五月の水仙は枯れない

 二学期の最初の日の席替えで、私は廊下側の前から三番目、裕太は窓際の一番後ろになった。

 わかっていても、四月から五ヶ月、ずっと隣にあった横顔が教室の対角線の向こうへ行ってしまうのは、二度目でも、寂しかった。

 

 九月の終わり、進路指導室で、指定校推薦の書類を渡された。

 東京の、私立大学。文学部。小学生のころから、なんとなく憧れていた場所。

 二年前の私は、この書類を受け取った夜に、断ると決めた。決めて、それを裕太にどう言えばいいのかわからずに、四日間黙っていた。黙っているうちに、萩原くんが口を滑らせて、裕太は一秒も待たずに「行けよ」と言った。

 待てなかった、と、あとで門の前で言った。

 

 今度はすぐには決められなかった。

 あの五月七日は、同じ大学の、同じキャンパスで起きた。私が近くにいたから、あの人は知らない先輩たちと笑い、深夜のバイトを入れ、バイクに乗ったのかもしれない。私から離れるために。

 最初から私が遠くにいたら、あの人はそんなことをしなくて済むのかもしれない。

 でも、あの人がなぜ変わったのか、私はまだ何ひとつわかっていなかった。わからないまま遠くへ行って、見えないところで、あの人がいなくなる。

 それだけは、嫌だった。

 水色のノートの、一番下の行を見た。

 そばにいる。

 

 次の日の放課後、図書館の窓際の長机で、私は裕太に書類を見せた。

 萩原くんが口を滑らせる前に。四日も黙る前に。

 裕太は大学の名前を見て、目を見開いた。

「すげーじゃん。行けよ。そんなの——」

「待って」

 

 自分の声が、図書館の静けさの中に、思ったより大きく響いた。

 司書さんが、カウンターの向こうで顔を上げた。

 裕太は口を半分開けたまま、止まっていた。

「……すぐに、言わないで」

「……え」

「三日でいいから」

 声が喉の途中で細くなった。

「……待ってて。私の答えが、来るまで」

 

 裕太は口を閉じた。

 書類を机の上に戻して、ゆっくりと椅子の背にもたれた。

「……わかった。待つ」

 膝の上で指を組んで、前を向いた。

 三日間、裕太は、推薦のことを一度も口にしなかった。ただ、ときどき何かを言いかけて飲み込むような顔で、私のほうを見た。

 

 三日目の放課後、図書館の外のベンチで、私は言った。

「……断った。今日、宮下先生に」

 裕太はココアの缶を持ったまま、動かなかった。

「……俺のせい?」

「違う」

 それだけは、すぐに言えた。

「私が、決めたの。……同じとこ、行きたい」

 

 裕太は缶を両手で握りしめて、うつむいた。ベンチの足元を、枯れ始めた葉が一枚、かさかさと転がっていった。

「……俺さ、この三日、ずっと、行くなって言いたかった。でも、言ったら、渚沙の邪魔になる気がして。言わないで待ってるの、すげーしんどかった。……渚沙って、いつもこんな感じで待ってたの?」

「……ううん」

 私は少しだけ笑った。

「いつもは、あなたが待ってた」

 裕太は目を丸くして、それから照れくさそうに缶を額に当てた。

「……じゃあ、冬までにA取る」

 

 十二月の模試で、裕太は本当にA判定を取った。一月の共通テストの夜に届いた『待っててくれて、ありがと』も、二年前と一字一句変わらなかった。

 三月の最初の週、居間のノートパソコンの前で、二人の番号を見つけた。

 裕太は両手で顔を覆って、「……っしゃ」と言った。

 私はその背中に手を置いた。

 二年後の五月に、冷たくなる背中だった。

 

 卒業式は、三月の半ばだった。

 朝から、曇っていた。

 校門の前で、写真を撮った。四人で撮って、亜美と二人で撮って、それから裕太と二人で撮ろうとした。

 スマホを構えたのは、私だった。

 裕太は「卒業」と書かれた看板の横に立った。卒業証書の筒を持って、胸元に花をつけて。

 画面の中の裕太は、ひどく緊張した顔をしていた。

 私はシャッターを押せなかった。

 

 この一枚を撮れば、あの写真が、この世界にもできる。

 黒い額に入る、あの一枚が。

 撮らなければ、あの一枚は、どこにも存在しない。

 指が、画面の上で止まっていた。

「……渚沙?」

 裕太が首を傾げた。

「どした。俺、そんな変な顔してる?」

「……してる」

「ひでえ」

 裕太は笑った。

 首の後ろに手をやって、眉を下げて、照れくさそうに。

 その瞬間に、指が勝手に動いた。

 

「あ、今の、ずるい」

「……撮れた」

 画面の中で、裕太はちゃんと笑っていた。

 いつもの顔で。

 最後の一枚だった。

「見せて」

 裕太が私の手元を覗き込んだ。

「……これ、いいじゃん。俺、こんな顔してんだ」

「……いつも、してるよ」

「渚沙といるとき?」

「……うん」

 裕太は照れ隠しに、画面を指でつついた。

「……それ、あとで送って」

 

 その夜、送信のボタンを押すまでに、一時間かかった。

 送らなければ、あの人のスマホに、この一枚は入らない。入らなければ、誰かがあの一枚を黒い額に入れることもない。

 そう思いながら、送った。

 この人が自分の顔を気に入って、「送って」と言ったのだ。

 その一枚を渡さないことは、私には、できなかった。

 

 四月。隣の県の、国立大学。毎朝、駅の同じホームの、同じ車両の、同じ扉の前で待ち合わせた。学食のカレーは、二年前と同じようにおいしかった。

 六月の終わりの誕生日に、駅前の本屋のアルバイト代で、黒い革のベルトの、飾り気のない腕時計を買った。

 同じものを選んだ。あの人の手首に、あれ以外のものが巻かれているのを、想像できなかった。

 裕太はベルトの穴を一つずつ試して、三つ目で止めた。

「これ、毎日つける」

 この人は、本当に毎日つける。寝るときも外さずに、手首が赤くなるまで。

 夏休みには、裕太の家で、夕飯をごちそうになった。帰り際、おばさんは玄関で私の手を両手で包んだ。

 指先が温かかった。

 私はその温度を、覚えておこうと思った。

 

 十一月の終わり、銀杏並木を二人で歩いた。

 落ち葉の厚いところを選んで歩いて、裕太が滑って転びかけた。

「今の、見なかったことにして」

「見た」

「忘れて」

「忘れない」

 裕太は観念したように笑った。

 その拍子に、髪に引っかかっていた葉が、頬に触れた。

「え、なにこれ。いつから」

「……さっきから」

「言えよ」

 裕太は犬が水を払うように頭を振った。葉は、落ちなかった。

 私は手を伸ばして、それを取った。

 扇の形をした、小さな葉だった。縁だけが、少し茶色く乾いていた。指のあいだで回すと、軸が、くるりと向きを変えた。

「……いる?」

「いらねえよ」

 私はそれを、コートのポケットにしまった。

 

 足元も、頭の上も、枝のすきまから見える空の低いところまで、全部、黄色かった。

 一歩ごとに、靴の下で、かさ、と乾いた音がして、少しだけ沈んだ。銀杏の実の、少し青くさい匂いがした。

 色も、音も、匂いも、覚えているとおりだった。

 覚えているとおりであることが、少しだけ怖かった。

「来年も、見に来ような」

「……うん」

「再来年も」

「……卒業しても」

 二年前と同じ順番で、同じ言葉を言った。

 言いながら、来年の十一月に、この並木道を二人で歩くことはできるのだろうか、と考えていた。

 

 春休みが近づいてきたころ、学食で萩原くんが言った。

「兄貴、春から東京で就職でさ。バイク、もう乗らないから、誰かに譲りたいって」

 スプーンが、止まった。

「え、まじで。俺、ちょうど免許取ろうと思ってたんだけど」

 

 その日の夕方、工学部の実験棟の前で、萩原くんを待った。

「……お兄さんのバイク。今里くんに、譲らないでほしい」

 萩原くんはきょとんとした顔をした。

「え、なんで。危ないから? 裕太、そんな荒い運転しないと思うけど」

 理由は、言えなかった。

 二年生の五月、あなたのお兄さんのバイクで、あの人は国道のガードレールにぶつかる。あなたは、それを、「よかったなって、思って」と言って、ずっと自分を責める。

「……お願い。理由は、言えない。……でも、お願い」

 萩原くんは、実験棟の自動扉が二度開いて閉じるあいだ、私の顔を見ていた。

 それから困ったように頭を掻いた。

「……山吹さんがそこまで言うの、初めて見た。わかった。兄貴には、他の人に譲るように言っとく。裕太には、もう売れちゃったって言っとくよ」

 ふっと、笑った。

「なんか、よくわかんないけど。山吹さん、裕太のこと、ほんとに大事なんだな」

 

 春休みに、裕太は二輪の免許を取った。

 止められなかった。「免許だけでも、やめない?」と一度だけ言ったら、「なんで。いつか後ろ乗せてやるって」と笑われて、それ以上は言えなかった。

「兄貴のバイク、もう売れちゃったらしい。……ま、いっか。バイク買う金もないし」

 私は隣で小さく息を吐いた。

 ひとつ、潰せた。

 

 四月。私たちは、二年生になった。

 ノートの一ページ目に書いた日付が、近づいてきた。私は毎朝、目が覚めるたびに、カレンダーを見た。

 五月六日の夜、連休の最後の日。

 映画の帰りに、地元の駅で電車を降りた。裕太は改札の前で「高校のほう、行ってみない?」と言った。

 私は首を振った。

「……今日は、まっすぐ帰りたい」

「そっか。じゃあ、送る」

 角を三つ曲がって、家の前に着いた。

「また明日」

 裕太は片手を上げて、少し照れくさそうに笑った。

 最後の一枚と、同じ顔だった。

「……また明日」

 

 その夜は、眠れなかった。

 枕元のスマホを、何度も見た。

 零時を過ぎた。

 五月七日になった。

 

 七時十二分。

 スマホが、震えた。

『おはよ』

 指が画面の上で固まった。

 来た。

 二年前には、来なかった『おはよ』が、来た。

 私はベッドの上で、スマホを胸に押し当てた。

 二年前とは、違う五月七日が、始まったのだと思った。

 

 七時四十分。

 いつものホームの、いつもの車両の、いつもの扉の前。

 裕太は、来なかった。

 代わりに一通だけ、メッセージが届いた。

『ごめん。しばらく、大学休む』