五月の水仙は枯れない

 熱が下がった次の日、木曜日の夜に、メッセージを送った。

『土曜日、会えない? ちょっとでいいから、話したい』

 打つのに、一時間かかった。

 消して、打って、また消して。「話したい」の前に「ちゃんと」を入れるかどうかで、二十分迷った。入れなかった。入れたら、責めているように読まれる気がした。

 送信してスマホを伏せた。

 既読がついたのは、十一時を過ぎたころだった。

 返事は、来なかった。

 十二時を過ぎた。

 一時を過ぎた。

 あきらめて目を閉じかけたとき、スマホが短く震えた。

『土曜 三時 駅前のカフェ』

 それだけだった。

 私は布団の中で、画面を胸に押し当てた。

 二週間ぶりに、約束をした。

 

 金曜日の夜、亜美から電話がかかってきた。

「明日、何時?」

「……三時」

「あたし、近くのファミレスにいるから。終わったら、呼んで。どっちに転んでも」

 どっちに転んでも。

 亜美はそういう言い方をした。

「……亜美」

「ん」

「来てくれなくても、大丈夫だよ」

「行くよ。あたしが行きたいの」

 電話の向こうで亜美が少し黙った。

「ねえ、渚沙。一個だけ訊いていい?」

「……うん」

「今里のこと、今でも好き?」

 答えを、探さなかった。

「好き」

 電話の向こうで、亜美が、長く息を吐いた。

「……だよね。知ってた」

 それから、いつもの声に戻って、「明日、髪ちゃんとしていきなよ」と言った。

 

 土曜日は、朝から晴れていた。

 昼前から鏡の前に立っていた。

 亜美に言われたとおり、髪をいつもより丁寧に梳かした。後ろで一つに結んで、ほどいて、また結んだ。

 服は、二回着替えた。一枚目は、去年の夏、今里くんの家に夕飯をごちそうになりに行った日のブラウスだった。袖を通してから、脱いだ。思い出してほしい、と顔に書いてあるような気がした。

 二枚目は、何でもない、薄い灰色のカーディガンにした。

 鏡の中の自分に向かって言う練習をした。

 何があったの。

 声に出すと、思っていたより小さな声になった。

 もう一度、言った。今度は、語尾が震えた。

 三度目は、口を開けただけで、やめた。

 家を出たのは、二時半だった。角を三つ、いつもと逆の順番に曲がった。

 二時四十分に、駅前のカフェに着いた。窓際の、二人掛けの席。高三の冬に、図書館の帰りに何度か寄った店だった。今里くんはいつもココアを頼んで、私はいつも紅茶を頼んだ。

 紅茶を一つ頼んで入り口の見える側に座った。

 三時になった。

 入り口の扉は、開かなかった。

 三時十分。三時二十分。

 スマホを見た。何も来ていなかった。

『着いたよ』

 送った。既読は、つかなかった。

 紅茶が、冷めていった。

 

 四時を過ぎたころ、店員さんがお冷やを注ぎ足しに来てくれた。

「お待ち合わせですか」

「……はい」

「ごゆっくりどうぞ」

 店員さんは気の毒そうに笑って、離れていった。

 窓の外を、人が通り過ぎていった。土曜日の午後の駅前は、家族連れや、部活帰りの高校生で賑わっていた。紺色の制服の子たちが、笑いながらロータリーを横切っていく。高三の私たちと、同じ制服だった。

 四時半。

 冷めた紅茶を一口だけ飲んだ。渋かった。

 約束は、流れたのだと思った。

 流れることは、わかっていたのかもしれない。

 わかっていて、来たのだ。

 それでも、席を立てなかった。

 

 五時を少し過ぎたころ、ロータリーの向こう側に、黒いバイクが停まっているのに気づいた。

 いつからそこにあったのか、わからなかった。

 タクシー乗り場の脇、駐輪場の端。黒いヘルメットをかぶった人が、エンジンをかけたまま、シートにまたがっていた。

 こちらを、向いていた。

 カフェの窓のほうを。

 ヘルメットのシールドが、夕方の光を反射していて、顔は見えなかった。

 でも、左の手首に、黒い革のベルトが見えた。

 

 私は、立ち上がった。

 伝票を掴んで、レジに千円札を置いて、お釣りを受け取らずに店を出た。

 ロータリーを回り込む。人の流れを縫って、走った。タクシーの列の横をすり抜けて、横断歩道の手前まで来た。

 信号が、赤だった。

 向こう側で、バイクのエンジンの音が、わずかに高くなった。

 ヘルメットの人が、ハンドルを握り直した。

 行ってしまう、と思った。

 今、呼ばなければ、行ってしまう。

 今里くん、と呼ぼうとした。

 口を開けた。

 出てきたのは、違う名前だった。

「——裕太!」

 

 自分の声が、ロータリーに響いた。

 通りかかった人が、何人か振り返った。

 高三の五月から、二年。

 渚沙、と呼ばれるようになって、二年。

 私は、一度も、この人の名前を呼んだことがなかった。

 呼ぼうと思ったことは、何度もあった。夏祭りの夜も、門の前の夜も、合格発表の日も。そのたびに、言葉が喉の手前で止まって、いつもの「今里くん」が先に出てきた。

 呼んだら、何かが変わってしまう気がしていた。

 その名前が、今、初めて、口から出た。

 

 バイクの上の人が、動きを止めた。

 ハンドルを握ったまま、ほんの一瞬だけ、固まった。

 ヘルメットが、わずかに、こちらを向きかけた。

 向きかけて。

 止まった。

 それから、前を向いた。

 エンジンの音が、高くなった。

 バイクは、ロータリーを出て、駅前の通りを走っていった。一度も、振り返らなかった。

 赤いテールランプが、夕方の車の流れに紛れて、見えなくなった。

 信号が、青に変わった。

 私は、横断歩道の手前に立ったまま、渡らなかった。

 渡る理由が、もう、なかった。

 

 家まで角を三つ曲がった。

 一つ目の角の手前で、スマホが震えた。

 亜美からだった。

『見てた』

『今日は、一人にするね』

『明日、電話する』

 ファミレスの窓から、ロータリーは見える。亜美は、全部見ていたのだ。私が店を飛び出したのも、横断歩道の手前で立ち止まったのも、バイクが走り去ったのも。

 私は『ありがとう』とだけ返した。

 一つ目の角で、振り返った。二つ目の角でも。

 誰も、いなかった。

 三つ目の角を曲がった。家の玄関の明かりは、まだついていなかった。夕方の六時前で、空はまだ明るかった。

 玄関の前で立ち止まった。

 裕太。

 口の中で、もう一度だけ、その名前を転がした。

 二年かかって、やっと呼べた名前だった。

 呼んだのに、あの人は振り向かなかった。