五月の水仙は枯れない

 その日の帰り、亜美に、何があったのかを訊かれた。

 言えるはずがなかった。好きな人が死んで、葬式に行って、雨の神社で問いかけたら、二年前の教室に戻っていた。そんなことをどう言えばいいのか。

「……変な夢、見てたの。すごく、長い夢」

 亜美は納得したような、していないような顔で、私の頭をぽんと叩いた。

「ま、いいや。話したくなったら、話して」

 中学のころから、ずっとこの距離だった。

 

 家に帰ると、二年分若い母が、いつものエプロンをつけて台所に立っていた。

「……ただいま」

 声が喉の途中で細くなった。

 母は振り向かずに「手、洗ってきなさい」と言った。

 自分の部屋に入って、机の引き出しを開けた。

 腕時計は、なかった。あれは大学一年の六月に、本屋のアルバイト代で買ったものだった。

 お守りも、なかった。夏祭りはまだ三ヶ月も先だった。

 黒いワンピースは、クローゼットのどこにもなかった。黒い鞄の内ポケットに指を入れても、何も、触れなかった。

 あの二年間でもらったものは、まだ何ひとつなかった。

 

 あの二年間のほうが、夢だったのかもしれない。高三の四月の教室で、うたた寝をして、好きになって、付き合って、失う夢を見ただけなのかもしれない。

 そう思おうとした。

 でも、石段の熱も、ココアの缶の温かさも、集中治療室の電子音も、冷たくなった右手も、まだそこにあった。

 夢は、あんなに、手のひらに残らない。

 

 確かめることにした。

 火曜日の一時間目、宮下先生が教室に入ってくるなり「小テストやるぞー」と言った。教室中から、悲鳴が上がった。前の二年間で、一度受けたテストだった。シャーペンは止まらずに動いた。

 水曜日の昼休み、隣の席から「山吹さんってさ、昼いつもどこで食べてんの」と声がした。同じ曜日の、同じ時間に、同じ言葉で。パンの袋を破る、くしゃりという音まで。

 前と同じように答えれば、前と同じ二年間がまた始まる気がした。その先に何があるのか、私はもう見てきた。

 それでも、「……亜美の、とこ」としか言えなかった。

 

 金曜日の現代文の授業で、ペアワークがあった。

 ある少女が、大切な人に、最後まで何かを言えずに終わる話。

「山吹さん、どう思う?」

 裕太が椅子ごと体をこちらに向けた。

 二年前の私が、ここでなんと答えたのか、覚えていた。

 覚えていたから、言えなかった。

「……今里くんから」

「えー。俺はさあ、普通に、怖かったんじゃないかなって。言って嫌われたらどうしようとか」

 一字一句、覚えているとおりだった。

「山吹さんは?」

 裕太はシャーペンを指先でくるくる回しながら、待っていた。

「……言わなかったんじゃなくて」

 声が、震えた。

「言えなかったんだと思う。言う前に、いなくなっちゃったから」

 

 シャーペンが、止まった。

 二年前の私は、こんな答えを言わなかった。

 周りのペアの笑い声の中で、裕太だけが黙っていた。それからノートに何か書きつけた。

 ——言う前に、いなくなる。

「……それ」

「うん。なんか、刺さった」

 裕太は自分で書いた字から、目を離さなかった。

「山吹さん、なんか、あった?」

 私は首を振ることしか、できなかった。

 帰り際に「山吹さんってさ、しゃべるの遅いよね」と言われたのは、二年前のとおりだった。私は「……ごめん」と返した。二年前より、ずっと長く黙ったあとで。裕太は何か言いかけて、萩原くんに廊下から呼ばれて、そのまま教室を出ていった。

 

 一人で駅のほうへ歩いた。

 交差点の手前で、立ち止まった。

 右の道の先に、古い石の鳥居の頭が、わずかに見えていた。

 あそこで、問いかけた。問いかけて、ここに戻ってきた。

 答えをくれたのか。罰を与えたのか。それとも、もう一度同じものを見せようとしているのか。

 

 五月七日まで、あと、二年と少し。

 夢ではないのなら、あの日は、また来る。

 あの朝、『おはよ』が来なくなる。あの人は知らない笑い方で笑い始める。バイクに乗り始める。そして三週間もたたずに。

 この世界で、それを知っているのは、私だけだった。

 

 交差点の向こうから、自転車のベルが鳴った。

 私は鳥居から目を逸らして、まっすぐ駅のほうへ歩き出した。

 歩きながら、ひとつだけ、決めた。

 

 ——今度は、死なせない。