五月の水仙は枯れない

 その夜、部屋で、長いメッセージを書いた。

 何度も書き直した。消しては書いて、書いては消して。気がつくと、九時を過ぎていた。

 最後に残ったのは、短い文章だった。

『今日、待ってた。

 何があったのか、教えてほしい。

 私が何かしたなら、ちゃんと謝りたい。

 何もしてないなら、それも知りたい。

 どっちでもいいから、裕太の言葉で聞きたい。

 明日でも、来週でもいい。

 待ってるから』

 読み返した。

 責めていないだろうか。重すぎないだろうか。

 わからなかった。わからないまま、送った。

 十時を過ぎた。

 既読は、つかなかった。

 居酒屋のバイトの日なのかもしれない、と思った。土曜日の夜は、たぶん忙しい。閉店は十一時だと、この前、店の前の看板で見た。

 階段を下りて、台所で水を一杯飲んだ。

 居間では、母がテレビをつけたまま、ソファでうたた寝をしていた。画面の中で、知らない芸人たちが笑っていた。音は、ほとんど絞られていた。

 母の肩に膝掛けをかけ直して、部屋に戻った。

 スマホはベッドの上に伏せたままだった。

 表に返した。何も来ていなかった。

 また伏せた。

 窓を少しだけ開けた。

 耳を澄ませた。駅のほうから、エンジンの低い音が近づいてこないか。先週の金曜日の夜、家の前の道を走り抜けていった、あの音が。

 聞こえるのは、国道のほうを行き交う車の、遠い音だけだった。

 机の上に、書きかけのレポートがあった。同じ行を、三回読んだ。四回目で、閉じた。

 十一時を過ぎた。

 十二時を過ぎた。

 

 十二時十四分。

 画面が、ふっと明るくなった。

 既読、の二文字がついていた。

 私はベッドの上で体を起こした。

 返事が来る、と思った。

 既読がついたのなら、あの人は今、この文章を読んでいる。読んで、何かを考えている。何かを、打とうとしている。

 画面を見ていた。

 入力中を示す表示は、出なかった。

 五分。十分。十五分。

 二十分を過ぎたころ、遠くで、救急車のサイレンが鳴り始めた。

 この町では、夜中にサイレンを聞くことは珍しくなかった。国道が近いから、週末の夜はとくに。

 私は画面から目を離さなかった。

 サイレンは、近づいたり、遠ざかったりしながら、しばらく鳴っていた。

 三十分。

 何も、来なかった。

 

 一時を過ぎて画面を伏せた。

 目を閉じても、眠れなかった。

 布団を頭までかぶった。

 既読。

 読んだのに。

 読んで、何も返さないことを選んだのだ。

 そう思った。

 そう思って、ようやく、少しだけ泣きそうになった。

 目の奥が熱いまま、朝まで眠れなかった。

 

 日曜日の朝、七時四十分に、スマホが鳴った。

 メッセージではなかった。

 着信だった。

 画面に表示された名前を見て、息が止まった。

 裕太のお母さん。

 夏休みに夕飯をごちそうになったあと、何かあったら、と言って交換した番号だった。一度も、かかってきたことはなかった。

 指が、震えた。

 通話のボタンを押すのに、三回失敗した。

「……もしもし」

『渚沙ちゃん?』

 おばさんの声だった。

 夏休みの食卓で、唐揚げを山のように揚げていた人の声。「この子、渚沙ちゃんの話しかしないのよ」と笑っていた人の声。

 その声が、ひどくかすれていた。

『朝早くに、ごめんね。……あのね、落ち着いて聞いてね』

 

 昨日の夜、十二時半ごろ。

 国道の交差点で、裕太くんのバイクが、ガードレールにぶつかった。

 雨も降っていないのに、カーブを曲がりきれなかったらしい。

 他の車は、巻き込まれていない。

 今、市民病院の集中治療室にいる。

 意識は、まだ、戻っていない。

 

 おばさんの声が、遠くなったり、近くなったりした。

 私は、ベッドの端に座って、スマホを耳に当てたまま、自分の膝を見ていた。

 十二時半。

 十二時十四分に、既読がついた。

 その十六分後。

『渚沙ちゃん? 聞こえてる?』

「……はい」

『来られる? ……あの子、渚沙ちゃんに、会いたいと思うの』

 おばさんは、そこで言葉を詰まらせた。

『ごめんね。……最近、あの子、様子がおかしかったでしょう。渚沙ちゃんにも、いっぱい、嫌な思いさせたんじゃないかって。でも、あの子……』

 続きは、聞こえなかった。

 電話の向こうで、おばさんが泣いていた。

 私は、立ち上がった。

「すぐ、行きます」

 

 部屋着のまま玄関に出た。

 靴を履こうとして、うまく履けなかった。かかとが入らない。指が、言うことを聞かない。

 後ろから母が出てきた。

 私の顔を見て、何も訊かずに、私の靴の紐をほどいて、かかとを入れやすくしてくれた。

「……車、出すから」

 母はそれだけ言って、鍵を取りに戻った。

 私は、玄関の上がり框(かまち)に座ったまま、スマホの画面を見ていた。

 トーク画面の一番下に、私の長いメッセージがある。

 その横に、小さく、既読の二文字。

 十二時十四分。

 あの人は、あれを読んだのだ。

 読んで、バイクに乗ったのだ。

 どこへ、行こうとしていたんだろう。

 

 昨日の夕方、ロータリーの向こうで、ヘルメットが、こちらを向きかけて、止まった。

 あの人が最後に見た私は、横断歩道の手前で、あの人の名前を呼んでいた。

 二年かかって、やっと呼べた名前を。

 振り向かなかった背中を、思い出した。

 あれが、最後になるかもしれない。

 そう思った瞬間、玄関の床が、ぐらりと揺れた気がした。

 母が車の鍵を持って戻ってきた。

 私の肩に、手を置いた。

「行こう」

 私は、頷いた。

 立ち上がって玄関の扉を開けた。

 五月の朝の光が、眩しかった。

 

 車の中で母は一度も口をきかなかった。

 国道に出た。日曜日の朝の道は空いていて、信号がいくつも青のまま続いた。

 途中、大きな交差点を通り過ぎた。

 カーブの外側のガードレールが、一箇所だけ、ひしゃげていた。

 その根元に、黒い破片が散らばっていた。道路の端に、白いチョークで何かの印が書かれていた。

 母がほんのわずかに、アクセルを緩めた。

 私は、窓の外を見なかった。

 見ないようにして、膝の上で、両手を固く握っていた。

 病院の玄関の前で、亜美が待っていた。家を出る前に、母が電話をしてくれていたらしかった。

 亜美は、車から降りた私の手を、何も言わずに握った。

 握ったまま、集中治療室の前に着くまで、離さなかった。