その日の放課後、今里くんは図書館に来なかった。
次の日も、来なかった。
教室では、離れた席から、ときどき目が合った。朝、廊下ですれ違えば「おはよう」は言った。
それ以外は、何も話さなかった。
六月の、あの三日間とよく似ていた。
ただ、あのときと違ったのは、今度は、今里くんのほうが遅れていたことだった。
廊下で私が何か言いかけると、今里くんは目を伏せた。教室に戻ると、離れた席で、ノートに何か書いて、消して、また書いていた。
待っているのではなかった。
何かを、言えずにいるのだった。
「あのさ」
三日目の帰り道、亜美が言った。
二人で並んで、駅までの道を歩いていた。いつもなら私の隣を歩いている人は、今日も、先に帰っていた。
「今里、あの日、渚沙が出てったあと、しばらく固まってたよ」
「……」
「で、朔が謝ったの。俺が余計なこと言ったって。そしたら今里、『お前のせいじゃない』って。『俺が、間違えた』って」
私は足を止めた。
「……間違えた、って」
「それしか言わなかった。あとは、ずっと黙ってた」
亜美は私の顔を覗き込んだ。
「ねえ、渚沙。推薦の話、どうするか、もう決めてるんでしょ」
私は答えなかった。
「あたしには、わかるよ。中学から見てるもん」
亜美は少し笑った。
「渚沙が本当に迷ってるときは、もっと何日も黙ってる。今回は、四日で言いかけてた。……答え、もう出てたんでしょ」
出ていた。
書類を受け取った、その日の夜には。
母に「わかんない」と言ったのは、嘘ではなかった。わからなかったのは、大学のことではなかった。自分の出した答えを、どう言えばいいのか。それを、今里くんにどう伝えればいいのか。
それだけが、わからなかった。
わからないまま、四日が過ぎて。
そして、あの人は、一秒も待たずに「行けよ」と言った。
「……私、怒ってる」
言葉にしてから、自分で驚いた。
怒っている。
悲しいのでも、寂しいのでもなく。
「なんで、って。……待ってくれなかったのが」
「うん」
「いつも、待ってくれるのに」
「うん」
亜美は私の手を握った。
「それ、本人に言いなよ。三日かけないで」
その夜、九時を過ぎたころ、スマホが鳴った。
『今、家の前にいる』
今里くんからだった。
カーテンを開けると、玄関の明かりの下に人影があった。
夏祭りの夜、「やっぱ、いいや」と言った、あの場所だった。
私は部屋着の上にカーディガンを羽織って、玄関を出た。
十月の夜は、思っていたより冷えていた。今里くんは制服のまま、鞄を肩に掛けて立っていた。二つ先の駅の、県立図書館の帰りだった。いつもの市立図書館には来ないで、三日間、一人でそこに通っていたのだと、あとで聞いた。
「……ごめん。こんな時間に」
「……ううん」
今里くんは門の外に立っていた。私は門の内側に立っていた。
低い鉄の門が、あいだにあった。
「俺、間違えた」
今里くんが先に言った。
「すぐに言ったの。……渚沙の話、聞かないで」
「……」
「言い訳していい?」
私は頷いた。
今里くんは門の上に両手を置いた。冷たい鉄を、握るように。
「待ったら、言いそうだったんだよ」
「……何を」
「行くなって」
街灯が、じじ、と音を立てた。
今里くんは門の上の自分の手を見ていた。
「東京の、すげー大学じゃん。渚沙、昔から行きたかったんだろ。小野寺から聞いた。……そんなの、行かせてあげたいに決まってんじゃん」
「……」
「でも、あのとき、ちょっとでも待ったら。渚沙の顔見て、渚沙が何か言うの待ってたら。……絶対、言うって思った。行くなって。俺と同じとこ来てって」
今里くんの声が、揺れた。
「そんなの、言いたくなかった。渚沙の邪魔、したくなかった。だから、先に言った。行けって。……俺が言いたいことを、言わないうちに」
私は、門の内側で、今里くんの手を見ていた。
鉄を握る指が、白くなっていた。
「待たなかったんじゃなくて」
今里くんは顔を上げた。
「待てなかった」
言ったら、本当になっちゃうから。
四月の現代文の授業で、私はそう言った。この人は、それをノートに書き写した。
この人も、同じだったのだ。
言ったら本当になってしまう言葉を、言わないために、別の言葉で先に蓋をした。
私は門の上の、今里くんの手に、自分の手を重ねた。
冷たかった。どれくらい外に立っていたんだろう。
「……今里くん」
「……うん」
「私、推薦、断った」
今里くんの手が、跳ねた。
「……え」
「今日の昼。宮下先生に、言った」
本当は、書類をもらった日の夜に決めていた。決めていて、それをこの人にどう言えばいいのかだけが、わからなかった。
言えば、この人は、自分のせいだと思う。
自分に合わせたのだと思う。
それが、嫌だった。
「合わせたんじゃないよ」
私は、今里くんの目を見た。
今度は、言葉を探さなかった。四日間、ずっと胸の中で磨いてきた言葉だった。
「憧れてた大学より、あなたの隣の席がよかったの」
今里くんは、黙っていた。門の外の道を、自転車が一台、ライトを揺らして通り過ぎていった。
口を開いて、閉じて、また開いた。
それから、門の上で重なった私の手を、ひっくり返すようにして、握った。
「……それ、ずるくない?」
「……何が」
「俺、三日も待ったのに、そんなの一瞬で来るじゃん」
三日も。
この人は、待っていたのだ。「行けよ」と言ってしまったあとも。三日間、図書館に来なかったあいだも。私が何を言うのかを、ずっと。
私は、少しだけ笑った。
「……四日、かかったよ」
「かかったね」
「三日じゃなかった」
「一日増えてんじゃん」
今里くんも、笑った。
笑いながら、目元を、手の甲で乱暴にこすった。
「言っとくけど」
今里くんは握った手を離さないまま言った。
「俺、B判定なんだけど」
「……知ってる」
「渚沙が推薦蹴って、俺が落ちたら、最悪じゃん」
「……うん」
「冬までに、A取る」
「うん」
「取るから」
今里くんは、門越しに、私の額に、自分の額をこつんと当てた。
冷えた額だった。
「……だから、明日から、また図書館で、向かいに座ってて」
私は、目を閉じた。
「うん」
家に戻ると、居間の明かりの下で母がお茶を淹れていた。
私の顔を見て、何も訊かずに、湯呑みをもう一つ出した。
部屋に戻って机の引き出しを開けた。
紺色の小さなお守りが入っていた。
夏祭りの夜に、もらったもの。なくしたくなくて、ずっと、引き出しの奥にしまっていた。
しまったまま、二ヶ月あまりが経っていた。
おそろい、と言った人の顔を思い出した。あの人のお守りは、たぶん今も、あの人の鞄のどこかにぶら下がっている。
私はお守りを、鞄の内ポケットに移した。
明日から、向かいの席に座るときも、ちゃんと持っていよう。
なくさないように、しまっておくんじゃなくて。
次の日も、来なかった。
教室では、離れた席から、ときどき目が合った。朝、廊下ですれ違えば「おはよう」は言った。
それ以外は、何も話さなかった。
六月の、あの三日間とよく似ていた。
ただ、あのときと違ったのは、今度は、今里くんのほうが遅れていたことだった。
廊下で私が何か言いかけると、今里くんは目を伏せた。教室に戻ると、離れた席で、ノートに何か書いて、消して、また書いていた。
待っているのではなかった。
何かを、言えずにいるのだった。
「あのさ」
三日目の帰り道、亜美が言った。
二人で並んで、駅までの道を歩いていた。いつもなら私の隣を歩いている人は、今日も、先に帰っていた。
「今里、あの日、渚沙が出てったあと、しばらく固まってたよ」
「……」
「で、朔が謝ったの。俺が余計なこと言ったって。そしたら今里、『お前のせいじゃない』って。『俺が、間違えた』って」
私は足を止めた。
「……間違えた、って」
「それしか言わなかった。あとは、ずっと黙ってた」
亜美は私の顔を覗き込んだ。
「ねえ、渚沙。推薦の話、どうするか、もう決めてるんでしょ」
私は答えなかった。
「あたしには、わかるよ。中学から見てるもん」
亜美は少し笑った。
「渚沙が本当に迷ってるときは、もっと何日も黙ってる。今回は、四日で言いかけてた。……答え、もう出てたんでしょ」
出ていた。
書類を受け取った、その日の夜には。
母に「わかんない」と言ったのは、嘘ではなかった。わからなかったのは、大学のことではなかった。自分の出した答えを、どう言えばいいのか。それを、今里くんにどう伝えればいいのか。
それだけが、わからなかった。
わからないまま、四日が過ぎて。
そして、あの人は、一秒も待たずに「行けよ」と言った。
「……私、怒ってる」
言葉にしてから、自分で驚いた。
怒っている。
悲しいのでも、寂しいのでもなく。
「なんで、って。……待ってくれなかったのが」
「うん」
「いつも、待ってくれるのに」
「うん」
亜美は私の手を握った。
「それ、本人に言いなよ。三日かけないで」
その夜、九時を過ぎたころ、スマホが鳴った。
『今、家の前にいる』
今里くんからだった。
カーテンを開けると、玄関の明かりの下に人影があった。
夏祭りの夜、「やっぱ、いいや」と言った、あの場所だった。
私は部屋着の上にカーディガンを羽織って、玄関を出た。
十月の夜は、思っていたより冷えていた。今里くんは制服のまま、鞄を肩に掛けて立っていた。二つ先の駅の、県立図書館の帰りだった。いつもの市立図書館には来ないで、三日間、一人でそこに通っていたのだと、あとで聞いた。
「……ごめん。こんな時間に」
「……ううん」
今里くんは門の外に立っていた。私は門の内側に立っていた。
低い鉄の門が、あいだにあった。
「俺、間違えた」
今里くんが先に言った。
「すぐに言ったの。……渚沙の話、聞かないで」
「……」
「言い訳していい?」
私は頷いた。
今里くんは門の上に両手を置いた。冷たい鉄を、握るように。
「待ったら、言いそうだったんだよ」
「……何を」
「行くなって」
街灯が、じじ、と音を立てた。
今里くんは門の上の自分の手を見ていた。
「東京の、すげー大学じゃん。渚沙、昔から行きたかったんだろ。小野寺から聞いた。……そんなの、行かせてあげたいに決まってんじゃん」
「……」
「でも、あのとき、ちょっとでも待ったら。渚沙の顔見て、渚沙が何か言うの待ってたら。……絶対、言うって思った。行くなって。俺と同じとこ来てって」
今里くんの声が、揺れた。
「そんなの、言いたくなかった。渚沙の邪魔、したくなかった。だから、先に言った。行けって。……俺が言いたいことを、言わないうちに」
私は、門の内側で、今里くんの手を見ていた。
鉄を握る指が、白くなっていた。
「待たなかったんじゃなくて」
今里くんは顔を上げた。
「待てなかった」
言ったら、本当になっちゃうから。
四月の現代文の授業で、私はそう言った。この人は、それをノートに書き写した。
この人も、同じだったのだ。
言ったら本当になってしまう言葉を、言わないために、別の言葉で先に蓋をした。
私は門の上の、今里くんの手に、自分の手を重ねた。
冷たかった。どれくらい外に立っていたんだろう。
「……今里くん」
「……うん」
「私、推薦、断った」
今里くんの手が、跳ねた。
「……え」
「今日の昼。宮下先生に、言った」
本当は、書類をもらった日の夜に決めていた。決めていて、それをこの人にどう言えばいいのかだけが、わからなかった。
言えば、この人は、自分のせいだと思う。
自分に合わせたのだと思う。
それが、嫌だった。
「合わせたんじゃないよ」
私は、今里くんの目を見た。
今度は、言葉を探さなかった。四日間、ずっと胸の中で磨いてきた言葉だった。
「憧れてた大学より、あなたの隣の席がよかったの」
今里くんは、黙っていた。門の外の道を、自転車が一台、ライトを揺らして通り過ぎていった。
口を開いて、閉じて、また開いた。
それから、門の上で重なった私の手を、ひっくり返すようにして、握った。
「……それ、ずるくない?」
「……何が」
「俺、三日も待ったのに、そんなの一瞬で来るじゃん」
三日も。
この人は、待っていたのだ。「行けよ」と言ってしまったあとも。三日間、図書館に来なかったあいだも。私が何を言うのかを、ずっと。
私は、少しだけ笑った。
「……四日、かかったよ」
「かかったね」
「三日じゃなかった」
「一日増えてんじゃん」
今里くんも、笑った。
笑いながら、目元を、手の甲で乱暴にこすった。
「言っとくけど」
今里くんは握った手を離さないまま言った。
「俺、B判定なんだけど」
「……知ってる」
「渚沙が推薦蹴って、俺が落ちたら、最悪じゃん」
「……うん」
「冬までに、A取る」
「うん」
「取るから」
今里くんは、門越しに、私の額に、自分の額をこつんと当てた。
冷えた額だった。
「……だから、明日から、また図書館で、向かいに座ってて」
私は、目を閉じた。
「うん」
家に戻ると、居間の明かりの下で母がお茶を淹れていた。
私の顔を見て、何も訊かずに、湯呑みをもう一つ出した。
部屋に戻って机の引き出しを開けた。
紺色の小さなお守りが入っていた。
夏祭りの夜に、もらったもの。なくしたくなくて、ずっと、引き出しの奥にしまっていた。
しまったまま、二ヶ月あまりが経っていた。
おそろい、と言った人の顔を思い出した。あの人のお守りは、たぶん今も、あの人の鞄のどこかにぶら下がっている。
私はお守りを、鞄の内ポケットに移した。
明日から、向かいの席に座るときも、ちゃんと持っていよう。
なくさないように、しまっておくんじゃなくて。
