五月の水仙は枯れない

 喪服のスカートが、膝の下で水を吸っていく。

 冷たい、と思ったのは最初の数秒だけだった。そこから先は、自分の膝がどこにあるのかも、よくわからなくなった。

 雨は朝から止まない。

 斎場を出るとき、誰かが傘を差し出してくれた気がする。気がするだけで、今、私の手には何もない。鳥居の下に置いてきたのかもしれないし、もっと前に、駅のどこかで手放したのかもしれない。

 境内には誰もいなかった。

 砂利を打つ雨の音と、本殿の屋根から落ちる雨垂れの音。その二つが、少しずつずれた間隔で鳴り続けている。

 私は本殿の正面、賽銭箱から三歩ほど手前の砂利の上に、膝をついていた。

 どうやってここまで歩いてきたのかは、覚えていない。

 お焼香をして、裕太(ゆうた)のお母さんに頭を下げた。そこまでは覚えている。

「渚沙(なぎさ)ちゃん、来てくれてありがとうね」

 おばさんは私の手を両手で包んで、そう言った。指先がひどく冷たくて、少し震えていた。目は真っ赤で、声はかすれていて、それでも私の名前だけは、一音ずつ丁寧に呼んでくれた。

 私は「はい」と言った。

 それ以外に、何も言えなかった。

 斎場には、たくさんの人がいた。高校のクラスメイト。大学で裕太と仲がよかったらしい人たち。バイト先の人らしい、知らない顔もいくつか。萩原くんは壁際に立ったまま、一度も顔を上げなかった。

 みんな、泣いていた。

 私だけが、泣けなかった。

 遺影の裕太は、高校の卒業式の日の写真だった。

 あれを撮ったのは私だ。校門の前で「もっと普通に笑って」と言ったら、余計に変な顔をした。何枚も撮り直して、最後の一枚だけ、ちゃんと笑っていた。

 その一枚が、白い菊に囲まれて、黒い額の中にいた。

 泣かなきゃ、と思った。

 思えば思うほど、喉の奥が固く乾いていった。目の奥は熱いのに、何も出てこない。悲しくないわけじゃない。そんなはずがない。なのに胸の底に何か重たいものが沈んでいて、それが涙の出口を塞いでいるみたいだった。

 それが何なのか、私にはわからなかった。

 周りの人たちの視線が、ときどき私の上で止まるのがわかった。

 ——彼女なのに。

 誰もそう言わなかった。でも、言われている気がした。

 だから、逃げてきた。

 雨の音が、少し強くなる。前髪から垂れた水が、瞼の上を通って頬を伝っていく。涙みたいだな、と他人事のように思った。これが本物だったら、どんなによかっただろう。

 ここは、裕太とよく来た神社だった。

 高校の帰り道に、少しだけ遠回りをして。受験の前にも、合格した日にも。三年生の夏祭りの夜も、ここに来た。

 大学に入ってからも、ときどき来た。

 大学二年の、五月の連休が明けるまでは。

 連休明けの、あの日を境に、裕太は私を見なくなった。

 連絡が減って、会う約束が流れて、夜中までバイトを入れるようになって、知らない人たちと遊ぶようになって。何度訊いても「なんでもない」としか言わなかった。最後に送ったメッセージには既読がついて、それきりだった。

 そして、いなくなった。

 ちゃんと話せないまま。

 何も、わからないまま。

 視界の端で、黄色いものが揺れていた。

 本殿の脇に、花が咲いている。細い茎が雨に打たれて、首を垂れて、それでも咲いていた。名前は思い出せなかった。

 私は、組んだ指に力を込めた。

 手を合わせる、というより、冷えきった指を握り合わせているだけだった。お参りの作法なんて、今は何も思い出せない。

 願いたいことなんて、何もなかった。

 生き返ってほしいとか、もう一度会いたいとか、そういうことを願うには、私はたぶん、まだ何ひとつわかっていなかった。

 ただ、知りたいことが、ひとつだけあった。

 ずっと訊けなかったこと。

 訊いても、もう答えてくれる人がいないこと。

 私は目を閉じて、雨の中で、声に出さずに問いかけた。

 ——裕太は、本当に私のことが好きだったんですか。

 雨の音が、一瞬だけ、遠くなった気がした。