五月の水仙は枯れない

 紺色の袖口から、自分の手首が出ていた。

 細かった。

 大学に入ってから、いくらか肉がついたはずの手首が、高校生のころの細さに戻っていた。爪の形も、指の節も、見覚えがあるのに、どこか違っていた。

 私はその手を、膝の上で握ったり開いたりした。

 感覚は、ちゃんとあった。

 夢ではなかった。

「——出席番号順な。相沢から」

 宮下先生の声がした。

 前の席の子が立ち上がって、教卓へ歩いていく。お菓子の空き箱に手を入れて、四つ折りの紙を一枚引く。開いて、黒板の座席表を見上げて、チョークで自分の名前を書き込む。

 同じだった。

 空き箱の角のへこみも、チョークが黒板を擦る乾いた音も、窓から入ってくる風の、少し土の混じった匂いも。

 

 二年前に、見た光景だった。

 いや、二年前ではない。

 私が知っている二年前は、もうどこにもない。これは、今だった。

 何が起きているのか、わからなかった。

 わからないのに、体の奥のほうで、何かが覚えていた。

 雨の神社。膝の下で水を吸っていく喪服のスカート。本殿の正面で、組んだ指。声に出さずに投げた問い。

 ——裕太は、本当に私のことが好きだったんですか。

 あの問いのあとに、雨の音が、一瞬だけ遠くなった。

 そして、ここにいた。

 

「渚沙、何番?」

 顔を上げると、亜美がくじを握ったまま、私の席の横に立っていた。

 高校三年の、亜美だった。

 髪が、短かった。大学に入ってから伸ばし始めて、会うたびに色が変わっていった髪が、まだ肩の上で揃っていた。

「……亜美」

「ん? なに、その顔。……え、ちょっと待って。渚沙、泣きそうじゃない? 大丈夫?」

 目の奥が、熱かった。

 斎場でも、病院でも、雨の神社でも、どうしても出てこなかったものが、今、すぐそこまで来ている気がした。

 来なかった。

 熱いまま、出てこなかった。

「……大丈夫。ちょっと、寝ぼけてた」

 亜美は疑わしそうに私を見ていたけれど、自分の番が呼ばれて、「あとで話聞くから」と言って前へ出ていった。

 

 私の番が来た。

 教卓まで歩いて、空き箱に手を入れた。

 開く前から、わかっていた気がした。

 二十九。

 窓際の列の、後ろから二番目。

 チョークを取って、二十九の枠に「山吹」と書いた。

 字が、震えていた。

 

 机を運んで、窓際の列に椅子を下ろした。

 窓の外では、校庭の桜が半分くらい散っていた。花びらが、風に乗って二階の高さまで上がってくる。

 膝の上で両手を固く握った。

 次に何が起きるのか、わかっていた。

 隣の机が、がたん、と音を立てて止まる。

 

「よっ、と」

 

 声がした。

 息が、止まった。

 隣を見ることが、できなかった。

 視界の端で、背の高い影が、机の端を両手で押さえて、位置を微妙に調整していた。一度前に出しすぎて、また少し引いた。

 制服のシャツの袖を、肘のところまで捲っていた。

 腕に、薄く、日焼けの跡が残っていた。

 

 私は、ゆっくりと、顔を上げた。

 

 裕太がいた。

 

 白い包帯もなかった。口元の透明な管もなかった。赤黒く腫れた頬もなかった。

 黒い額の中でもなかった。

 白い菊の中でもなかった。

 四月の光の中で、少し眠そうな目をして、裕太が、生きて、そこにいた。

 目が合った。

「よろしく。山吹さん、だよね」

 

 私は何も言えなかった。

 わかってしまう。この人が、次に何を言うのか。この人がどんなふうに私の返事を待つのか。三日遅れの「ありがとう」も、石段の上の「渚沙って、呼んでいい?」も、校門の前の最後の一枚も。

 全部、知っていた。

 この人は何も知らなかった。

 私の名前を、座席表で見たばかりの、ただの同級生の顔をしていた。

 口が、勝手に動いた。

「……裕太」

 

 裕太が、瞬きをした。

「……え」

 それから、首を傾げた。

「いきなり下の名前? ……え、俺ら、話したことあったっけ」

 顔が、熱くなった。

 違う、と思った。この人は、まだ、何も。

「……ごめん」

 声が、かすれた。

「……今里くん。……人違い、じゃなくて。……ごめん、寝ぼけてた」

 自分でも、何を言っているのかわからなかった。

 裕太は瞬きを二度して、私の顔を見ていた。

 それからふっと笑った。

「いいよ、別に。裕太でも」

 

 私は、立ち上がった。

「……ちょっと、トイレ」

 宮下先生に聞こえないくらいの声で言って、教室の後ろの扉から廊下に出た。

 走った。

 上履きの音が、ぱたぱたと鳴った。

 女子トイレの一番奥の個室に入って、鍵をかけた。

 制服のポケットに、スマホが入っていた。

 大学に入ったときに買い替える前の、古い機種だった。画面の端に、高二の冬に落として入れたひびがあった。

 四月。高校三年の、四月。

 月曜日。

 

 写真フォルダを、開いた。

 遡った。

 指先が冷たかった。

 高三の四月から先の写真は、一枚もなかった。

 卒業式の日の写真も。

 校門の前の、何枚も撮り直した写真も。

 照れくさそうに笑っている、最後の一枚も。

 どこにも、なかった。

 

 私は、個室の壁にもたれて、スマホを胸に押し当てた。

 あの写真は、まだ撮られていない。

 撮られていないから、黒い額にも入っていない。

 それが、嬉しいのか、怖いのか、わからなかった。

 遠くで授業の始まりを告げるチャイムが鳴っていた。