五月の水仙は枯れない

 土曜日も、日曜日も、スマホは静かだった。

 私から送った『おはよう』に、既読がつく。昼過ぎに、『おはよ』がひとつだけ返ってくる。それで終わり。

 土曜日は、一日、部屋にいた。

 月曜日が締め切りのレポートを、机に広げた。近代の短編を一つ選んで、四千字。選んだ作品の同じ頁を、何度も開いた。書けたのは、題名と、最初の二行だけだった。

 窓の外で、近所の子どもが、自転車の補助輪を外す練習をしていた。父親らしい声が、「前を見て」と何度も言っていた。

 夕方になってその声も聞こえなくなった。

 土曜日の夜、スマホの写真フォルダを開いた。

 遡っていくと、三月の日付のところで、指が止まった。

 卒業式の日の写真。校門の前で、何枚も撮り直した今里くん。緊張した顔。歯を見せすぎた顔。目をつぶった顔。変な方向を向いた顔。

 そして、最後の一枚。

 照れくさそうに笑っている。

 俺、こんな顔してんだ、と今里くんは言った。

 渚沙といるとき、と。

 私はその一枚を見ていた。画面が暗くなるたびに、親指で触れて、また明るくした。

 大学に入ってから撮った写真も、たくさんあった。学食のカレー。夏休みの今里家の食卓。誕生日の腕時計。どれにも今里くんが写っていて、どれでも、今里くんは、この顔をしていた。

 学食の真ん中で、知らない人たちと笑っていた顔は、どこにもなかった。

 消さないでよ、と言われた。

 消すわけがなかった。

 画面を閉じて、スマホを胸の上に置いた。天井の染みを数えているうちに、眠っていた。

 

 日曜日のアルバイトは、昼からだった。

 日曜日の午後の本屋は、一週間でいちばん混む。子ども連れが絵本の棚の前に座り込んで、レジには、雑誌を一冊だけ抱えた人が何人も並んだ。

 文庫にカバーをかけるとき、紙を折る位置を、指が勝手に覚えていた。働き始めたばかりのころは、一枚かけるのにもたついて、後ろに並んだお客さんを待たせてばかりいた。

 自動ドアが開くたびに、顔を上げた。

 入ってくるのは、知らない人ばかりだった。

 レジの横の窓から、ロータリーの向こうの、駅ビルの角が見えた。

 日が傾くにつれて、その角の向こうが、少しずつ明るくなっていった。

 

 日曜日の夕方、本屋のアルバイトを終えて、駅前に出た。

 ロータリーの向こう側、駅ビルの角を曲がったところに、居酒屋が何軒か並んでいる。高校のころは、夜にこのあたりを歩くことはほとんどなかった。大学に入ってからも、バイトの帰りに前を通り過ぎるだけの場所だった。

 地元の駅前の居酒屋。今里くんは、そう言った。

 この駅前に、居酒屋は四軒しかない。

 私は本屋の前で、立っていた。ロータリーでは、郊外の団地へ向かうバスが一台、扉を閉めて出ていった。

 行ってどうするのか、わからなかった。会って、何を言うのか。店の中に入るのか。外から覗くだけなのか。

 わからないまま、足が動いた。

 

 二軒目の店の、格子の窓の向こうに、今里くんがいた。

 黒いTシャツに、店の名前が入った紺色の前掛け。頭にタオルを巻いて、両手にジョッキを四つずつ持って、狭い通路を縫うように歩いていた。

 座敷の客に何か言われて、大きな声で笑った。

 学食で見たのと、同じ笑い方だった。

 私は、店の向かいの、閉まった花屋のシャッターの前に立って、それを見ていた。

 ジョッキを置いて、空いた皿を下げて、伝票に何か書きつけて。一度も立ち止まらない。一度も、窓の外を見ない。

 知らない人みたいだった。

 四月の教室で、パンを齧りながら窓の外を眺めていた人と、同じ人だとは思えなかった。

 

 九時を過ぎても、帰れなかった。

 帰ろうと思うたびに、窓の向こうで今里くんが笑って、その笑い方が知らない形をしていて、それを確かめたくて、もう少しだけ見ていた。

 十時少し前、店の横の細い路地から、今里くんが出てきた。

 大きなゴミ袋を二つ、両手に提げていた。

 路地の奥の集積所に袋を放り込んで、腰に手を当てて、夜空を見上げた。

 深く、息を吐いた。

 店の中で笑っていたのとは、まるで違う顔だった。

 疲れている、と思った。

 疲れて、それでも、何かを必死に保っている顔だった。

 今里くんが、こちらを向いた。

 

 目が合った。

 今里くんの顔から、表情が消えた。

 学食のときのように、すぐには逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。花屋のシャッターの前に立つ私を、しばらく、ただ見ていた。

 それから、道を渡ってきた。

「……何してんの」

 低い声だった。

「……バイトの、帰り」

「本屋、とっくに閉まってんだろ」

 私は、答えられなかった。

 今里くんはタオルを頭から外して、手の中で握った。

「帰れよ」

「……」

「遅いから。こんな時間に、こんなとこ、一人でいんなよ」

 帰れ、と言われた。

 それなのに、その声は、学食で目を逸らしたときの声とも、経済学部の棟の前で「なんでもない」と言ったときの声とも、違っていた。

 怒っているような。

 怖がっているような。

「……今里くん」

「帰れって」

 今里くんは私の言葉を遮った。

 それから、店のほうを振り返って、もう一度私を見た。

「……家まで、角三つだろ。明るい道、通って帰れよ」

 そう言って、道を渡って、路地の中へ戻っていった。

 

 私は言われたとおりに歩いた。

 明るい道を通って。

 ロータリーを回って、一つ目の角を曲がった。

 曲がる前に、振り返った。

 路地の入り口に、今里くんが立っていた。

 ゴミ袋はもう持っていなかった。店に戻ったはずの人が、路地の入り口に立って、こちらを見ていた。

 目が合うと、今里くんは、すっと路地の奥へ消えた。

 二つ目の角でも、振り返った。もう、誰もいなかった。

 三つ目の角を曲がると、家の玄関の明かりが見えた。

 

 部屋に入ってベッドに座った。

 角三つ。

 この駅から私の家まで、角が三つあることを、今里くんは知っている。当たり前だった。高三の夏祭りの夜から、何十回も送ってもらった道だった。

 知っている人が、知っている道を、知っている通りに言っただけだった。

 それだけのことが、どうしてこんなに、胸に刺さるのか。

 帰れ、と言った。

 一人でいるな、と言った。

 明るい道を通れ、と言った。

 そして、見ていた。私が角を曲がるまで。

 あの人は、私のことを、どうでもいいと思っているわけじゃない。

 それがわかったことで、余計に、わからなくなった。

 どうでもよくないなら、どうして。

 スマホを手に取って、トーク画面を開いた。

『送ってくれて、ありがとう』

 打って、送信の矢印の上で、指を止めた。

 送ってくれたわけではなかった。ただ、路地の入り口に立っていただけだった。

 消した。

『おやすみ』

 それだけ送った。

 既読は、日付が変わるころについた。

 返事は、来なかった。