五月の水仙は枯れない

 十二月の模試で、今里くんはA判定を取った。

 結果の紙を受け取ったその場で、今里くんは何も言わずに、私の机の上にそれを置いた。

 判定の欄に、アルファベットが一文字だけ印刷されていた。

 私は紙と今里くんの顔を、交互に見た。

「……言ったろ」

 九月と同じ台詞だった。でも、九月よりずっと小さな声だった。

 今里くんは、自分の席に戻って、机に突っ伏した。肩が、ゆっくり上下していた。寝たふりをしているのだとわかったから、私は声をかけずに、黒板のほうへ向き直った。

 その日の帰り、坂の下の自販機で、今里くんがココアを二本買ってくれた。

 九月と同じ銘柄だった。

 今度は、指先が痛いほどには熱くなかった。

 

 共通テストの前の日、学校の帰りに、二人で坂の上の神社に寄った。

 今里くんは本殿の前で、長いあいだ手を合わせていた。

 私は、隣に立っていた。手を合わせるふりをして、その横顔を見ていた。お願いしたいことが、うまく思いつかなかった。この人が隣にいて、明日、同じ門をくぐる。それ以上に欲しいものが、見つからなかった。

「何お願いした?」

 鳥居を出たところで今里くんが訊いた。

「……内緒」

「ずる」

 

 一月の共通テストは、雪の予報が外れて、よく晴れた。

 試験会場の大学の門の前で、今里くんは鞄の持ち手にぶら下げた紺色のお守りを、私に見せた。

 私も鞄の内ポケットから、同じ紺色を出した。

 周りでは、参考書を最後までめくる音や、誰かの親の「頑張って」が行き交っていた。

 お守りをこつんと合わせて、それぞれの試験室へ向かった。

 

 二日目の夜、自己採点をした。

 私の点数は、思っていたより良かった。今里くんからは、なかなか連絡が来なかった。

 十時を過ぎて、やっとスマホが鳴った。

『数学、やらかした』

 それだけだった。

 私は、返事を打ちかけて、消した。大丈夫だよ、も、二次で取り返せるよ、も、どれも違う気がした。

 何も送らずに、画面を見ていた。

 十分が過ぎた。二十分が過ぎた。

 三十分後にまた鳴った。

『ボーダーから、ちょっと下』

『でも、二次の配点のほうがでかいから、まだいける』

『いける、と思う』

『……たぶん』

 一行ずつ、ゆっくり届いた。

 私は、そのあいだ、何も送らなかった。

 この人が、自分の言葉を探しているのがわかったから。

 最後に、ひとつだけ来た。

『待っててくれて、ありがと』

 私は、画面を胸に押し当てた。

 それから、やっと返事を打った。

『明日、図書館、向かいの席』

 

 二月の終わりの二次試験も、門の前でお守りを合わせた。

 帰りの電車で、今里くんは私の肩に頭を載せて眠った。一時間と少し。乗り換えの駅で起こすと、今里くんは寝ぼけた顔で「数学の最後の問題、あれ、たぶん合ってる」と言って、また目を閉じた。

 

 合格発表は、三月の最初の週だった。

 正午に、大学のサイトに番号が載る。

 私たちは、私の家の居間で、並んで座っていた。母が気を利かせて出かけてくれたのか、ただ買い物に行っただけなのかはわからない。ローテーブルの上に、ノートパソコンが一台。その横に、受験票が二枚。

 十一時五十八分。

「……渚沙が先に見て」

「……なんで」

「俺、無理。心臓出る」

「……私も、出る」

「じゃあ、せーので」

 十二時。

 ページを更新した。

 読み込みの丸が、くるくると回った。

 長かった。たぶん、三秒くらいだった。

 番号が、並んでいた。

 私は、自分の受験票の番号を指でなぞりながら、画面の数字を上から順に追っていった。

 あった。

 それから、今里くんの受験票を見た。

 番号を、もう一度、上から追った。

 指が、途中で止まった。

 

 今里くんは、画面を見ていなかった。

 目を閉じて、膝の上で、両手を固く組んでいた。

「……今里くん」

「……」

「あったよ」

 今里くんが目を開けた。

「……どっちの」

「どっちも」

 今里くんは、何度か瞬きをした。

 画面を見た。自分の受験票を見た。また画面を見た。

 それから、ゆっくりと、両手で顔を覆った。

「……っしゃ」

 くぐもった声だった。

 肩が、震えていた。

 私は、何も言わずに、その背中に手を置いた。十二月の教室で、寝たふりをしていた背中と、同じ背中だった。

 ノートパソコンの画面が、触れられないまま暗くなった。そのころに、今里くんが顔を上げた。

 目が真っ赤だった。

「渚沙」

「……うん」

「同じとこ、行ける」

「……うん」

「学食のカレー、食える」

「……うん」

「銀杏並木も、見れる」

 今里くんは私の手を掴んだ。

「全部、一緒に」

 その日の夕方、二人でまた、坂の上の神社に行った。

 今里くんは、お礼、と言って、また長く手を合わせた。

 私はその背中を、石段の下から見ていた。

 

 卒業式は、三月の半ばだった。朝から曇っていた。

 体育館で名前を呼ばれて、卒業証書を受け取って、校歌を歌った。亜美は、式の途中からずっと泣いていた。萩原くんは、式が終わった瞬間に早瀬さんのところへ飛んでいって、早瀬さんに「三年間おつかれ」と肩を叩かれて、泣かされていた。

 亜美は、四月から市内の短大に通う。萩原くんは、私たちと同じ大学の、工学部。お兄さんと同じところだった。早瀬さんは、東京の専門学校。

「離れても、絶対、月一で集まるからね」

 亜美が真っ赤な目で、四人を順番に指さした。

「絶対だからね。朔も。今里も。渚沙も」

「わかったって」

「わかってない顔してる」

「してねえよ」

 萩原くんが笑って、亜美に肩を殴られた。

 

 校門の前で写真を撮った。

 四人で撮って、亜美と二人で撮って、それから、今里くんと二人で撮ろうとした。

 スマホを構えたのは、私だった。

 今里くんは「卒業」と書かれた看板の横に立った。卒業証書の筒を持って、胸元に花をつけて。

 画面の中の今里くんは、ひどく緊張した顔をしていた。

「……もっと普通に笑って」

「普通ってなに」

「いつもの」

「いつものって、どんなんだっけ」

 今里くんは、口の端を無理やり持ち上げた。目が笑っていなかった。私は、首を振った。

 今里くんは、もう一度やり直した。今度は、歯を見せすぎていた。

 三枚目は、目をつぶっていた。

 四枚目は、変な方向を向いていた。

「……わざとやってる?」

「やってない。……俺、写真苦手なんだって」

 首の後ろに手をやって、眉を下げて。

 困ったような顔。私の前で、よくする顔。

 その瞬間に、私はシャッターを押した。

「あ、今の、ずるい」

「撮れた」

「見せて」

 今里くんが私の手元を覗き込んだ。

 画面の中で、今里くんは、ちゃんと笑っていた。

 いつもの顔で。首の後ろに手をやって、眉を下げて、少しだけ照れくさそうに。

 何枚も撮り直した中で、その最後の一枚だけが、ちゃんと笑っていた。

「……これ、いいじゃん」

 今里くんがぽつりと言った。

「俺、こんな顔してんだ」

「……いつも、してるよ」

「渚沙といるとき?」

「……うん」

 今里くんは、画面から顔を上げて、私を見た。

 それから、何も言わずに、画面の中の自分と、同じ顔で笑った。

 笑ったまま、照れ隠しに、画面を指でつついた。

「……それ、あとで送って」