五月の水仙は枯れない

 七時四十分の電車に、今里くんは乗ってこなかった。

 いつものホームの、いつもの車両の、いつもの扉の前。一年と少し、毎朝ここで待ち合わせてきた。今里くんが遅れるときは、必ず『ごめん一本遅らせる』とメッセージが来た。

 今日は、何も来ていなかった。

 朝の『おはよ』も、来ていなかった。

 七時に目が覚めて、スマホを見て、何もなくて。寝坊したのかな、と思った。七時半に、私から『おはよう』と送った。

 既読は、すぐについた。

 返事は、来なかった。

 電車の扉が開いて、人が降りて、人が乗った。発車のベルが鳴った。私は、ホームに立ったまま、乗り損ねた。

 次の電車にも、今里くんはいなかった。

 私は、それに乗った。一限には、もう間に合わない電車だった。

 

 一限の英語の教室に着いたのは、始まって十五分が過ぎたころだった。後ろの扉からそっと入って、一番後ろの席に座った。

 講義は、ほとんど頭に入らなかった。

 机の下で、スマホの画面を何度もつけた。『おはよう』の横に、小さく「既読」の二文字がある。その下には、何もない。

 風邪を引いたのかもしれない。

 連休の疲れで、寝込んでいるのかもしれない。

 だったら、そう言ってくれればいい。『熱ある』でも『だるい』でも、一言でいいのに。

 昨日の夕方、改札の前で「また明日」と言った人が、今朝、一言も送ってこない。

 私は、二限の前に、もう一度だけ送った。

『大丈夫?』

 既読がついた。

 返事は、来なかった。

 

 昼休み、学食に行った。

 窓際の端の、四人掛けのテーブル。いつも二人で並んで座る席。今日は、誰も座っていなかった。

 私は、カレーを頼んで、その席の片側に座った。

 スプーンを持ったまま、入り口のほうを見ていた。

 十二時二十分を過ぎたころ、入り口のほうが騒がしくなった。

 五、六人の、男女のグループだった。知らない顔ばかりだった。上級生らしい、髪の明るい人たち。大きな声で笑いながら、学食の真ん中のテーブルを占領していく。

 その中に、今里くんがいた。

 

 最初、見間違いだと思った。

 今里くんは、その人たちの真ん中で、笑っていた。

 大きな声で。隣の男の人の肩を叩いて。向かいの女の人が何か言うと、手を叩いて笑った。

 知らない笑い方だった。

 首の後ろに手をやらない。眉を下げない。口を大きく開けて、声を張り上げて、まるで自分がそこにいることを周りに知らせるみたいに笑っていた。

 私の前で、一度もしたことのない顔だった。

 私は、スプーンを置いた。

 立ち上がりかけて、止まった。

 行って、何を言えばいいのかわからなかった。「おはよう」に返事がない理由を訊く? あの人たちの前で?

 迷っているうちに、今里くんがこちらを見た。

 目が合った。

 今里くんは、笑うのをやめた。

 一秒。

 それから、目を逸らした。

 隣の人に何か話しかけられて、また笑った。さっきと同じ、大きな声で。

 

 私は、カレーを半分残して、学食を出た。

 廊下を歩きながら、今のは何だったんだろう、と思った。

 目が合った。今里くんは、私を見た。見て、笑うのをやめた。一秒だけ。

 それから、逸らした。

 知らない人を見たときの逸らし方ではなかった。知っている人を、見なかったことにする逸らし方だった。

 図書館の裏のベンチに座った。

 手が、冷たかった。五月なのに。

 スマホが鳴った。

 飛びつくように画面を見た。

 今里くんからだった。

『ごめん 今日ちょっと先輩たちと約束あるから』

 それだけだった。

 私は、その一行を、何度も読んだ。

 ごめん。今日。ちょっと。先輩たちと。約束。

 どの言葉も、ちゃんと意味がわかった。わかるのに、全部を並べると、何を言われているのかわからなかった。

 昨日、改札の前で、「また明日」と言った。

 今日の約束が、先輩たちと、あったのなら。どうして、昨日、言わなかったんだろう。

 私は、返事を打った。

『わかった』

 送ってから、それが本当に言いたかったことなのか、わからなくなった。

 

 午後の講義が終わって、駅に向かった。

 改札の前で、待った。電光掲示板の行き先が、三回、四回と入れ替わった。

 来ないとわかっていて、待った。

 今里くんのバイトは、今日は入っていないはずだった。先輩たちとの約束が何なのかは知らない。夕方には終わるのかもしれないし、夜まで続くのかもしれない。

 六時を過ぎて、改札を抜けた。

 一人で電車に乗るのは、久しぶりだった。

 窓の外を、夕暮れの景色が流れていった。隣の県から、地元へ。一時間と少し。いつもなら、隣に誰かがいて、どうでもいい話をしているうちに着いてしまう時間。

 今日は、長かった。

 

 夜になった。

 部屋の明かりを消して、ベッドに入った。

 スマホの画面をつけた。

 今里くんとのトーク画面。一番下に、私の『わかった』がある。既読がついている。

 その上に、今里くんの『ごめん 今日ちょっと先輩たちと約束あるから』。

 その上に、私の『大丈夫?』と『おはよう』。

 その上に、私の『おやすみ』。

 その上に、昨日の夜の、今里くんの『おやすみ』。

 私は、画面を上になぞった。一日前。二日前。一週間前。一ヶ月前。

 『今日のカレー、辛口だった』。『知ってる。見てた』。

 『今日の並木道、写真撮っとけばよかった』。

 どこまで遡っても、毎日、何かが書いてあった。

 今日だけが、違った。

 

 十一時を過ぎた。

 十二時を過ぎた。

 『おやすみ』は、来なかった。

 私から、送った。

『おやすみ』

 既読がついた。

 そのまま、画面が暗くなるまで見ていた。

 暗くなった画面に、自分の顔が映っていた。

 どうして、と思った。

 何があったの、と思った。

 私、何かした?

 昨日の神社で、何か言った? 石段の上で、何か、間違えた?

 思い出そうとした。楠の葉の音。「なんもしてないけど、いい感じのやつ」。「俺、成長してねえな」。絡めた指。夕日の影。

 改札の前の、「また明日」。

 いつもの顔だった。

 卒業式の日の、最後の一枚と、同じ顔だった。

 あの顔が、嘘だったとは思えなかった。

 だから、わからなかった。