五月の水仙は枯れない

 中間テストが終わると、学校の空気が一気に文化祭へ傾いた。

 三年二組の出し物は、二年前と同じ喫茶店に決まった。裕太は二年前と同じ買い出し班の下に「今里」と書いて、指についたチョークの粉を、制服のズボンで払っていた。

 二年前、私は装飾班で、小さな黒板にメニューを書いた。裕太は書き損じた「いらっしゃいませ」を胸ポケットにしまって、次の日、何も言わずにチョークを置いていってくれた。

 今年も装飾班の下に「山吹」と書いた。

 ただ、メニューボードは、別の子が書くことになった。

 看板を作る係が、一人足りなかった。教室の入り口に掲げる、大きなベニヤ板の看板。青いペンキで地を塗って、白い文字で店の名前を入れる。

「山吹さん、字うまいでしょ。看板やってくれない?」

 班長の子にそう頼まれて、私は頷いた。

 頷きながら、手のひらが冷たくなった。

 二年前とは、違う役だった。

 

 放課後の教室の隅に、新聞紙を広げた。

 ベニヤ板を寝かせて、刷毛で青いペンキを塗っていく。ペンキの匂いが、鼻の奥につんと来た。

 裕太は、買い出しから戻ってくるたびに、私の横で足を止めた。

「うわ、でか。これ、一人でやんの」

「……うん」

「手伝おうか」

「……買い出し、あるでしょ」

「あるけど」

 裕太は袋を床に置いて、しゃがみ込んだ。私と同じ高さで、看板を覗き込む。

 近かった。

 私は刷毛を持ったまま、動けなくなった。

 

 準備が始まって四日目の夕方だった。

 看板の地塗りが乾いて、白い文字を入れる段階になっていた。教室の後ろでは、調理班の男子たちが、ホットプレートの配線をめぐって、実行委員と揉めていた。

「今里ー、延長コードどこ」

「袋の中!」

「渚沙、白いペンキ、足りてる?」

 すぐ後ろで、裕太の声がした。

 振り返った拍子に、私の肘が、ペンキの缶に当たった。

 缶が、倒れた。

 青いペンキが、新聞紙の端を越えて、教室の床に広がっていった。

 

「あ」

 私と裕太の声が、重なった。

 雑巾、と思った。雑巾は、教室の後ろのロッカーだった。

 私が動くより先に、裕太が、自分の鞄に手を突っ込んでいた。

 出てきたのは、紺色のジャージだった。

 体育の、上着。

 裕太はそれを丸めて、床のペンキに押しつけた。

「え、ちょっと」

 膝をついて、両手でジャージを床に押しつけて、広がっていく青を、端から吸い取っていく。

 紺色の布が、どんどん青く染まっていった。

「……それ、体育で使うやつでしょ」

 裕太は手を止めずに、顔だけ上げた。

「青いほうがかっこいいじゃん」

 

 ペンキの匂いが、急に遠くなった。教室の後ろの騒ぎも、ホットプレートの配線の話も。

 二年前には、なかった場面だった。

 私が、違う役を引き受けたから起きた場面だった。

 それなのに。

 青いほうがかっこいいじゃん、と言ったこの人は、二年前、書き損じの紙を拾って「もらっていい?」と訊いた人と、同じ顔をしていた。

 何が変わっても、この人は、この人だった。

 

 私は雑巾を取りに走った。

 戻ってきて、裕太の隣に膝をついて、一緒に床を拭いた。萩原くんが「なにやってんの、お前ら」と笑いながら覗きに来て、新聞紙をもう一枚持ってきてくれた。

 裕太のジャージは、もうほとんど真っ青だった。

「……ごめん」

「なんで渚沙が謝んの。急に後ろから声かけたの、俺だし。……いいって。洗えば落ちる」

 たぶん落ちなかった。

 

 次の日の体育の時間。

 校庭に並んだ男子の列の中に、一人だけ、まだらに青く染まったジャージを着た人がいた。

「……今里。なんだ、それは」

「青いほうがかっこいいんで」

 列の中から、笑い声が上がった。

 私は女子の列の後ろのほうから見ていた。

 先生に怒られて、グラウンドを一周走らされる背中を。

 走りながら、こちらを見て、片手を上げる顔を。

 声を出して、笑った。

 笑いながら、砂埃の向こうの青い背中から、目が離せなかった。

 

 文化祭の三日前、二階の階段の踊り場で、裕太が一組の早瀬さんと話しているのを見た。早瀬さんは、薄い水色の封筒を、両手で差し出していた。

「……渚沙?」

 亜美が、私の顔を覗き込んだ。

「萩原くん宛て、だと思う」

「え、なんでわかんの」

「……なんとなく」

 亜美は目を丸くして、それからにやりと笑った。

「渚沙の勘、当たるんだよね」

 私は階段を下りた。

 走らなかった。

 上履きの音が、ぱたぱたとは、鳴らなかった。

 

 文化祭の当日、私は、屋上へ続く階段に隠れなかった。

 二年前の私は、三日間この人を避けて、あの階段の上のほうで、アイスコーヒーを二つ持ってきたこの人に見つけられた。そしてあの問いを、訊かれた。

 俺がいなくなったらどうする。

 今年は教室の入り口の、青い地に白い文字の看板の前にいた。

 廊下の窓から中庭を見下ろすと、植え込みのそばで、萩原くんが耳まで真っ赤にして立っていた。その前で、早瀬さんが、水色の封筒を差し出していた。

「——うわ、朔、固まってる」

 裕太が紙コップを二つ持って、隣に立っていた。窓に額をくっつけて、笑っていた。

 私は隣の横顔を見て、待った。

 裕太は、紙コップの一つを私に渡して、後夜祭の放送を聞いて、「行こ。朔、回収しないと」と言った。

 あの問いは、来なかった。

 答えを、用意していた。

 どうもしなかった。何もできなかった。雨の神社で膝をついて、答えのない問いを投げることしか、できなかった。

 その答えを、今年は言えるはずだった。

 訊かれなかった。

 私は紙コップを握ったまま、廊下を歩き出した背中を追いかけた。

 

 七月の最後の土曜日。坂の上の神社の、夏祭り。

 二年前と同じ、紺地に白い朝顔の浴衣。母が帯を締めて、祖母の形見の簪を挿してくれた。坂の下で、亜美が黄色い帯の浴衣で手を振っていた。萩原くんと早瀬さんが、並んで立っていた。

 紺色の甚平で走ってきた裕太が、私の前で止まって、「わり、遅れた」と言いかけて、止まった。

 一秒。二秒。三秒。

 萩原くんが裕太の背中を肘で突いた。

 私は、下駄のつま先を見なかった。

 裕太の顔を、まっすぐ見ていた。

「……似合ってる」

 裕太が先に言った。

 二年前より、ずっと早く。

「……ありがとう」

 それからなぜだか、口が動いた。

「……今里くんも」

 裕太、とは、呼べなかった。

 あの四月の朝から、その名前を、一度も声に出していなかった。これから先も、出さないと決めていた。あの名前は、雨の神社に置いてきた人の名前だった。

 裕太が片手で口元を覆った。

 耳が、真っ赤だった。

 

 屋台を覗いて、りんご飴を齧って、亜美に置いていかれて。

 本殿の前の石段に、並んで座った。

 私は、本殿を背にして座った。楠の枝のあいだから、川のほうの空が見えた。

 どん、と花火が鳴って、裕太はその音が消えるのを待った。

「渚沙のことが、好きだ」

 二年前と一字も違わない言葉だった。わかっていたのに、胸が、痛いほど鳴った。

 この人は何も知らないまま、二度目の告白をしていた。

 私は、二年前と同じように袖をつまんで、最後の花火が消えるのを待った。

 同じ場所に、同じ順番で、着きたかった。

 金色の光が、夜空いっぱいに広がって、ゆっくりと垂れ落ちていった。

 全部、消えるのを待って。境内が、しんと静かになってから。

「……私も。好き」

 

 お守りを買いに授与所へ行った裕太を、私は本殿を背にしたまま待った。

 背中のほうで、参拝の鈴が、一度だけ鳴った。

 長いあいだ、次の音は、しなかった。

「はい。おそろい」

 戻ってきた裕太が差し出したのは、紺色の、学業成就のお守りだった。

 受け取るとき、右手の人差し指の脇に、黒いインクが、うっすらとついているのが見えた。

 二年前と同じ場所に。

 私は今年も、訊かなかった。

 訊いたら、この人は、何か答えてしまう気がした。答えを聞いたら、何かが変わってしまう気がした。

 

 家の前で、手を離す前に、裕太は「渚沙、あのさ」と言いかけた。そして二年前とそっくりに、首を振って笑った。

「……いや。やっぱ、いいや」

 私は繋いだ手を、離さなかった。

 この人が何を言いかけたのか、私は、たぶん一生知らないのだと思った。