無人駅だった。
改札もなく、切符を入れる箱が一つ置いてあるだけの、小さなホーム。降りたのは、私一人だった。
二両の電車は、私を降ろすと、短く警笛を鳴らして、また走り出した。
最後の一時間、あの電車は、よく揺れた。
カーブのたびに、吊り革が一斉に同じほうへ傾いて、座席の下から、モーターの低い唸りが、足の裏に伝わってきた。トンネルを抜けるたびに、窓の外が、ぱっと明るくなった。いくつ目かのトンネルを抜けたところで、海が見えた。
それからずっと窓の左側に海があった。
電車の音が、線路の先へ小さくなって、消えた。
潮の匂いがした。
海は、駅のすぐ向こうにあった。白っぽく霞んだ空の下で、凪いだ水面が、ほとんど動いていないように見えた。
切符を、箱に入れた。
かたん、と、底のほうで小さな音がした。
地図を頼りに、防波堤沿いの道を歩いた。
防波堤のコンクリートは、手を置くと、もう温かかった。表面がざらざらしていて、ところどころに、乾いた海藻が白く貼りついていた。低いところで、波が、テトラポッドのあいだを出たり入ったりしていた。そのたびに、ちゃぷ、と、くぐもった音がした。
十五分ほどで、写真の建物が見えてきた。
古い木造の二階建て。色の褪せた看板。玄関の脇に、干した布団がいくつも並んでいた。
玄関の前に立ったまま、干された布団が海風にふくらんで、しぼむのを見ていた。
呼び鈴を押せなかった。
押して、あの人が出てきたら、何を言えばいいのか。
押して、あの人が出てこなかったら。
どちらも、怖かった。
建物の横の細い道から、裏手に回った。勝手口のような扉の横に、ビールのケースが積まれていた。その向こうに、自転車が一台と、黒いバイクが一台、停まっていた。
知らないバイクだった。
萩原くんのお兄さんのものより、ずっと古くて、あちこちに錆が浮いていた。
私はそのバイクから、目を離せなかった。
「——何してんの」
声がした。
振り返ると、勝手口の扉が開いていた。
裕太が立っていた。
民宿の名前が入った、紺色のTシャツ。首にタオル。手に、空のビールケースを一つ提げていた。
私を見て、動きを止めていた。
「……なんで」
かすれた声だった。
「なんで、ここ、知ってんの」
私は答えられなかった。
二週間ぶりに見た顔だった。少し痩せていた。日に焼けていた。目の下に、薄く影があった。
生きていた。
それだけで、喉の奥が詰まった。
「……萩原くんの、写真」
やっと、それだけ言えた。
裕太は目を閉じた。
深く、息を吐いた。
「……あいつ」
ビールケースを、地面に置いた。
それから目を開けて、私を見た。
「帰れ」
知っている声だった。
二年前、居酒屋の路地で聞いた声だった。
「帰れよ。……ここ、渚沙の来るとこじゃない」
「……どうして」
「どうしてもだよ」
「大学、やめたって。おばさんから聞いた」
「……」
「何も言わないで、いなくなって。……どうして」
裕太は答えなかった。
ポケットに手を入れて、足元を見ていた。
「今は、話せない」
「いつなら、話せるの」
「……わかんない」
私は一歩、近づいた。
裕太が一歩、下がった。
勝手口の扉に、背中が当たった。
「来んなって」
低い声だった。
怒っているような。
怖がっているような。
二年前の、花屋のシャッターの前で聞いたのと、同じ声だった。
「……帰れ。最後の電車、八時だから。それ逃したら、明日の朝までない」
私は動けなかった。
帰れと言われて、帰れなかった。
帰ったら、この人はまた見えないところに行ってしまう。見えないところで、二年前と同じように。
裕太は私の顔を見ていた。
何かを確かめるように。
それから目を逸らした。
逸らしたまま、言った。
「それから」
「……」
「神社には、行くな」
息が、止まった。
神社。
この人は今、神社と言った。
「……どこの」
「高校の近くの。坂の上の」
裕太はまだ目を逸らしていた。
「あそこには、近づくな。……理由は、訊くな」
「……」
「いいから。行くな」
いつもより、強い声だった。
帰れ、と言ったときよりも、ずっと。
どうして、と訊こうとした。
どうして、あの神社なの。
どうして、あそこに行くなと言うの。
口を開いた。
声が出る前に、裕太は勝手口の扉を開けて、中に入った。
扉が、閉まった。
内側から、鍵をかける音がした。
私は閉まった扉の前に、しばらく立っていた。
潮風が、髪を揺らした。
足元に、裕太が置いていったビールケースがあった。
民宿の二階の窓から、誰かがこちらを見ている気配がした。見上げると、カーテンが、ふっと揺れて、止まった。
三時四十分に、防波堤沿いの道を、駅に向かって歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、二階の窓に、あの人の顔があるかもしれない。
なかったら、と思うと、振り返れなかった。
帰りの電車は、行きより長く感じた。
窓の外が、海から山に変わって、山から街に変わった。乗り換えを二回して、地元の駅に着いたのは、七時を過ぎていた。
改札を出た。
いつもなら、角を三つ曲がって、家に帰る。
私は反対のほうへ歩いた。
高校のほうへ。
神社には、行くな。
あの人はそう言った。
四月からずっと、私が怖くて近づけなかった場所だった。あの人と一緒のときだけ、本殿を見ないように、立て札を読まないように、通り抜けてきた場所だった。
あの人はあそこを、怖がっている。
なぜなのかは、見当もつかなかった。ただ、あの人が私を遠ざけようとしたものが、あそこにある。
だったら。
確かめるしかなかった。
坂を上った。
鳥居の前で、足が止まった。
夜の境内は、暗かった。本殿の前に、裸電球がひとつだけ灯っていた。楠の葉が、風に揺れて鳴っていた。
一人でこの鳥居の前に立つのは、あの雨の日以来だった。
喪服で膝をついた日以来。
膝の下で、何かが水を吸っていく感覚が、また、戻ってきた。
私は息を吸った。
鳥居を、くぐった。
改札もなく、切符を入れる箱が一つ置いてあるだけの、小さなホーム。降りたのは、私一人だった。
二両の電車は、私を降ろすと、短く警笛を鳴らして、また走り出した。
最後の一時間、あの電車は、よく揺れた。
カーブのたびに、吊り革が一斉に同じほうへ傾いて、座席の下から、モーターの低い唸りが、足の裏に伝わってきた。トンネルを抜けるたびに、窓の外が、ぱっと明るくなった。いくつ目かのトンネルを抜けたところで、海が見えた。
それからずっと窓の左側に海があった。
電車の音が、線路の先へ小さくなって、消えた。
潮の匂いがした。
海は、駅のすぐ向こうにあった。白っぽく霞んだ空の下で、凪いだ水面が、ほとんど動いていないように見えた。
切符を、箱に入れた。
かたん、と、底のほうで小さな音がした。
地図を頼りに、防波堤沿いの道を歩いた。
防波堤のコンクリートは、手を置くと、もう温かかった。表面がざらざらしていて、ところどころに、乾いた海藻が白く貼りついていた。低いところで、波が、テトラポッドのあいだを出たり入ったりしていた。そのたびに、ちゃぷ、と、くぐもった音がした。
十五分ほどで、写真の建物が見えてきた。
古い木造の二階建て。色の褪せた看板。玄関の脇に、干した布団がいくつも並んでいた。
玄関の前に立ったまま、干された布団が海風にふくらんで、しぼむのを見ていた。
呼び鈴を押せなかった。
押して、あの人が出てきたら、何を言えばいいのか。
押して、あの人が出てこなかったら。
どちらも、怖かった。
建物の横の細い道から、裏手に回った。勝手口のような扉の横に、ビールのケースが積まれていた。その向こうに、自転車が一台と、黒いバイクが一台、停まっていた。
知らないバイクだった。
萩原くんのお兄さんのものより、ずっと古くて、あちこちに錆が浮いていた。
私はそのバイクから、目を離せなかった。
「——何してんの」
声がした。
振り返ると、勝手口の扉が開いていた。
裕太が立っていた。
民宿の名前が入った、紺色のTシャツ。首にタオル。手に、空のビールケースを一つ提げていた。
私を見て、動きを止めていた。
「……なんで」
かすれた声だった。
「なんで、ここ、知ってんの」
私は答えられなかった。
二週間ぶりに見た顔だった。少し痩せていた。日に焼けていた。目の下に、薄く影があった。
生きていた。
それだけで、喉の奥が詰まった。
「……萩原くんの、写真」
やっと、それだけ言えた。
裕太は目を閉じた。
深く、息を吐いた。
「……あいつ」
ビールケースを、地面に置いた。
それから目を開けて、私を見た。
「帰れ」
知っている声だった。
二年前、居酒屋の路地で聞いた声だった。
「帰れよ。……ここ、渚沙の来るとこじゃない」
「……どうして」
「どうしてもだよ」
「大学、やめたって。おばさんから聞いた」
「……」
「何も言わないで、いなくなって。……どうして」
裕太は答えなかった。
ポケットに手を入れて、足元を見ていた。
「今は、話せない」
「いつなら、話せるの」
「……わかんない」
私は一歩、近づいた。
裕太が一歩、下がった。
勝手口の扉に、背中が当たった。
「来んなって」
低い声だった。
怒っているような。
怖がっているような。
二年前の、花屋のシャッターの前で聞いたのと、同じ声だった。
「……帰れ。最後の電車、八時だから。それ逃したら、明日の朝までない」
私は動けなかった。
帰れと言われて、帰れなかった。
帰ったら、この人はまた見えないところに行ってしまう。見えないところで、二年前と同じように。
裕太は私の顔を見ていた。
何かを確かめるように。
それから目を逸らした。
逸らしたまま、言った。
「それから」
「……」
「神社には、行くな」
息が、止まった。
神社。
この人は今、神社と言った。
「……どこの」
「高校の近くの。坂の上の」
裕太はまだ目を逸らしていた。
「あそこには、近づくな。……理由は、訊くな」
「……」
「いいから。行くな」
いつもより、強い声だった。
帰れ、と言ったときよりも、ずっと。
どうして、と訊こうとした。
どうして、あの神社なの。
どうして、あそこに行くなと言うの。
口を開いた。
声が出る前に、裕太は勝手口の扉を開けて、中に入った。
扉が、閉まった。
内側から、鍵をかける音がした。
私は閉まった扉の前に、しばらく立っていた。
潮風が、髪を揺らした。
足元に、裕太が置いていったビールケースがあった。
民宿の二階の窓から、誰かがこちらを見ている気配がした。見上げると、カーテンが、ふっと揺れて、止まった。
三時四十分に、防波堤沿いの道を、駅に向かって歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、二階の窓に、あの人の顔があるかもしれない。
なかったら、と思うと、振り返れなかった。
帰りの電車は、行きより長く感じた。
窓の外が、海から山に変わって、山から街に変わった。乗り換えを二回して、地元の駅に着いたのは、七時を過ぎていた。
改札を出た。
いつもなら、角を三つ曲がって、家に帰る。
私は反対のほうへ歩いた。
高校のほうへ。
神社には、行くな。
あの人はそう言った。
四月からずっと、私が怖くて近づけなかった場所だった。あの人と一緒のときだけ、本殿を見ないように、立て札を読まないように、通り抜けてきた場所だった。
あの人はあそこを、怖がっている。
なぜなのかは、見当もつかなかった。ただ、あの人が私を遠ざけようとしたものが、あそこにある。
だったら。
確かめるしかなかった。
坂を上った。
鳥居の前で、足が止まった。
夜の境内は、暗かった。本殿の前に、裸電球がひとつだけ灯っていた。楠の葉が、風に揺れて鳴っていた。
一人でこの鳥居の前に立つのは、あの雨の日以来だった。
喪服で膝をついた日以来。
膝の下で、何かが水を吸っていく感覚が、また、戻ってきた。
私は息を吸った。
鳥居を、くぐった。
