桜の咲くころに笑う。

 頬杖をついて外を眺める俺の頭に、篤志(あつし)の声が降ってきた。

 「あれ?どうしたんだよ、悩みごとか?」

 「あー……」

 ちょいちょいと手招きすると、篤志は急に真剣な顔になって、内緒話をするときのように顔を寄せる。

 「実はさぁ、舞香に押し倒されちゃって」

 「はぁ?!」

 思いの外、大きいリアクションが返ってきて、唇に人差し指を当てながらキョロキョロと周りを見る。
 女子たちがチラリと見てくるのはいつものことだ。だけど、廊下側の一番前の席に座る舞香だけは、いつものように振り返ることなく、顔を俯けて金髪を垂らしていた。

 俺は篤志の背中を押して、ベランダに出た。教室で話すのはまずい。それでも声を潜めないと、誰がどこで聞いてるか分からない。

 「美術準備室に連れ込まれて、いきなり上に乗ってきたんだよ。そしたら脱ぎ始めて、俺も脱がされそうになって……」

 「はぁ……」

 「抵抗しようとしたけど、けがさせちゃったら可哀想じゃん?」

 「はぁ……」

 さっきからため息のような返事しか聞こえなくて、少しもどかしくなる。篤志は額に手を当てたまま、横目で俺を見てきた。

 「で?ヤッたのか?」

 「ヤんないよ。……ていうか、あちこち触られたけど反応しなかった。最低って言われたし」

 「あー、あれか?付き合って三ヶ月経たないとそういうことはしないって、お前のポリシーだっけ?一ヶ月以上続かないくせにな」

 「舞香とは付き合ってないし、永桜と一ヶ月以上続いてる」

 柵の上で組んだ両腕に顎を乗せて、唇をとがらせる。篤志は伸びをするように台風一過の空を見上げた。

 「俺の分身は、もう永桜じゃないと反応しないのかも」

 「は?!」

 篤志が驚いて掴んだ柵が、ギシッと不安になる音を立てた。

 「なんだよ、そんなに好きなのか?男に告られたーって、頭抱えてたのに」

 生温い風が吹きつけて、俺は首を傾げた。

 永桜の笑うと細くなる目とか、照れると赤くなるうなじとか、ひらひらと振ったときの細い手首とか、可愛いなと思う。
 ジャージを借りたときはやばくて、洗濯しなくていいと言う永桜を押し切って、次の日にうちの柔軟剤の香りをつけて返した。

 でも、それが好きということなのかと言われると、正直よく分からない。ただ性欲を持て余してるだけのような気もしてる。

 永桜は今まで付き合ってきた子みたいに、俺のことを怒ったり疑ったりしない。なんでも「いいよ」って言ってくれて、それが楽だったんだけど、最近はなんか物足りなくて……。

 「分かんないけど、とりあえず永桜に謝ってくる」

 「なにを?」

 「舞香に襲われてるところ、見られちゃってさ」

 「はぁ?!」

 篤志の何度目かの『は』に小さく笑う。
 いちいちリアクションが大きくて面白い男だ。

 「それ、謝って済む問題か?!」

 「大丈夫だよ。永桜は許してくれるから」

 「あ!おいっ!」

 篤志の呼びかけを無視して教室に戻ると、俺は鼻歌をうたいながら永桜のところに向かった。



 「なーお!」

 ドアからひょっこり顔を出して、教室の中を覗く。

 いつもだったら一番に目につくのは、永桜のほころぶような笑顔のはずだった。
 なのに今日は、隣にいる友紀の鋭い視線が先に刺さる。

 なんだよ、あいつ。いつも俺と永桜の邪魔をするように睨んできやがって。

 胸の奥がチリチリする。

 永桜が友紀と短い言葉を交わして、それから俺のところに歩いてきた。

 「……咲也、どうした?」

 永桜の上目遣いがお気に入りなのに、今日は俺を見てくれない。恥ずかしがってるんだろうか。

 伏せた目元が赤い。第二ボタンまで外したワイシャツから華奢な鎖骨が見えて、昨日はうんともすんとも言わなかった俺の中心がじわりと熱をもつ。
 細く息を吐き出して熱を逃がすと、なんでもないように口角を上げた。

 「昨日、ごめんね。びっくりさせちゃったでしょ?実はさ―――」

 「ううん、いいよ」

 言葉をさえぎるように永桜が顔を上げた。
 いつもより少しだけ強い声。それでも、今度はちゃんと俺を見て笑ってくれたから、心の中がふっと軽くなる。

 よかった……。
 やっぱり永桜は優しい。俺のことをちゃんと信じてくれてる。だから、あんなことで嫌いになったりしない。

 それなのに……やっぱりなにか物足りない。

 「咲也、よかったね。今度はちゃんと大事にしろよ」

 「え?なにを?」

 永桜の言っている意味が分からなくて、首をひねる。

 「……なにって、全部」

 「うーん?」

 よく分からない。でも、永桜が笑ってるからいいか。

 「うん、分かった!」

 それでも、また胸の奥がざわつくのはなんでだろう。

 永桜は可愛い。ずっと見ていたいと思う。友紀に構われているのを見ると、ちょっとだけ面白くない。
 篤志に言ったらまた変なこと言い出しそうだけど、胸の奥に渦巻くこのモヤモヤは、まだはっきりした形にはなっていなかった。

 「じゃあな、咲也」

 「うん、またね」

 「………」

 ひらりと手を振った永桜は、俺に背を向けて廊下を歩いていく。てっきり友紀のところに戻ると思ったのに。



 教室へ帰る途中、俺はまたしても鼻歌をうたっていた。

 永桜は、俺が誰にでも優しいところを好きになってくれたんだと思う。
 だから頼まれたら断れないことも、女子と帰って遅くなることも、なんにも気にしないで『いいよ』って笑ってくれる。
 
 俺を信じてるから許してくれるんだ。
 そう思うと、なんだか嬉しくて、少し寂しかった。

 けれど俺たちは、これからもこんな風に穏やかに過ごしていける。

 そんな気がして、大きく一歩踏み出した。