斎場の控え室は、線香の匂いがした。長机の上に、お寿司の桶と、ビールの瓶と、湯呑みが並んでいた。大人たちは低い声で何かを話し、ときどき、誰かが鼻をすする音がした。
私は隅の椅子に座っていた。
黒いワンピースの膝の上に、黒い鞄を載せて。
隣には亜美がいた。亜美はずっと、私の手の甲に自分の手を重ねていた。何も言わずに。ときどき、指先で私の手の甲を撫でた。
お焼香は、もう済ませていた。
祭壇の上にあの写真があった。
白い菊に囲まれて、黒い額の中で、裕太が笑っていた。
私は、その前で、手を合わせた。
合わせたまま、何も思わなかった。
何も、思えなかった。
八時を過ぎて、人が少しずつ帰り始めたころ、萩原くんが控え室の入り口に立った。
黒いスーツが、ひどく似合っていなかった。大学の入学式のときに買ったものだと、あとで聞いた。袖が、少し短かった。
萩原くんは私を見て、少し迷うような顔をした。それから、こちらへ来て向かいの椅子に座った。
「……ちょっと、いい?」
亜美が私の手を離して、「飲み物もらってくる」と言って立ち上がった。
萩原くんは膝の上で、自分の手を見ていた。
「俺さ、ずっと考えてたんだけど」
「……うん」
「あいつ、連休明けてすぐくらいに、変なこと言ってたんだよ」
学食で、と萩原くんは言った。
五月の、二週目くらい。裕太が、あの先輩たちとつるみ出したころ。珍しく、あいつが一人で昼を食べてて。俺が向かいに座ったら、しばらく何も言わないで、カレーをつついてて。
それから、急に言ったんだ。
「なあ朔。もし同じ日を何回もやり直せるとしたらさ、お前どうする」
「……俺、ゲームの話だと思って」
萩原くんは苦笑いのような、泣き笑いのような顔をした。
「セーブポイントどこにするか、みたいな話してさ。テストの前の日に戻ってカンニングする、とか、宝くじの番号覚えとく、とか。くだらないこと言って」
「……」
「あいつ、笑ってたんだよ。『お前らしいな』って」
萩原くんの声が、揺れた。
「でも、目が、笑ってなかった気がする。……そう見えるの、あとからだからかもしんないけど」
控え室の空気が、一瞬、止まったような気がした。
「……それで」
「それで終わり。あいつ、カレー半分残して、先に行った」
萩原くんは顔を両手でこすった。
「あのとき、なんか、もっとちゃんと聞けばよかった。あいつ、何か言いたかったんじゃないかって。……今になって、ずっと、そればっか考えてる」
私は黙っていた。
同じ日を、何回も。
意味が、わからなかった。
ゲームの話。もしもの話。男の子同士の、くだらない雑談。
それだけのはずだった。
それなのに、胸の底で、何かが、ことりと動いた。
あの人は、萩原くんには、そんな話をしていた。
学食で。向かいに座った親友に。冗談めかして。
私には、「なんでもない」としか、言わなかったのに。
「……なんで」
声が出た。
萩原くんが顔を上げた。
「なんで、私には」
そこまで言って、止まった。
続きの言葉が、喉の奥で固まっていた。熱くて、重たくて、形にならなかった。
萩原くんは膝の上で、指を組み直した。
控え室の奥で、誰かが湯呑みを置く音がした。それから、萩原くんが「ごめん」と言った。
萩原くんが謝ることではなかった。わかっていた。
わかっていたのに、「いいよ」と言えなかった。
亜美が紙コップのお茶を二つ持って戻ってきた。
私の顔を見て、萩原くんの顔を見て、何も訊かずに、私の手にお茶を持たせた。
お茶は、ぬるかった。
私はそれを飲まずに、両手で包んでいた。
胸の底の、重たいもの。
病院の朝から、ずっとそこにあったもの。
それが、さっきより少しだけ、重くなっていた。
金曜日は朝から雨だった。
葬儀のことはあまり覚えていない。
読経の声。焼香の列。おばさんの、冷たい指先。壁際に立ったまま、一度も顔を上げなかった萩原くん。祭壇の上の、最後の一枚。
出棺の前に花を入れた。
白い菊を一輪、裕太の胸のあたりに置いた。
顔を見た。
眠っているように見えた。
口が半分開いて、眉間のしわがほどけて。二次試験の帰りの電車で、私の肩に頭を載せていたときと、同じ顔。
起きて、と思った。
数学の最後の問題、たぶん合ってる、って、寝ぼけた声で言って。
起きなかった。
蓋が、閉められた。
俺がいなくなったらどうする、と訊かれたことがあった。
答えは、まだ来ていなかった。
訊いた人は、もういなかった。
霊柩車が、雨の中を出ていった。
クラクションが、長く一度だけ鳴った。
斎場の玄関の前で、みんなが頭を下げていた。私も、下げた。顔を上げると、車はもう角を曲がって、見えなくなっていた。
人の輪が、少しずつほどけていった。
誰かが、泣いていた。
誰もが、泣いていた。
私だけが、泣けなかった。
「渚沙」
亜美が隣で、私の顔を覗き込んでいた。亜美の目は、真っ赤だった。
「……夏祭り、今年こそ四人で行こうって、言ってたのに」
亜美はそれだけ言って、唇を噛んだ。
「……ちょっと、座ろ。ね」
私は首を横に振った。
抱えていた黒い鞄を亜美の胸に押しつけた。
「……これ、持ってて」
「え」
「すぐ、戻るから」
亜美は鞄を抱えたまま、何か言いかけた。
それから玄関の脇の傘立てから、ビニール傘を一本抜いて、私の手に押し込んだ。
「……じゃあ、これ。濡れるから」
私は傘を受け取った。
受け取って、斎場の玄関を出た。
雨が、アスファルトを叩いていた。
傘を、開いたかどうかは、覚えていない。
どこへ行くのかは、途中から、わかっていた。
駅へ向かう道を一つ手前で曲がった。
坂を、上った。
私はあの神社へ歩いた。
*
チョークの粉の匂いがした。
それから、椅子を引く音。誰かの笑い声。窓の外で、鳥が鳴いている。
雨の音は、しなかった。
「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」
聞き覚えのある声だった。
聞き覚えのある、はずのない声だった。
私は、目を開けた。
黒板に、白いチョークで座席表が描かれていた。
教卓の上にお菓子の空き箱が置かれていた。
窓の外で、桜が、半分くらい散っていた。
膝が、濡れていなかった。
私は、自分の手を見た。
喪服の黒い袖ではなかった。
紺色の、ブレザーの袖だった。
私は隅の椅子に座っていた。
黒いワンピースの膝の上に、黒い鞄を載せて。
隣には亜美がいた。亜美はずっと、私の手の甲に自分の手を重ねていた。何も言わずに。ときどき、指先で私の手の甲を撫でた。
お焼香は、もう済ませていた。
祭壇の上にあの写真があった。
白い菊に囲まれて、黒い額の中で、裕太が笑っていた。
私は、その前で、手を合わせた。
合わせたまま、何も思わなかった。
何も、思えなかった。
八時を過ぎて、人が少しずつ帰り始めたころ、萩原くんが控え室の入り口に立った。
黒いスーツが、ひどく似合っていなかった。大学の入学式のときに買ったものだと、あとで聞いた。袖が、少し短かった。
萩原くんは私を見て、少し迷うような顔をした。それから、こちらへ来て向かいの椅子に座った。
「……ちょっと、いい?」
亜美が私の手を離して、「飲み物もらってくる」と言って立ち上がった。
萩原くんは膝の上で、自分の手を見ていた。
「俺さ、ずっと考えてたんだけど」
「……うん」
「あいつ、連休明けてすぐくらいに、変なこと言ってたんだよ」
学食で、と萩原くんは言った。
五月の、二週目くらい。裕太が、あの先輩たちとつるみ出したころ。珍しく、あいつが一人で昼を食べてて。俺が向かいに座ったら、しばらく何も言わないで、カレーをつついてて。
それから、急に言ったんだ。
「なあ朔。もし同じ日を何回もやり直せるとしたらさ、お前どうする」
「……俺、ゲームの話だと思って」
萩原くんは苦笑いのような、泣き笑いのような顔をした。
「セーブポイントどこにするか、みたいな話してさ。テストの前の日に戻ってカンニングする、とか、宝くじの番号覚えとく、とか。くだらないこと言って」
「……」
「あいつ、笑ってたんだよ。『お前らしいな』って」
萩原くんの声が、揺れた。
「でも、目が、笑ってなかった気がする。……そう見えるの、あとからだからかもしんないけど」
控え室の空気が、一瞬、止まったような気がした。
「……それで」
「それで終わり。あいつ、カレー半分残して、先に行った」
萩原くんは顔を両手でこすった。
「あのとき、なんか、もっとちゃんと聞けばよかった。あいつ、何か言いたかったんじゃないかって。……今になって、ずっと、そればっか考えてる」
私は黙っていた。
同じ日を、何回も。
意味が、わからなかった。
ゲームの話。もしもの話。男の子同士の、くだらない雑談。
それだけのはずだった。
それなのに、胸の底で、何かが、ことりと動いた。
あの人は、萩原くんには、そんな話をしていた。
学食で。向かいに座った親友に。冗談めかして。
私には、「なんでもない」としか、言わなかったのに。
「……なんで」
声が出た。
萩原くんが顔を上げた。
「なんで、私には」
そこまで言って、止まった。
続きの言葉が、喉の奥で固まっていた。熱くて、重たくて、形にならなかった。
萩原くんは膝の上で、指を組み直した。
控え室の奥で、誰かが湯呑みを置く音がした。それから、萩原くんが「ごめん」と言った。
萩原くんが謝ることではなかった。わかっていた。
わかっていたのに、「いいよ」と言えなかった。
亜美が紙コップのお茶を二つ持って戻ってきた。
私の顔を見て、萩原くんの顔を見て、何も訊かずに、私の手にお茶を持たせた。
お茶は、ぬるかった。
私はそれを飲まずに、両手で包んでいた。
胸の底の、重たいもの。
病院の朝から、ずっとそこにあったもの。
それが、さっきより少しだけ、重くなっていた。
金曜日は朝から雨だった。
葬儀のことはあまり覚えていない。
読経の声。焼香の列。おばさんの、冷たい指先。壁際に立ったまま、一度も顔を上げなかった萩原くん。祭壇の上の、最後の一枚。
出棺の前に花を入れた。
白い菊を一輪、裕太の胸のあたりに置いた。
顔を見た。
眠っているように見えた。
口が半分開いて、眉間のしわがほどけて。二次試験の帰りの電車で、私の肩に頭を載せていたときと、同じ顔。
起きて、と思った。
数学の最後の問題、たぶん合ってる、って、寝ぼけた声で言って。
起きなかった。
蓋が、閉められた。
俺がいなくなったらどうする、と訊かれたことがあった。
答えは、まだ来ていなかった。
訊いた人は、もういなかった。
霊柩車が、雨の中を出ていった。
クラクションが、長く一度だけ鳴った。
斎場の玄関の前で、みんなが頭を下げていた。私も、下げた。顔を上げると、車はもう角を曲がって、見えなくなっていた。
人の輪が、少しずつほどけていった。
誰かが、泣いていた。
誰もが、泣いていた。
私だけが、泣けなかった。
「渚沙」
亜美が隣で、私の顔を覗き込んでいた。亜美の目は、真っ赤だった。
「……夏祭り、今年こそ四人で行こうって、言ってたのに」
亜美はそれだけ言って、唇を噛んだ。
「……ちょっと、座ろ。ね」
私は首を横に振った。
抱えていた黒い鞄を亜美の胸に押しつけた。
「……これ、持ってて」
「え」
「すぐ、戻るから」
亜美は鞄を抱えたまま、何か言いかけた。
それから玄関の脇の傘立てから、ビニール傘を一本抜いて、私の手に押し込んだ。
「……じゃあ、これ。濡れるから」
私は傘を受け取った。
受け取って、斎場の玄関を出た。
雨が、アスファルトを叩いていた。
傘を、開いたかどうかは、覚えていない。
どこへ行くのかは、途中から、わかっていた。
駅へ向かう道を一つ手前で曲がった。
坂を、上った。
私はあの神社へ歩いた。
*
チョークの粉の匂いがした。
それから、椅子を引く音。誰かの笑い声。窓の外で、鳥が鳴いている。
雨の音は、しなかった。
「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」
聞き覚えのある声だった。
聞き覚えのある、はずのない声だった。
私は、目を開けた。
黒板に、白いチョークで座席表が描かれていた。
教卓の上にお菓子の空き箱が置かれていた。
窓の外で、桜が、半分くらい散っていた。
膝が、濡れていなかった。
私は、自分の手を見た。
喪服の黒い袖ではなかった。
紺色の、ブレザーの袖だった。
