月曜日の朝、教室に入ると、今里くんはもう席に着いていた。
机に突っ伏して、腕を枕にしている。窓から入る光が、寝癖のついた後頭部を照らしていた。
私は鞄を机の横に掛けて、椅子を引いた。
その音で、今里くんが顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
今里くんは大きく欠伸をして、また腕の中に顔を戻しかけた。
言うなら、今だと思った。
土曜日も日曜日も、ずっと頭の中で練習していた。玄関で思いついた言葉を、何度も口の中で転がして、角が取れるまで磨いた。
「今里くん」
「ん」
「……ありがとう」
今里くんは、腕の中から片目だけ出して、私を見た。
「……何が?」
「金曜日の。帰りの」
今里くんは、二度、三度と瞬きをした。
それから、ゆっくりと体を起こした。
「……あ。しゃべるの遅いってやつ?」
「うん」
「え、今?」
「うん」
「三日かかった?」
「……土日、挟んだから」
今里くんは、机に肘をついて、両手で顔を覆った。
肩が、小刻みに震えていた。
笑っているのだと気づくまでに、少しかかった。
「ごめん、違う、馬鹿にしてるんじゃなくて」
顔を覆ったまま、今里くんが言った。
「なんか、すげーいいなと思って。三日かけて、ちゃんと来たんだなって」
顔が熱くなった。
私は前を向いて、鞄から教科書を取り出した。一時間目は数学だった。取り出したのは、英語の教科書だった。
隣で、今里くんがまた小さく笑った。
「どういたしまして」
少し遅れて、そう聞こえた。
今度は、今里くんのほうが遅れていた。
昼休みになると、亜美が廊下側の席から弁当を持ってやってきた。
「ねえ、今日こっちで食べていい? 前の席、空いてるし」
私の前の席の子は、いつも部活の友達のところへ行っている。亜美は返事を待たずに椅子を引いて、後ろ向きに座った。
それとほとんど同時に、教室の前の扉が開いた。
「裕太ー、購買のパン、コロッケしかなかった」
背の高い男子が、ビニール袋を二つぶら下げて入ってきた。隣のクラスの、萩原くんだった。今里くんとよく一緒にいる、声の大きい人。
「え、焼きそばパンは」
「瞬殺。……あ、どうも」
萩原くんは、私と亜美に気づいて、軽く頭を下げた。
それから、何のためらいもなく、今里くんの前の席の椅子を引いて座った。
四人で、机を囲む形になった。
「萩原朔です。裕太の保護者」
「保護者じゃねえだろ」
「こいつ、一人にすると昼飯食い忘れるから」
「食い忘れたことねえよ」
亜美が吹き出した。
「小野寺亜美です。渚沙の保護者」
「え、そっちも保護者いんの」
「いる。この子、一人にすると返事に三日かかるから」
私は、弁当の卵焼きを箸で持ったまま固まった。
今里くんが、飲んでいたお茶でむせた。
「……なんで知ってんの」
「え、何が?」
亜美がきょとんとした顔をする。今里くんは咳き込みながら、なんでもない、と手を振った。
私は、卵焼きを口に入れた。
甘かった。いつもより、ほんの少し。
それから、昼休みに四人で食べる日が、ときどきあるようになった。
毎日ではない。亜美が他のクラスの友達のところへ行く日もあるし、萩原くんが部活の集まりに呼ばれる日もある。でも、週に二回か三回は、窓際の後ろのほうで、四つの机がくっついていた。
萩原くんはよくしゃべった。亜美もよくしゃべった。二人は最初の三日で打ち解けて、一週間後には、お互いを遠慮なく呼び捨てにしていた。
今里くんは、二人の話を聞いて笑っていることが多かった。
ときどき、私のほうを見た。
私が何か言いかけて、飲み込んだときに。
萩原くんと亜美の会話の速さについていけず、口を開いたまま次の話題に置いていかれたときに。
今里くんは、何も言わずに、間を作った。
「……で、山吹さんは?」
二人の会話の切れ目に、そうやって話を振ってくれる。
そうすると、萩原くんも亜美も、ちゃんとこちらを向いて待ってくれた。
ずっと、自分のことを「会話に遅れる人」だと思っていた。
でも、この四人の机では、私の番がちゃんと回ってきた。
五月に入って、中間テストが近づいてきた。
放課後の図書室で、今里くんが現代文の問題集を広げて、頭を抱えていた。
「なんで『このときの主人公の心情を答えよ』に正解があんの。心情なんて人それぞれじゃん」
「……本文に、書いてあるから」
「書いてある?」
「ここ」
私は、問題文の三行前を指で示した。
「『窓の外を見た』って。前の場面で、窓の外にいたのは、お母さんだから」
「……え、それだけで?」
「それだけで」
今里くんは、問題集と私の顔を、交互に見た。
「山吹さん、なんでそれわかんの」
「……わかんないけど。なんとなく」
「なんとなくで正解すんの、ずるくない?」
私は、少し考えた。
どう説明すればいいのか、言葉を探した。
今里くんは、シャーペンを置いて待っていた。
「……言葉にしてないことも、書いてあるから」
「言葉にしてないことが?」
「うん。どこを見たとか、何を言わなかったとか。……そういうの」
今里くんは、シャーペンの頭を顎に当てたまま、黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「それ、山吹さんっぽい」
「……どういう意味」
「いや、なんか」
今里くんは、問題集に目を戻した。
戻しながら、小さな声で言った。
「言葉にしてないとこのほうが、ちゃんと聞こえてそうだなって」
私は、自分の問題集に目を落とした。
文字が、うまく頭に入ってこなかった。
図書室の窓から、西日が斜めに差し込んでいた。
ページをめくる音。遠くの運動部のかけ声。誰かが咳払いをする音。
ふと顔を上げると、今里くんがこちらを見ていた。
問題集ではなく、私のほうを。
目が合った。
今里くんは、窓の外に視線を逸らした。逸らすのが、少しだけ速すぎた。
「……今里くん」
「な、なに」
「問三、そこ、違う」
「え、どこ」
今里くんは、慌てて問題集を覗き込んだ。耳の先が、赤くなっていた。
私は、自分の頬に手を当てた。
同じくらい、熱かった。
下校のチャイムが鳴って、図書室を出た。
昇降口で靴を履き替えていると、先に外に出ていた今里くんが、振り返って言った。
「山吹さんってさ、帰り、どっち?」
机に突っ伏して、腕を枕にしている。窓から入る光が、寝癖のついた後頭部を照らしていた。
私は鞄を机の横に掛けて、椅子を引いた。
その音で、今里くんが顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
今里くんは大きく欠伸をして、また腕の中に顔を戻しかけた。
言うなら、今だと思った。
土曜日も日曜日も、ずっと頭の中で練習していた。玄関で思いついた言葉を、何度も口の中で転がして、角が取れるまで磨いた。
「今里くん」
「ん」
「……ありがとう」
今里くんは、腕の中から片目だけ出して、私を見た。
「……何が?」
「金曜日の。帰りの」
今里くんは、二度、三度と瞬きをした。
それから、ゆっくりと体を起こした。
「……あ。しゃべるの遅いってやつ?」
「うん」
「え、今?」
「うん」
「三日かかった?」
「……土日、挟んだから」
今里くんは、机に肘をついて、両手で顔を覆った。
肩が、小刻みに震えていた。
笑っているのだと気づくまでに、少しかかった。
「ごめん、違う、馬鹿にしてるんじゃなくて」
顔を覆ったまま、今里くんが言った。
「なんか、すげーいいなと思って。三日かけて、ちゃんと来たんだなって」
顔が熱くなった。
私は前を向いて、鞄から教科書を取り出した。一時間目は数学だった。取り出したのは、英語の教科書だった。
隣で、今里くんがまた小さく笑った。
「どういたしまして」
少し遅れて、そう聞こえた。
今度は、今里くんのほうが遅れていた。
昼休みになると、亜美が廊下側の席から弁当を持ってやってきた。
「ねえ、今日こっちで食べていい? 前の席、空いてるし」
私の前の席の子は、いつも部活の友達のところへ行っている。亜美は返事を待たずに椅子を引いて、後ろ向きに座った。
それとほとんど同時に、教室の前の扉が開いた。
「裕太ー、購買のパン、コロッケしかなかった」
背の高い男子が、ビニール袋を二つぶら下げて入ってきた。隣のクラスの、萩原くんだった。今里くんとよく一緒にいる、声の大きい人。
「え、焼きそばパンは」
「瞬殺。……あ、どうも」
萩原くんは、私と亜美に気づいて、軽く頭を下げた。
それから、何のためらいもなく、今里くんの前の席の椅子を引いて座った。
四人で、机を囲む形になった。
「萩原朔です。裕太の保護者」
「保護者じゃねえだろ」
「こいつ、一人にすると昼飯食い忘れるから」
「食い忘れたことねえよ」
亜美が吹き出した。
「小野寺亜美です。渚沙の保護者」
「え、そっちも保護者いんの」
「いる。この子、一人にすると返事に三日かかるから」
私は、弁当の卵焼きを箸で持ったまま固まった。
今里くんが、飲んでいたお茶でむせた。
「……なんで知ってんの」
「え、何が?」
亜美がきょとんとした顔をする。今里くんは咳き込みながら、なんでもない、と手を振った。
私は、卵焼きを口に入れた。
甘かった。いつもより、ほんの少し。
それから、昼休みに四人で食べる日が、ときどきあるようになった。
毎日ではない。亜美が他のクラスの友達のところへ行く日もあるし、萩原くんが部活の集まりに呼ばれる日もある。でも、週に二回か三回は、窓際の後ろのほうで、四つの机がくっついていた。
萩原くんはよくしゃべった。亜美もよくしゃべった。二人は最初の三日で打ち解けて、一週間後には、お互いを遠慮なく呼び捨てにしていた。
今里くんは、二人の話を聞いて笑っていることが多かった。
ときどき、私のほうを見た。
私が何か言いかけて、飲み込んだときに。
萩原くんと亜美の会話の速さについていけず、口を開いたまま次の話題に置いていかれたときに。
今里くんは、何も言わずに、間を作った。
「……で、山吹さんは?」
二人の会話の切れ目に、そうやって話を振ってくれる。
そうすると、萩原くんも亜美も、ちゃんとこちらを向いて待ってくれた。
ずっと、自分のことを「会話に遅れる人」だと思っていた。
でも、この四人の机では、私の番がちゃんと回ってきた。
五月に入って、中間テストが近づいてきた。
放課後の図書室で、今里くんが現代文の問題集を広げて、頭を抱えていた。
「なんで『このときの主人公の心情を答えよ』に正解があんの。心情なんて人それぞれじゃん」
「……本文に、書いてあるから」
「書いてある?」
「ここ」
私は、問題文の三行前を指で示した。
「『窓の外を見た』って。前の場面で、窓の外にいたのは、お母さんだから」
「……え、それだけで?」
「それだけで」
今里くんは、問題集と私の顔を、交互に見た。
「山吹さん、なんでそれわかんの」
「……わかんないけど。なんとなく」
「なんとなくで正解すんの、ずるくない?」
私は、少し考えた。
どう説明すればいいのか、言葉を探した。
今里くんは、シャーペンを置いて待っていた。
「……言葉にしてないことも、書いてあるから」
「言葉にしてないことが?」
「うん。どこを見たとか、何を言わなかったとか。……そういうの」
今里くんは、シャーペンの頭を顎に当てたまま、黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「それ、山吹さんっぽい」
「……どういう意味」
「いや、なんか」
今里くんは、問題集に目を戻した。
戻しながら、小さな声で言った。
「言葉にしてないとこのほうが、ちゃんと聞こえてそうだなって」
私は、自分の問題集に目を落とした。
文字が、うまく頭に入ってこなかった。
図書室の窓から、西日が斜めに差し込んでいた。
ページをめくる音。遠くの運動部のかけ声。誰かが咳払いをする音。
ふと顔を上げると、今里くんがこちらを見ていた。
問題集ではなく、私のほうを。
目が合った。
今里くんは、窓の外に視線を逸らした。逸らすのが、少しだけ速すぎた。
「……今里くん」
「な、なに」
「問三、そこ、違う」
「え、どこ」
今里くんは、慌てて問題集を覗き込んだ。耳の先が、赤くなっていた。
私は、自分の頬に手を当てた。
同じくらい、熱かった。
下校のチャイムが鳴って、図書室を出た。
昇降口で靴を履き替えていると、先に外に出ていた今里くんが、振り返って言った。
「山吹さんってさ、帰り、どっち?」
