

「じゃあ、買ってくる」

 裕太が立ち上がって、尻についた砂を払った。

「どこまで?」

「隣町のコンビニ。この辺、売ってるとこないんだよ」

「……バイクで?」

 声が、固くなったのが自分でもわかった。

 萩原くんのお兄さんのバイクは、他の人に渡ったはずだった。それなのに、この町に来た裕太は、どこかで中古のバイクを手に入れていた。民宿の裏に停めてあるのを、私は毎週見ていた。見るたびに、胸の奥が冷たくなった。

「私も行く」

「メット一個しかない」

「じゃあ、歩いて」

「歩いたら一時間かかるって」

 裕太は、困ったように笑った。

「十五分で戻る。海沿いの一本道だし、この時間、車ほとんど通らないから」

 私は、何か言おうとした。

 言葉を探している間に、裕太が私の頭に、ぽんと手を載せた。

「待ってて。すぐ戻るから」

 二ヶ月、何も起きなかった。

 裕太は、ここで、ちゃんと生きていた。

「……気をつけてね」

 私は、そう言った。

 

 民宿の裏から、エンジンの音が聞こえてきた。

 防波堤の下の道に、裕太のバイクが出てきて、止まった。ヘルメットのシールドを上げたまま、裕太がこちらを見上げた。

 私が手を振ると、裕太も片手を上げた。

 それから、私を見ていた。

 バイクを停めたまま、エンジンの音だけを鳴らして、ずっと。

「なに?」

 声を張ると、裕太はシールドを下ろした。

 何も答えずに、走り出した。

 赤いテールランプが、海沿いのカーブの向こうに消えていった。

 

 十五分が過ぎた。

 二十分が過ぎた。

 太陽が水平線に触れて、海の上に、橙色の道が一本だけ引かれた。それから、急に暗くなった。

 三十分が過ぎた。

 スマホを取り出して、画面を見た。何の通知もなかった。電話をかけた。呼び出し音が、七回鳴って、切れた。

 コンビニが、混んでいるのかもしれなかった。

 線香花火が見つからなくて、別の店まで行ったのかもしれなかった。

 そう思おうとした。

 遠くで、サイレンが鳴っていた。