五月の水仙は枯れない

 二年前の五月七日、あの人は知らない先輩たちの真ん中で笑っていた。

 今年の五月七日、あの人はどこにもいなかった。

 

『ごめん。しばらく、大学休む』

 そのメッセージのあと、私は何度も返事を送った。

『どうしたの』

『体調悪い?』

『何かあった?』

 既読は、つかなかった。

 昼休みに、学食の窓際の端の席に座った。カレーを頼んで、入り口を見ていた。

 あの人は、来なかった。真ん中のテーブルの先輩たちも、今日は静かに自分たちの話をしていた。あの人の居場所は、そこにもなかった。

 夜の九時を過ぎて、ひとつだけ返事が来た。

『心配しないで』

 それだけだった。

 

 二年前と違っていた。

 二年前のあの人は、私の前から逃げなかった。学食で、並木道で、居酒屋の前で、目の届くところにいた。目を逸らしながら、それでも、そこにいた。

 今年のあの人は、どこにもいなかった。

 ノートの一ページ目に書いた日付を、私は毎晩見返した。

 五月七日。学食。先輩たち。居酒屋。バイク。

 どれも、起きなかった。

 起きないまま、あの人だけが、いなくなっていた。

 

 三日目の夕方、裕太の家に行った。

 駅の反対側の、線路沿いの、白い壁の家。夏休みに何度も夕飯をごちそうになった家。

 呼び鈴を押すと、おばさんが出てきた。

「あら、渚沙ちゃん」

 おばさんは、困ったような顔で笑った。

「あの子、いないのよ。昨日から、ちょっと出かけてて」

「……どこに」

「それがねえ、言わないの」

 おばさんは玄関の柱に手をついて、ため息をついた。

「連休明けの朝にね、急に『大学やめる』って言い出して。お父さんと大喧嘩して。それで、次の日には、荷物まとめて出ていっちゃった。……渚沙ちゃんにも、何も言ってないの?」

 

 大学を、やめる。

 その言葉が、頭の中で意味を結ばなかった。線路のほうから、踏切の警報音が聞こえて、電車が通り過ぎて、また静かになった。

 二年前のあの人は、大学をやめなかった。深夜のバイトを入れても、講義中に居眠りをしても、最後まで学籍はあった。

「……聞いて、ません」

「そう」

 おばさんは、私の手を両手で包んだ。

 温かかった。

 二年前の病院の廊下で、この手が冷たかったことを、私は覚えていた。

「ごめんね。……あの子、何考えてるのか、わかんないの。渚沙ちゃんと喧嘩でもしたのかと思ったんだけど」

「……してません」

「そうよね」

 おばさんは力なく笑った。

「連絡があったら、渚沙ちゃんにも、すぐ知らせるから」

 

 帰り道、角を三つ曲がりながら、考えていた。

 なぜ、大学をやめたのか。

 なぜ、何も言わずにいなくなったのか。

 あの人は私の知らないやり方で、私の前から消えた。

 理由がわからないものを、止める方法はわからない。

 四月に、ノートを前にしてそう思ったのは、私だった。

 今も、何も、わかっていなかった。

 

 その夜、クローゼットの奥に掛けたままの、冬のコートのポケットに、手を入れた。

 何を探していたのか、自分でもわからなかった。

 指先に、乾いたものが触れた。

 銀杏の葉だった。

 去年の秋、並木の下で、あの人の髪から取った一枚。黄色は褪せて、端が茶色く丸まっていた。指で押すと、かすかに鳴った。

 私は、それを手のひらに載せたまま、窓の外が暗くなりきるまで、ベッドの端に座っていた。

 

 それから二週間が過ぎた。

 メッセージには、三日に一度くらい、短い返事が来た。

『元気』

『飯は食ってる』

『心配しないで』

 どこにいるのかは、一度も書いてこなかった。

 大学には、行った。講義に出て、ノートを取って、学食でカレーを食べた。隣の席は、ずっと空いていた。

 亜美は週に何度も電話をくれた。

「今里、ほんとにどこにもいないの?」

「……うん」

「朔は?」

「……萩原くんも、わからないって」

 そう言いながら、私は、萩原くんの顔を思い出していた。

 

 五月二十日の昼、工学部の実験棟の前で、萩原くんが私を呼び止めた。

「山吹さん。……裕太から、連絡あった」

 心臓が、跳ねた。

「どこに、いるの」

「海のほう。……住み込みで、民宿で働いてるって」

 萩原くんはスマホの画面を見せてくれた。

 短いメッセージだった。

『海の近くの民宿で住み込みしてる。元気。親には、そのうちちゃんと言う』

「それだけ。場所は、書いてない」

 萩原くんは、スマホをポケットに戻した。

 それから少し迷うような顔をして、言った。

「……あと、あいつ、バイク買ったらしい」

 

 実験棟の前を通り過ぎる学生たちの話し声が、ふっと遠くなった。

「……え」

「中古の、安いやつ。向こうで買ったって。移動に要るからって」

 萩原くんは困ったように頭を掻いた。

「兄貴のは、山吹さんに言われて、他の人に譲っちゃったからさ。……結局、自分で買ったんだな、あいつ」

 萩原くんは私の顔を見た。

 何かを訊きたそうな顔だった。

 あのとき、なんでバイクのこと、と。

 訊かなかった。

 

 私は、萩原くんの腕を掴んでいた。

「……民宿の名前、わからない?」

「え」

「お願い。調べられない?」

 萩原くんは私の手を見て、それから私の顔を見た。

「……山吹さん、なんか、ずっと必死だよね。去年から」

 私は、答えなかった。

 萩原くんは掴まれた腕を振りほどかずに、黙っていた。

 それからスマホを取り出して、何かを打ち始めた。

「あいつ、前に写真送ってきたんだよ。海の写真。……背景に、看板写ってた気がする」

 

 その夜、萩原くんから、一枚の写真が転送されてきた。

 青い海。白い防波堤。その端に、古い木造の建物の角が写っていた。

 色の褪せた看板に、民宿の名前が、半分だけ読めた。

 私は、その写真を、何度も指で広げた。

 広げるほど、海の青は、細かい四角の粒になって崩れた。防波堤のコンクリートには、黒い筋のような染みが何本も走っていた。建物の窓には、すだれが下がっていた。

 空は、少し白っぽかった。

 あの人はこの景色の、どこに立って、これを撮ったのだろう。

 私は、その名前を、地図で探した。

 電車で、三時間と少し。乗り換えは二回。最後の一時間は、海沿いを走る、二両しかない電車。

 地図の上で、線路は、終わりのほうだけ海岸線にぴったりと寄り添って、細く伸びていた。

 駅の名前を押すと、写真が何枚か出てきた。短いホームと、錆びた柵と、その向こうの海。ホームの端に、ベンチが一つ。

 駅から民宿までは、海沿いの道を歩いて、十五分くらいだった。

 時刻表も、調べた。一時間に一本。昼間には、それもない時間があった。

 窓を開けると、夜の風が入ってきた。

 ここの風は、潮の匂いがしなかった。

 土曜日の朝、七時十二分の電車に乗ることにした。