——出会いは、三年二組の席替えだった。
正確に言えば、今里裕太という名前だけなら、その前から知っていた。二年のときは隣のクラスだったし、体育祭のリレーでアンカーを走っていたのも見ている。廊下ですれ違えば、あ、今里くんだ、と思う程度には。
ただ、ちゃんと顔を見たのは、あの日が初めてだった。
四月。始業式から一週間が過ぎた、月曜日。クラスの空気がようやく少しだけ柔らかくなってきたころだった。
「はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」
担任の宮下先生が、お菓子の空き箱を教卓に置いた。中には四つ折りにした紙が入っている。出席番号順に前へ出て、一枚ずつ引いていく。
私の番は、後ろのほうだった。
引いた紙を開くと、「二十九」と書いてあった。黒板に描かれた座席表と見比べる。窓際の列の、後ろから二番目。
チョークを取って、二十九の枠に「山吹」と書いた。指先に、白い粉が少し残った。
悪くない、と思った。窓の外が見えるし、後ろすぎないから先生の声もちゃんと聞こえる。
「渚沙、何番?」
くじを握ったまま、亜美が私の席までやってくる。
「……二十九」
「えー、どこそれ。……うわ、真逆じゃん。あたし廊下側の一番前」
亜美は紙をひらひらさせながら、大げさに天井を仰いだ。一番前、しかも出入口のすぐ横。三年になってまで、と本気で落ち込んでいる。
「休み時間、行くから」
「うん」
「絶対行くから。寂しがってよ」
「……寂しい」
「遅いって」
亜美が笑う。私も少し笑った。
昔から、こうだった。思ったことが言葉になるまでに、ほんの少し時間がかかる。頭の中にはちゃんとあるのに、それを口の外に出す前に、これで合っているかな、と一度確かめてしまう。確かめているうちに、会話はもう次へ進んでいる。
亜美はそれを笑ってくれる数少ない一人で、だから私は、亜美の隣が好きだった。
机を運ぶ音が、教室中に響く。椅子を机の上にひっくり返して載せ、机の脚で床を擦りながら移動する。窓際の席に着いて、椅子を下ろした。
窓の外では、校庭の桜が半分くらい散っていた。花びらが、風に乗って二階の高さまで上がってくる。
隣の机が、がたん、と音を立てて止まった。
「よっ、と」
顔を上げると、今里くんがいた。
机の端を両手で押さえて、位置を微妙に調整している。私の机と揃えようとしているらしく、一度前に出しすぎて、また少し引いた。
背が高い。近くで見ると、思っていたよりずっと。制服のシャツの袖を肘のところまで捲っていて、腕に薄く日焼けの跡が残っていた。
目が合った。
「よろしく。山吹さん、だよね」
名前を呼ばれて、少し驚いた。
同じクラスになってまだ一週間で、話したことは一度もない。私は目立つほうではないし、自己紹介でも名前と部活を言っただけだった。
どうして知っているんだろう。
訊こうとして、言葉を選んでいるうちに、
「……うん」
とだけ、口から出た。
今里くんが、ふっと笑った。
「今の間、なに」
「え」
「なんか、すげー考えてから『うん』って言わなかった?」
「……考えてた」
「何を?」
「なんで、名前知ってるのかなって」
「ああ」
今里くんは椅子を引いて座り、机に頬杖をついた。
「座席表見たから。今」
「……あ」
「うん」
黒板の座席表には、くじを引いた全員が自分の名前を書き込んでいる。私も、ついさっき書いたばかりだった。
当たり前すぎて、恥ずかしくなった。
顔が熱くなって、私は窓のほうを向いた。桜の花びらが一枚、窓ガラスに張りついている。
隣で、今里くんが小さく笑う気配がした。馬鹿にするような笑い方ではなかった。
席替えの翌日から、今里くんはよく話しかけてきた。
よく、といっても、毎時間ではない。授業の合間に一言か二言。消しゴム貸して、とか、今日って小テストあったっけ、とか、そういう何でもないこと。
私はそのたびに少し遅れて返事をした。
今里くんは、そのたびに待っていた。
それに気づいたのは、席替えから三日目の、水曜日の昼休みだった。
「山吹さんってさ、昼いつもどこで食べてんの」
「……亜美のとこ。廊下側の」
「ああ、小野寺さん。仲いいよね」
「うん。中学から、一緒」
「へえ」
そこで会話が途切れた。
今里くんはパンの袋を開けながら、前を向いている。私は弁当の包みを持ったまま、立ち上がりかけて、止まった。
何か言ったほうがいい気がした。今里くんはどこで食べるの、とか。萩原くんと仲いいよね、とか。
言葉を探している間、隣でパンの袋がかさりと鳴った。
パンを齧って、ゆっくり噛んで、窓の外を見ている。次の一口は、なかなか齧らなかった。まるで、私の順番がまだ終わっていないことを、知っているみたいに。
「……今里くんは」
「ん」
「いつも、萩原くんと食べてるよね」
「朔? うん。あいつ購買行ってるから、今日はここ」
今里くんはそう言って、ようやくこちらを向いた。
「行ってきなよ。小野寺さん待ってるよ」
廊下側を見ると、亜美がこちらに向かって大きく手を振っていた。
私は小さく頭を下げて、席を立った。
亜美の机まで歩く間、背中に視線を感じた気がした。振り返ると、今里くんはもうパンを食べながら、窓の外を見ていた。
気のせいだったのかもしれない。
「なになに、今里くんと何話してたの」
亜美が、目を輝かせて椅子を寄せてくる。
「……お昼、どこで食べるのって」
「それだけ?」
「それだけ」
「ふうん」
亜美は疑わしそうに私を見たけれど、それ以上は訊いてこなかった。
その週の金曜日、現代文の授業で、ペアワークがあった。
隣の席同士で、教科書の小説について話し合う。小説は、ある少女が大切な人に最後まで何かを言えずに終わる、という短い話だった。
「『なぜ主人公は、最後まで黙っていたのか』。自分の考えをまとめて、隣の人と共有してください」
先生の声に、教室が一斉にざわめく。
今里くんは椅子ごと体をこちらに向けて、教科書を机に広げた。
「山吹さん、どう思う?」
「……今里くんから」
「えー」
「先に、聞きたい」
「俺はさあ、普通に、怖かったんじゃないかなって。言って嫌われたらどうしようとか」
「うん」
「山吹さんは?」
私は、教科書の最後のページに目を落とした。
少女は、言おうと思えば言えたはずだ。機会は何度もあった。それでも、最後まで口を開かない。
頭の中に、考えはあった。ただ、それをどう言えばいいのかが、すぐには見つからなかった。
周りのペアは、もう話が盛り上がっている。笑い声が上がって、先生が「静かに」と言う。
今里くんは、黙っていた。
シャーペンを指先でくるくる回しながら、私が口を開くのを待っている。
「……言ったら」
「うん」
「本当に、なっちゃうから。……じゃないかな」
シャーペンの動きが、止まった。
「言わないうちは、まだ、なかったことにできるから。言葉にしたら、もう、戻れないから」
言い終えてから、顔を上げた。
今里くんが、私を見ていた。
さっきまでの、軽く笑っているような顔ではなかった。何かを確かめるみたいな、少しだけ真剣な目だった。
一秒か、二秒。
たぶん、それくらいの長さだった。
「……そっか」
今里くんは、そう言って目を伏せた。それから、ノートに何か書きつけた。
覗き込むつもりはなかったのに、見えてしまった。
——言ったら本当になる。
私の言葉だった。
「それ、私の」
「うん。いいなと思って」
「……自分の、書かないの」
「俺のは普通すぎるから」
今里くんは笑った。いつもの顔に戻っていた。
放課後。
帰り支度をしていると、今里くんが鞄を肩に掛けながら言った。
「山吹さんってさ、しゃべるの遅いよね」
手が止まった。
言われ慣れている言葉だった。小学校でも、中学でも、何度も言われてきた。「ねえ、聞いてる?」とか、「もういいよ」とか。そういう言葉と一緒に。
だから、平気なはずだった。
「……ごめん」
「あ、違う違う」
今里くんが、慌てたように手を振った。
「悪い意味じゃなくて。……なんていうか」
今度は、今里くんのほうが言葉を探していた。
首の後ろに手をやって、眉を下げて。目を少しだけ逸らして。窓から入ってくる西日が、その横顔を半分だけ照らしていた。
「待ってると、ちゃんと来るじゃん。考えたやつが」
「……」
「それが、いいなって。思っただけ」
じゃあね、と言って、今里くんは教室を出ていった。
廊下の向こうで、萩原くんが「裕太、おせーよ」と呼ぶ声がした。
私は、鞄を持ったまま、その場に立っていた。二人分の足音が階段のほうへ遠ざかって、あとには、開いた窓から運動部の掛け声だけが入ってきた。
何か言えばよかった。ありがとう、とか。そんなこと初めて言われた、とか。
その言葉が見つかったのは、家に着いて、玄関で靴を脱いだときだった。
遅すぎて、ひとりで少し笑ってしまった。
明日、言えるだろうか。
たぶん、また遅れる。
でも、今里くんは、きっと待っている。
なぜだかそう思えたことが、その日いちばん、不思議だった。
正確に言えば、今里裕太という名前だけなら、その前から知っていた。二年のときは隣のクラスだったし、体育祭のリレーでアンカーを走っていたのも見ている。廊下ですれ違えば、あ、今里くんだ、と思う程度には。
ただ、ちゃんと顔を見たのは、あの日が初めてだった。
四月。始業式から一週間が過ぎた、月曜日。クラスの空気がようやく少しだけ柔らかくなってきたころだった。
「はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」
担任の宮下先生が、お菓子の空き箱を教卓に置いた。中には四つ折りにした紙が入っている。出席番号順に前へ出て、一枚ずつ引いていく。
私の番は、後ろのほうだった。
引いた紙を開くと、「二十九」と書いてあった。黒板に描かれた座席表と見比べる。窓際の列の、後ろから二番目。
チョークを取って、二十九の枠に「山吹」と書いた。指先に、白い粉が少し残った。
悪くない、と思った。窓の外が見えるし、後ろすぎないから先生の声もちゃんと聞こえる。
「渚沙、何番?」
くじを握ったまま、亜美が私の席までやってくる。
「……二十九」
「えー、どこそれ。……うわ、真逆じゃん。あたし廊下側の一番前」
亜美は紙をひらひらさせながら、大げさに天井を仰いだ。一番前、しかも出入口のすぐ横。三年になってまで、と本気で落ち込んでいる。
「休み時間、行くから」
「うん」
「絶対行くから。寂しがってよ」
「……寂しい」
「遅いって」
亜美が笑う。私も少し笑った。
昔から、こうだった。思ったことが言葉になるまでに、ほんの少し時間がかかる。頭の中にはちゃんとあるのに、それを口の外に出す前に、これで合っているかな、と一度確かめてしまう。確かめているうちに、会話はもう次へ進んでいる。
亜美はそれを笑ってくれる数少ない一人で、だから私は、亜美の隣が好きだった。
机を運ぶ音が、教室中に響く。椅子を机の上にひっくり返して載せ、机の脚で床を擦りながら移動する。窓際の席に着いて、椅子を下ろした。
窓の外では、校庭の桜が半分くらい散っていた。花びらが、風に乗って二階の高さまで上がってくる。
隣の机が、がたん、と音を立てて止まった。
「よっ、と」
顔を上げると、今里くんがいた。
机の端を両手で押さえて、位置を微妙に調整している。私の机と揃えようとしているらしく、一度前に出しすぎて、また少し引いた。
背が高い。近くで見ると、思っていたよりずっと。制服のシャツの袖を肘のところまで捲っていて、腕に薄く日焼けの跡が残っていた。
目が合った。
「よろしく。山吹さん、だよね」
名前を呼ばれて、少し驚いた。
同じクラスになってまだ一週間で、話したことは一度もない。私は目立つほうではないし、自己紹介でも名前と部活を言っただけだった。
どうして知っているんだろう。
訊こうとして、言葉を選んでいるうちに、
「……うん」
とだけ、口から出た。
今里くんが、ふっと笑った。
「今の間、なに」
「え」
「なんか、すげー考えてから『うん』って言わなかった?」
「……考えてた」
「何を?」
「なんで、名前知ってるのかなって」
「ああ」
今里くんは椅子を引いて座り、机に頬杖をついた。
「座席表見たから。今」
「……あ」
「うん」
黒板の座席表には、くじを引いた全員が自分の名前を書き込んでいる。私も、ついさっき書いたばかりだった。
当たり前すぎて、恥ずかしくなった。
顔が熱くなって、私は窓のほうを向いた。桜の花びらが一枚、窓ガラスに張りついている。
隣で、今里くんが小さく笑う気配がした。馬鹿にするような笑い方ではなかった。
席替えの翌日から、今里くんはよく話しかけてきた。
よく、といっても、毎時間ではない。授業の合間に一言か二言。消しゴム貸して、とか、今日って小テストあったっけ、とか、そういう何でもないこと。
私はそのたびに少し遅れて返事をした。
今里くんは、そのたびに待っていた。
それに気づいたのは、席替えから三日目の、水曜日の昼休みだった。
「山吹さんってさ、昼いつもどこで食べてんの」
「……亜美のとこ。廊下側の」
「ああ、小野寺さん。仲いいよね」
「うん。中学から、一緒」
「へえ」
そこで会話が途切れた。
今里くんはパンの袋を開けながら、前を向いている。私は弁当の包みを持ったまま、立ち上がりかけて、止まった。
何か言ったほうがいい気がした。今里くんはどこで食べるの、とか。萩原くんと仲いいよね、とか。
言葉を探している間、隣でパンの袋がかさりと鳴った。
パンを齧って、ゆっくり噛んで、窓の外を見ている。次の一口は、なかなか齧らなかった。まるで、私の順番がまだ終わっていないことを、知っているみたいに。
「……今里くんは」
「ん」
「いつも、萩原くんと食べてるよね」
「朔? うん。あいつ購買行ってるから、今日はここ」
今里くんはそう言って、ようやくこちらを向いた。
「行ってきなよ。小野寺さん待ってるよ」
廊下側を見ると、亜美がこちらに向かって大きく手を振っていた。
私は小さく頭を下げて、席を立った。
亜美の机まで歩く間、背中に視線を感じた気がした。振り返ると、今里くんはもうパンを食べながら、窓の外を見ていた。
気のせいだったのかもしれない。
「なになに、今里くんと何話してたの」
亜美が、目を輝かせて椅子を寄せてくる。
「……お昼、どこで食べるのって」
「それだけ?」
「それだけ」
「ふうん」
亜美は疑わしそうに私を見たけれど、それ以上は訊いてこなかった。
その週の金曜日、現代文の授業で、ペアワークがあった。
隣の席同士で、教科書の小説について話し合う。小説は、ある少女が大切な人に最後まで何かを言えずに終わる、という短い話だった。
「『なぜ主人公は、最後まで黙っていたのか』。自分の考えをまとめて、隣の人と共有してください」
先生の声に、教室が一斉にざわめく。
今里くんは椅子ごと体をこちらに向けて、教科書を机に広げた。
「山吹さん、どう思う?」
「……今里くんから」
「えー」
「先に、聞きたい」
「俺はさあ、普通に、怖かったんじゃないかなって。言って嫌われたらどうしようとか」
「うん」
「山吹さんは?」
私は、教科書の最後のページに目を落とした。
少女は、言おうと思えば言えたはずだ。機会は何度もあった。それでも、最後まで口を開かない。
頭の中に、考えはあった。ただ、それをどう言えばいいのかが、すぐには見つからなかった。
周りのペアは、もう話が盛り上がっている。笑い声が上がって、先生が「静かに」と言う。
今里くんは、黙っていた。
シャーペンを指先でくるくる回しながら、私が口を開くのを待っている。
「……言ったら」
「うん」
「本当に、なっちゃうから。……じゃないかな」
シャーペンの動きが、止まった。
「言わないうちは、まだ、なかったことにできるから。言葉にしたら、もう、戻れないから」
言い終えてから、顔を上げた。
今里くんが、私を見ていた。
さっきまでの、軽く笑っているような顔ではなかった。何かを確かめるみたいな、少しだけ真剣な目だった。
一秒か、二秒。
たぶん、それくらいの長さだった。
「……そっか」
今里くんは、そう言って目を伏せた。それから、ノートに何か書きつけた。
覗き込むつもりはなかったのに、見えてしまった。
——言ったら本当になる。
私の言葉だった。
「それ、私の」
「うん。いいなと思って」
「……自分の、書かないの」
「俺のは普通すぎるから」
今里くんは笑った。いつもの顔に戻っていた。
放課後。
帰り支度をしていると、今里くんが鞄を肩に掛けながら言った。
「山吹さんってさ、しゃべるの遅いよね」
手が止まった。
言われ慣れている言葉だった。小学校でも、中学でも、何度も言われてきた。「ねえ、聞いてる?」とか、「もういいよ」とか。そういう言葉と一緒に。
だから、平気なはずだった。
「……ごめん」
「あ、違う違う」
今里くんが、慌てたように手を振った。
「悪い意味じゃなくて。……なんていうか」
今度は、今里くんのほうが言葉を探していた。
首の後ろに手をやって、眉を下げて。目を少しだけ逸らして。窓から入ってくる西日が、その横顔を半分だけ照らしていた。
「待ってると、ちゃんと来るじゃん。考えたやつが」
「……」
「それが、いいなって。思っただけ」
じゃあね、と言って、今里くんは教室を出ていった。
廊下の向こうで、萩原くんが「裕太、おせーよ」と呼ぶ声がした。
私は、鞄を持ったまま、その場に立っていた。二人分の足音が階段のほうへ遠ざかって、あとには、開いた窓から運動部の掛け声だけが入ってきた。
何か言えばよかった。ありがとう、とか。そんなこと初めて言われた、とか。
その言葉が見つかったのは、家に着いて、玄関で靴を脱いだときだった。
遅すぎて、ひとりで少し笑ってしまった。
明日、言えるだろうか。
たぶん、また遅れる。
でも、今里くんは、きっと待っている。
なぜだかそう思えたことが、その日いちばん、不思議だった。
