五月の水仙は枯れない

 大学の入学式は、桜がほとんど散ったあとだった。

 隣の県の、国立大学。家から電車で一時間と少し。毎朝、駅の同じホームの、同じ車両の、同じ扉の前で待ち合わせた。

 学部は違った。私は文学部で、今里くんは経済学部。講義の棟も違って、昼まではほとんど顔を合わせなかった。

 でも、昼は、学食で一緒に食べた。

 毎日ではなかった。今里くんがサークルの集まりに呼ばれる日もあったし、私がゼミの子たちと食べる日もあった。でも、週に三回か四回は、窓際の端の、四人掛けのテーブルの片側に並んで座っていた。

 カレーは、本当においしかった。

「な、言ったろ」

 今里くんは初めて食べた日、スプーンを握ったまま、得意げに胸を張った。

「朔の兄貴、嘘つかなかった」

「……萩原くんのお兄さんに、お礼言わなきゃ」

「言わなくていい。調子乗るから」

 

 六月の終わりに今里くんの誕生日があった。

 私は、駅前の本屋のアルバイト代で、腕時計を買った。黒い革のベルトの、飾り気のないもの。今里くんは、スマホで時間を見るから時計はいらない、と前に言っていた。それでも、なんとなく、手首に何か巻いていてほしかった。

 渡すと、今里くんは箱を開けて、しばらく黙っていた。

「……俺、時計、してこなかったんだけど」

「……知ってる」

「なのに、なんで」

「……なんとなく」

 今里くんは時計を手首に巻いた。ベルトの穴を一つずつ試して、三つ目で止めた。

「これ、毎日つける」

「……無理しなくていい」

「つける。……で、見るたびに、渚沙のこと思い出す」

 照れもせずにそう言って、今里くんは文字盤を私に向けた。

 秒針が、音もなく回っていた。

 

 夏休みには、今里くんの家で、何度か夕飯をごちそうになった。

 おばさんは、初めて会った日から、私を「渚沙ちゃん」と呼んだ。唐揚げを山のように揚げて、「この子、渚沙ちゃんの話しかしないのよ」と言って、今里くんに本気で怒られていた。帰り際には、玄関で私の手を両手で包んで、「また来てね」と言った。

 大学の生活は、思っていたより忙しかった。

 課題が出て、レポートを書いて、アルバイトに通った。私は五月から駅前の本屋で、今里くんは大学の近くのカフェで。帰りの電車が別々になる日も、少しずつ増えた。

 それでも、夜には必ず、どちらかからメッセージが来た。

『今日のカレー、辛口だった』

『知ってる。見てた』

『なんで声かけないの』

『友達といたから』

『友達より俺でしょ』

 私はスマホを見ながら、一人で笑った。

 毎朝の『おはよ』と、毎晩の『おやすみ』。そのあいだに、どうでもいい話がいくつか。

 それが、一年続いた。

 

 十月の半ばの、ある火曜日。

 その日は、二人とも四限で講義が終わって、アルバイトもなかった。帰りの電車が一緒になるのは、久しぶりだった。

 夕方の電車は、混んでいた。私たちは扉の脇に並んで立って、閉まった扉の窓から外を見ていた。

 川を渡るところで、窓の外が、急に開けた。

 土手の向こうに、日が沈みかけていた。川の水が、ところどころ橙色に光っていた。鉄橋を渡る音が、足の裏から上がってきた。

「……あ」

 今里くんが小さく声を出した。

「今の、きれいだった」

「……うん」

「毎日渡ってんのに、初めて見た気がする」

 今里くんは、窓に額をつけるようにして、流れていく土手を目で追った。ガラスに、息の跡が小さく曇って、すぐに消えた。

 鉄橋を渡りきると、窓の外は、また家の屋根ばかりになった。

 今里くんは鞄から経済学の分厚い教科書を出して開いた。三ページめくって、閉じた。

「無理。揺れる」

「……さっき、窓に頭つけてたのに」

「あれは別」

 私は、自分の鞄から、講義で読んでいる短編集を出した。帰りに読もうと思って、朝から入れておいた本だった。

 今里くんが横から覗き込んだ。

「それ、面白い?」

「……まだ、半分」

「読み終わったら、あらすじ教えて。三行で」

「三行は、無理」

「じゃあ、五行」

 私は、少し考えてから、頷いた。

 地元の駅に着くころには、窓の外は、すっかり暗くなっていた。改札を出て、今里くんは駅の反対側へ、私は角を三つ曲がった先へ。

「じゃ、また明日」

「……また明日」

 その夜、『五行、待ってる』とメッセージが来た。

 私は、本を枕元に広げて、残りの半分を、日付が変わる前に読み終えた。

 五行に、まとめられなかった。書いては消して、結局、七行になった。

 今里くんからは、『長い』と一言だけ返ってきた。そのあとに、『でも読みたくなった』と、もう一言。

 

 秋になると、キャンパスの銀杏並木は、本当に葉っぱで埋まった。

 十一月の終わり、講義が休講になった午後に、二人で並木道を端から端まで歩いた。落ち葉を踏むと、乾いた音がした。今里くんは、わざと落ち葉の厚いところばかりを選んで歩いて、途中で滑って転びかけた。

「……危ない」

「今の、見なかったことにして」

「見た」

「忘れて」

「忘れない」

 今里くんは観念したように笑った。

 並木道の突き当たりで今里くんが振り返った。

「来年も、見に来ような」

「……うん」

「再来年も」

「うん」

「卒業するまで、毎年」

 私は今里くんの隣に並んだ。

「……卒業しても」

 今里くんが目を丸くした。

 それから、ゆっくりと笑った。

「それ、いいな」

 

 冬が来て、春休みになった。

 今里くんは春休みのあいだに、二輪の免許を取った。

 萩原くんのお兄さんが、就職で乗らなくなったバイクを譲ってくれるかもしれない。そういう話が、年明けからずっと出ていたのだという。

「取ったら、いつか後ろ乗せてやる」

 教習所の帰りに今里くんは得意げに免許証を見せてくれた。写真の中の今里くんは、卒業式の日の一枚目みたいに、ひどく緊張した顔をしていた。

「……こわい」

「こわくないって。安全運転するから」

 私は、曖昧に笑った。

 お兄さんのバイクの話は、そのあと、いつのまにか聞かなくなった。免許証は、今里くんの財布の中に入ったままになった。

 春が来て、私たちは、二年生になった。

 亜美は、約束どおり、毎月一回、四人を集めた。萩原くんは、キャンパスですれ違うたびに大声で手を振ってきた。早瀬さんとは東京との遠距離で、ときどき喧嘩をしながら続いていた。亜美は短大で新しい友達をたくさん作って、会うたびに違う色の髪をしていた。

 ときどき、四人で、あの神社の夏祭りに行こうという話になった。

 今年こそ行こう、と亜美が言った。二年ぶりに、四人で。

 

 五月の連休の最後の日、二人で、街の映画館に行った。

 帰りの電車で、地元の駅に着いたのは、まだ夕方の四時過ぎだった。改札を出て、いつもなら私の家のほうへ曲がるところで、今里くんが立ち止まった。

「ちょっと、高校のほう、行ってみない?」

 特に理由はなかったのだと思う。天気がよくて、このまま帰るには、まだ日が高すぎた。

 駅から、坂のほうへ歩いた。

 高校の校舎が見えた。校門は閉まっていた。グラウンドのほうから、部活の声が聞こえた。

「懐かしいな」

「……まだ、一年ちょっとだよ」

「一年ちょっとでも、懐かしいもんは懐かしいじゃん」

 今里くんは校門の前で足を止めた。卒業式の日に写真を撮った、あの場所だった。

 坂の上の神社には、大学に入ってからも、ときどき二人で寄っていた。でも、校門の前まで来るのは、卒業式の日以来だった。

「あの写真、まだある?」

「……ある」

「消さないでよ」

「……消さない」

 それから、二人で、あの交差点を右に曲がった。

 坂を上って、神社を抜けた。

 境内は、静かだった。連休の最後の日の夕方で、参拝の人もほとんどいなかった。楠が、新しい葉を茂らせていた。

 本殿の前の石段に並んで座った。

 高三の五月と、夏祭りの夜と、同じ場所だった。

 

 二人とも、黙って座っていた。

 楠の葉が、風に揺れて鳴っていた。

「なあ、渚沙」

「……うん」

「明日から、また大学だな」

「……うん」

「なんか、ずっとこうしてたいな」

 今里くんは空を見上げていた。

「こういうの。なんもしてないけど、いい感じのやつ」

 高三の五月に、同じ場所で、同じことを言っていた。

 私は、少し笑った。

「……それ、前にも聞いた」

「え、ほんと?」

「うん。ここで」

「……俺、成長してねえな」

 今里くんも、笑った。

 笑って、それから、私の手を取った。

 指と指を、ゆっくり絡めた。

 夕日が、石段の上に二人分の影を長く伸ばしていた。

 

 駅まで送ってもらって、改札の前で別れた。

 今里くんの家は、駅の反対側だった。私の家は、改札を出て、角を三つ曲がった先だった。

「じゃあ」

「……うん」

「また明日」

 今里くんはそう言って手を振った。

 いつもの顔だった。

 卒業式の日の、最後の一枚と、同じ顔だった。

「……また明日」

 私も、手を振った。

 今里くんの背中が、人の流れの中に消えていくのを、改札の前で見送った。

 

 その夜、いつもどおり『おやすみ』が来た。

 私も、『おやすみ』と返した。

 スマホを枕元に置いて、目を閉じた。

 明日は、水曜日。連休明けの、最初の登校日。一限は、英語だった。

 目を閉じても、改札の前の「また明日」が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 翌朝、五月七日。

 七時を過ぎても、八時を過ぎても。

 今里くんから、『おはよ』は来なかった。