五月の水仙は枯れない

 火曜日の朝、目が覚めたとき、喉の奥がかすかに痛かった。

 唾を飲み込むと、ちくりとする。熱はない。鼻も詰まっていない。ただ、喉の一番奥のところだけが、小さく腫れているような感じがした。

 日曜日の夜、花屋の前に一時間以上立っていたせいかもしれない。五月とはいえ、夜はまだ冷える。

 母に言うほどのことでもなかった。

 マスクもしないで家を出た。

 

 二限は文学部の大教室の講義だった。

 後ろから三列目の、端の席に座った。先生が、古い詩を一篇、ゆっくり読み上げた。黒板に書かれた題名を、ノートに写した。

 唾を飲み込むたびに、喉がちくりとした。

 気がつくとノートには題名だけが残っていて、その下は白いままだった。

 二限の講義が終わったあと図書館に向かって歩いていた。

 キャンパスの真ん中を貫く、銀杏並木の道。五月の銀杏は、秋とはまるで違っていた。若い緑の葉が、枝の先まで柔らかく茂っていて、木漏れ日が石畳の上で揺れていた。

 並木道の半ばで、足が止まった。

 向こうから今里くんが歩いてきた。

 あの先輩たちと一緒だった。男の人が二人と、女の人が一人。今里くんはその真ん中で、何か言われて、笑っていた。

 今里くんが、私に気づいた。

 笑うのを、やめた。

 学食のときと変わらない、一秒。

 私は、逸らされる前に、自分から目を逸らした。

 並木道の端に寄ってすれ違おうとした。

 すれ違う、ほんの一歩手前だった。

「——山吹」

 呼ばれた。

 顔を上げると、今里くんが、先輩たちから一歩遅れて、私の前で立ち止まっていた。

 山吹、と呼ばれたのは、初めてだった。

 高三の五月から、ずっと、渚沙だった。

 

 今里くんはジャケットのポケットに手を入れて、何かを取り出した。

 小さな、のど飴の袋だった。

 コンビニで売っている、はちみつ味の、小さな袋。封はもう切ってあって、口が一度、折り返してあった。

 それを、私の手に押しつけた。

「喉、痛いんだろ」

「……え」

「さっきから、飲み込むたびに顔しかめてる。……日曜、あんな時間まで外に突っ立ってたろ」

 今里くんは、私の顔ではなく、袋を握った私の指を見ていた。

「明日、熱出るから。講義、休めよ」

 それだけ言って、今里くんは、先輩たちのほうへ歩いていった。

 先輩の一人が「なに、知り合い?」と訊くのが聞こえた。今里くんは「高校の同級生」と答えた。

 高校の同級生。

 その言葉が、並木道の木漏れ日の中で、しばらく宙に浮いていた。

 

 私はのど飴の袋を握ったまま、立ち尽くしていた。

 喉が痛いことを、誰にも言っていなかった。

 母にも。亜美にも。

 飲み込むたびに、顔をしかめていたらしい。自分では、気づいていなかった。

 並木道の、ほんの数歩のあいだだった。そのあいだに、この人は、それを見ていた。

 日曜日の夜、あんな時間まで花屋の前に立っていた私のことも、ちゃんと覚えていた。

 ベンチに座って折り返された袋の口を開いた。一粒、口に入れた。はちみつの甘さが、喉の痛いところに、じんわりと染みていった。

 明日、熱が出るから。

 今里くんはそう言った。

 「出るかもしれない」でも、「出たら」でもなく。

 出るから、と。

 私の熱の出方を、何度も見てきた人の言い方だった。

 

 帰りの電車は、一人だった。

 扉の脇に立って上着のポケットの中で、のど飴の袋を握っていた。握るたびに、袋が小さく音を立てた。

 川を渡るとき、窓の外を見た。

 土手の緑が、夕方の光の中を流れていった。

 去年の秋、この窓に額をつけていた人は、今日、私を「山吹」と呼んだ。先輩たちに、「高校の同級生」と言った。

 それなのに、ポケットの中には、この袋がある。

 どちらを信じればいいのか、決められなかった。

 二粒目を口に入れた。

 地元の駅に着くまでに、三粒、なくなった。

 

 その夜、亜美に電話した。

「……は? なにそれ」

 話し終えると、電話の向こうで、テレビの音がふっと小さくなった。

「喉痛いの、誰にも言ってないんだよね」

「……うん。飲み込むとき、顔しかめてたって」

「ああ。渚沙、しんどいとき顔に出るし」

「……うん」

「でも、明日熱出るって、なんで言い切れんの」

「……わかんない」

「今里、医者でも目指してんの?」

 亜美は冗談めかして言ったけれど、声は笑っていなかった。

「……ねえ、渚沙。高校の同級生、って言ったんだよね。先輩たちに」

「……うん」

「それ、別れたって意味?」

 私は、答えられなかった。

 別れよう、とは言われていない。

 でも、付き合っている、とも、もう言えなかった。

「……わかんない」

 この二週間、何度この言葉を言っただろう、と思った。

 わかんない。わからない。

 全部、わからないまま、日だけが過ぎていった。

 

 水曜日の朝、熱が出た。

 三十八度二分。

 体温計の数字を見て、私は、しばらく動けなかった。

 母がおでこに手を当てて、「今日は休みなさい」と言った。ベッドに戻されて、冷却シートを貼られて、布団を肩まで掛けられた。

 天井を見ていた。

 熱のせいで頭がぼんやりしていた。

 明日、熱出るから。

 枕元に、のど飴の袋が置いてあった。半分くらい減っていた。

 スマホを手に取った。

 トーク画面を開いた。

『熱、出た』

 打って、送った。

 既読は、すぐについた。

 三分後に返事が来た。

『寝てろ』

 それだけだった。

 二週間ぶりに、『おはよ』以外の言葉が届いた。

 私は、その三文字を、熱に浮かされた目で、何度も読んだ。

 寝てろ。

 わかっていたみたいに、言った。

 わかっていたみたいに、心配していた。

 

 昼過ぎに少し眠った。

 夢を見た。

 坂の上の神社の、本殿の前の石段に座っていた。高三の制服を着ていた。隣に、今里くんがいた。

 今里くんは、膝の上で指を組んで、前を向いていた。

 何か訊かれた気がした。何を訊かれたのかは、わからなかった。わからないのに、答えなきゃ、と思った。

 言葉を探した。

 探しているうちに、隣の石段が、空いていた。

 今里くんが座っていたところに、楠の葉の影だけが揺れていた。

 目が覚めると額の冷却シートがぬるくなっていた。

 

 熱は夕方には下がった。

 夜、母がお粥を持ってきてくれたとき、私は、のど飴の袋を握ったまま眠っていたらしい。

「それ、どうしたの」

 母に訊かれて、私は、なんと答えればいいのかわからなかった。

「……もらった」

「誰に」

「……高校の、同級生」

 言ってから、自分でその言葉に傷ついた。

 母は何も言わずに、お粥を枕元に置いて、部屋を出ていった。

 扉が閉まる前に、小さな声が聞こえた。

「裕太くんと、何かあったの」

 私は、答えなかった。

 答えられなかった。

 母が、今里くんを名前で呼ぶのを聞いたのは、そのときが初めてだった。