境内には、誰もいなかった。
裸電球の光の届かないところは楠の影と夜が混ざって、どこまでが木でどこからが空なのか、わからなかった。
砂利を踏む音が、一人分だけ響いた。
私は、本殿を見なかった。
本殿の脇の、古い木の立て札の前に立った。
四月から、一度も、ちゃんと読んだことのない立て札だった。一度目の高三の五月、あの人に「山吹さん」と呼ばれて、一行目で目を離したきりの。
暗くて、字が見えなかった。
スマホを取り出して、ライトをつけた。
白い光の輪が、灰色に褪せた板の上に落ちた。
墨で書かれた文字が、光の中に浮かび上がった。
この社は、古くより——
一行目だった。
私は、光の輪を、ゆっくりと下へずらしていった。
一行ずつ、字が浮かんで、光が過ぎると、また闇に沈んでいった。
縁を結ぶ神を祀る、と書いてあった。
人の願いを聞き届け、その縁を結び、守る、と。
願いを掛けし者は、その願いの続くかぎり——
そこから先は、墨がかすれていた。
雨風に晒されて、字の輪郭が溶けていた。光を近づけても、遠ざけても、読めるのは、ところどころの一文字だけだった。
代。
日。
命。
手が、止まった。
光の輪の中で、その一文字が、じっとこちらを見ていた。
命。
その先を、読もうとした。
目が、滑った。
字を追おうとするたびに、視界が揺れて、行が重なって、どこを読んでいるのかわからなくなった。かすれているせいなのか、自分の目のせいなのか、わからなかった。
最後の数行は、光を当てても、ただの灰色の木目にしか見えなかった。
ただ、一番下の行の端に、一文字だけ、墨の濃いところがあった。
覚。
何を覚えるのか。何を、覚えていろというのか。それも、わからなかった。
私は、スマホを下ろした。
ライトが、砂利の上に、白い円を描いた。
膝が、冷たかった。
砂利に膝をついているわけではなかった。立っていた。それなのに、膝の下で何かが水を吸っていく感覚が、どうしても消えなかった。
ここで、問いかけた。
ここで、戻された。
この立て札には、それが書いてあるのかもしれなかった。書いてあって、私には、読めなかった。
本殿の横の絵馬掛けの前に立った。
何百枚もの絵馬が、幾重にも重なって掛かっていた。合格祈願。家内安全。恋愛成就。スマホの光を当てると、色とりどりの文字が次々と浮かんでは消えた。
何を探せばいいのか、わからなかった。
夜風が吹くたびに、絵馬どうしが触れ合って乾いた音を立てた。表に見えているものだけを、眺めていた。
知らない人の名前。知らない人の願い。
どれも私には関係のないものに見えた。
あの人は行くなと言った。
あれほど強い声で、あの人が遠ざけようとした場所。
何があの人をそうさせるのか、私には、わからなかった。
立て札は途中までしか読めず、絵馬掛けには知らない願いが並んでいるだけだった。
答えがあるはずの場所で、私は何も見つけられなかった。
私は鳥居をくぐって、坂を下りた。
振り返らなかった。
三日後の朝、五時に目が覚めた。
五月二十七日だった。
枕元のスマホを見た。五時十二分。
何も、鳴らなかった。
私は布団の中で、しばらくその数字を見ていた。
二年前の今日、この時間に、あの人は息を止めた。
今年のあの人は、海の町で、たぶんまだ眠っている。
生きている。
五時十三分になった。
私は目を閉じた。
次の土曜日も、七時十二分の電車に乗った。
無人駅の箱に切符を入れて、防波堤沿いの道を歩いた。
先週より、日差しが強かった。防波堤の上にカモメが三羽、等間隔に並んでとまっていて、私が近づくと、一羽ずつ面倒くさそうに飛び立った。
民宿の裏口の扉は叩いても開かなかった。
玄関に回ると、白い割烹着の女の人が出てきた。民宿のおかみさんだった。私の顔を見て、少し困ったように笑った。
「裕太くんの、お知り合い?」
「……はい」
「あの子ね、今、裏で魚捌いてるんだけど。……会いたくないって」
おかみさんは気の毒そうに眉を下げた。
「麦茶、飲んでいきなさい。暑いから」
玄関の上がり框で、冷たい麦茶を飲んだ。
土間は外よりずっとひんやりしていた。下駄箱の上に、貝殻を並べた小さな籠と、色の褪せたこけしが一つ。壁の柱時計がこち、こち、と、少し遅れたような音で鳴っていた。
廊下の床板は飴色に光っていた。奥の部屋の障子が半分開いていて、扇風機の首が、ゆっくり右に回って、左に回っていた。
開け放した窓から、波の音が途切れ途切れに入ってきた。
グラスの外側に、細かい水滴がついていた。指でなぞると、すぐにぬるくなった。
奥の廊下の先から、包丁の音が聞こえていた。一度も、止まらなかった。
私は麦茶を飲み終えて、おかみさんに頭を下げて、最終の一本前の電車で帰った。
その次の土曜日も、来た。
六月の最初の土曜日だった。
裏口の扉を叩くと、しばらくして扉が開いた。
裕太が立っていた。
Tシャツの袖を肩まで捲って、首にタオルを掛けていた。手首に、黒い革のベルトが見えた。
「……また来た」
低い声だった。
「来るなって、言ったよな」
「……言われた」
「なんで来んの」
私は答えなかった。
代わりにずっと胸の中で転がしていた言葉を、口にした。
「私のこと、本当に好き?」
口にしてから、気づいた。
雨の神社で、答えてくれる人のいない場所に投げた問いと、同じ言葉だった。
裕太は、動かなかった。
扉の枠に手をかけたまま、私の顔を見ていた。
長いあいだ、黙っていた。
潮風が、二人のあいだを通り過ぎていった。遠くで、カモメが鳴いた。
裕太の喉が、一度だけ動いた。
「本当に大好きだよ」
息が、止まった。
「でも、一緒にはいられない」
それだけ言って、裕太は、扉を閉めた。
内側から、鍵をかける音がした。
私は閉まった扉の前に立っていた。
本当に大好きだよ。
あの雨の日、どうしても知りたかったことの、答えだった。
答えをもらったのに、何も終わらなかった。
でも、一緒にはいられない。
その「でも」の先が、わからなかった。
どうして、一緒にいられないのか。大好きなのに、どうして。
扉は、もう開かなかった。
無人駅に戻ると、二両の電車がもうホームに入っていた。
座席に座ると、車体がことん、ことん、と揺れた。揺れるたびに、膝の上の鞄が少しずつ前へずれた。窓を少しだけ開けると、潮の匂いの混じった風が髪の先をさらっていった。
トンネルに入った。
帰りの電車の窓に、自分の顔が映っていた。
窓に映った目は、乾いたままだった。
あの「でも」の続きを、私はまだ、聞いていない。
裸電球の光の届かないところは楠の影と夜が混ざって、どこまでが木でどこからが空なのか、わからなかった。
砂利を踏む音が、一人分だけ響いた。
私は、本殿を見なかった。
本殿の脇の、古い木の立て札の前に立った。
四月から、一度も、ちゃんと読んだことのない立て札だった。一度目の高三の五月、あの人に「山吹さん」と呼ばれて、一行目で目を離したきりの。
暗くて、字が見えなかった。
スマホを取り出して、ライトをつけた。
白い光の輪が、灰色に褪せた板の上に落ちた。
墨で書かれた文字が、光の中に浮かび上がった。
この社は、古くより——
一行目だった。
私は、光の輪を、ゆっくりと下へずらしていった。
一行ずつ、字が浮かんで、光が過ぎると、また闇に沈んでいった。
縁を結ぶ神を祀る、と書いてあった。
人の願いを聞き届け、その縁を結び、守る、と。
願いを掛けし者は、その願いの続くかぎり——
そこから先は、墨がかすれていた。
雨風に晒されて、字の輪郭が溶けていた。光を近づけても、遠ざけても、読めるのは、ところどころの一文字だけだった。
代。
日。
命。
手が、止まった。
光の輪の中で、その一文字が、じっとこちらを見ていた。
命。
その先を、読もうとした。
目が、滑った。
字を追おうとするたびに、視界が揺れて、行が重なって、どこを読んでいるのかわからなくなった。かすれているせいなのか、自分の目のせいなのか、わからなかった。
最後の数行は、光を当てても、ただの灰色の木目にしか見えなかった。
ただ、一番下の行の端に、一文字だけ、墨の濃いところがあった。
覚。
何を覚えるのか。何を、覚えていろというのか。それも、わからなかった。
私は、スマホを下ろした。
ライトが、砂利の上に、白い円を描いた。
膝が、冷たかった。
砂利に膝をついているわけではなかった。立っていた。それなのに、膝の下で何かが水を吸っていく感覚が、どうしても消えなかった。
ここで、問いかけた。
ここで、戻された。
この立て札には、それが書いてあるのかもしれなかった。書いてあって、私には、読めなかった。
本殿の横の絵馬掛けの前に立った。
何百枚もの絵馬が、幾重にも重なって掛かっていた。合格祈願。家内安全。恋愛成就。スマホの光を当てると、色とりどりの文字が次々と浮かんでは消えた。
何を探せばいいのか、わからなかった。
夜風が吹くたびに、絵馬どうしが触れ合って乾いた音を立てた。表に見えているものだけを、眺めていた。
知らない人の名前。知らない人の願い。
どれも私には関係のないものに見えた。
あの人は行くなと言った。
あれほど強い声で、あの人が遠ざけようとした場所。
何があの人をそうさせるのか、私には、わからなかった。
立て札は途中までしか読めず、絵馬掛けには知らない願いが並んでいるだけだった。
答えがあるはずの場所で、私は何も見つけられなかった。
私は鳥居をくぐって、坂を下りた。
振り返らなかった。
三日後の朝、五時に目が覚めた。
五月二十七日だった。
枕元のスマホを見た。五時十二分。
何も、鳴らなかった。
私は布団の中で、しばらくその数字を見ていた。
二年前の今日、この時間に、あの人は息を止めた。
今年のあの人は、海の町で、たぶんまだ眠っている。
生きている。
五時十三分になった。
私は目を閉じた。
次の土曜日も、七時十二分の電車に乗った。
無人駅の箱に切符を入れて、防波堤沿いの道を歩いた。
先週より、日差しが強かった。防波堤の上にカモメが三羽、等間隔に並んでとまっていて、私が近づくと、一羽ずつ面倒くさそうに飛び立った。
民宿の裏口の扉は叩いても開かなかった。
玄関に回ると、白い割烹着の女の人が出てきた。民宿のおかみさんだった。私の顔を見て、少し困ったように笑った。
「裕太くんの、お知り合い?」
「……はい」
「あの子ね、今、裏で魚捌いてるんだけど。……会いたくないって」
おかみさんは気の毒そうに眉を下げた。
「麦茶、飲んでいきなさい。暑いから」
玄関の上がり框で、冷たい麦茶を飲んだ。
土間は外よりずっとひんやりしていた。下駄箱の上に、貝殻を並べた小さな籠と、色の褪せたこけしが一つ。壁の柱時計がこち、こち、と、少し遅れたような音で鳴っていた。
廊下の床板は飴色に光っていた。奥の部屋の障子が半分開いていて、扇風機の首が、ゆっくり右に回って、左に回っていた。
開け放した窓から、波の音が途切れ途切れに入ってきた。
グラスの外側に、細かい水滴がついていた。指でなぞると、すぐにぬるくなった。
奥の廊下の先から、包丁の音が聞こえていた。一度も、止まらなかった。
私は麦茶を飲み終えて、おかみさんに頭を下げて、最終の一本前の電車で帰った。
その次の土曜日も、来た。
六月の最初の土曜日だった。
裏口の扉を叩くと、しばらくして扉が開いた。
裕太が立っていた。
Tシャツの袖を肩まで捲って、首にタオルを掛けていた。手首に、黒い革のベルトが見えた。
「……また来た」
低い声だった。
「来るなって、言ったよな」
「……言われた」
「なんで来んの」
私は答えなかった。
代わりにずっと胸の中で転がしていた言葉を、口にした。
「私のこと、本当に好き?」
口にしてから、気づいた。
雨の神社で、答えてくれる人のいない場所に投げた問いと、同じ言葉だった。
裕太は、動かなかった。
扉の枠に手をかけたまま、私の顔を見ていた。
長いあいだ、黙っていた。
潮風が、二人のあいだを通り過ぎていった。遠くで、カモメが鳴いた。
裕太の喉が、一度だけ動いた。
「本当に大好きだよ」
息が、止まった。
「でも、一緒にはいられない」
それだけ言って、裕太は、扉を閉めた。
内側から、鍵をかける音がした。
私は閉まった扉の前に立っていた。
本当に大好きだよ。
あの雨の日、どうしても知りたかったことの、答えだった。
答えをもらったのに、何も終わらなかった。
でも、一緒にはいられない。
その「でも」の先が、わからなかった。
どうして、一緒にいられないのか。大好きなのに、どうして。
扉は、もう開かなかった。
無人駅に戻ると、二両の電車がもうホームに入っていた。
座席に座ると、車体がことん、ことん、と揺れた。揺れるたびに、膝の上の鞄が少しずつ前へずれた。窓を少しだけ開けると、潮の匂いの混じった風が髪の先をさらっていった。
トンネルに入った。
帰りの電車の窓に、自分の顔が映っていた。
窓に映った目は、乾いたままだった。
あの「でも」の続きを、私はまだ、聞いていない。
