明けない雨夜の愛しかた

病院の匂いは、独特だった。消毒液と、洗いたてのシーツと、わずかな薬品の匂い。


病室の天井は、無機質なまでに白かった。





「……瀬川くん」




主治医の落ち着いた声が、静まり返った診察室に響いた。レントゲン写真とMRIの画像を交互に指差しながら、医師は淡々と事実を告げる。






「右膝の前十字靭帯断裂、および半月板の重度損傷です。すぐに手術を行います。リハビリを重ねれば……日常の生活には全く支障はありません。普通に歩くことも、軽いジョギングをすることも可能です」








医師は一度言葉を切り、浬の目をじっと見つめた。







「ですが……競技としてのバスケットボール復帰は、難しいと言わざるを得ません。膝にかかる負荷に、関節が耐えられない。もし無理に競技を続ければ、三十代で歩行困難になるリスクがあります」








言葉の意味が、頭の中で時間をかけて分解されていく。







日常生活には問題ない。



けれど、バスケットボールは二度とできない。








隣で話を聞いていた母親が、口元を押さえて小さく声を詰まらせた。父親は厳しい表情のまま、拳を握りしめて沈黙している。







当事者である浬は、ただぼんやりと自分の右膝を見つめていた。包帯でぐるぐると太く巻かれた足。そこに触れてみても、自分の足ではないような、他人の皮膚を触っているような違和感しかなかった。








「……そうですか」


浬の口から漏れたのは、驚くほど冷静な声だった。


「ありがとうございました」








病室に戻り、一人になった夜。




暗闇の中で、浬は突然襲ってきた激しい吐き気に襲われた。ベッドから身を乗り出し、胃液を吐き吐き吐き出そうとしても、何も出てこない。





安堵した。



あの瞬間、自分は間違いなく解放感を感じた。







仲間たちが汗と血を流して戦っていたコートの上で、自分だけが「助かった」と思ってしまったのだ。









その事実が、反吐が出るほどの自己悪心となって浬を苛む。





そして、時間が経つにつれて、本当の恐怖が押し寄せてきた。













バスケットボールを失った俺には、一体何が残っている?











エースでもなく、運動神経のいい奴でもない。


コートから追放され、ボールを握ることすら許されない自分。



明日から、俺はどうやって「瀬川浬」として生きていけばいいんだ?




存在価値そのものが、足元から崩れ落ちていく感覚。








退院し、学校へ復帰した浬を待っていたのは、地獄のような「優しさ」だった。




「浬! 退院おめでとう!」


「お前が一番悔しいよな……マジで神様を恨むわ」


「でもさ、お前はチームの顔だから! ベンチから声出してくれよな!まだ一緒にがんばろーぜ!」








クラスメイトも、部の仲間も、全員が心から浬を心配し、気遣い、励ましてくれた。誰も浬を責めなかった。


むしろ「可哀想な被害者」として、大切に、壊れ物を扱うように接してくれた。





その優しさが、鋭利な刃物となって浬の胸を深く抉った。






「おう、ありがとな! 俺の分までシュート決めろよ!」





いつもの笑顔で、いつものトーンで返す。



けれど、言葉を吐き出すたびに、胸の奥が焼きちぎれるように痛んだ。







嘘だ。



俺は可哀想な被害者なんかじゃない。



怪我をした瞬間、逃げ出せてホッとしたクズなんだ。


そんな俺に、お前たちの真っ直ぐな言葉は眩しすぎる。

痛すぎる。

首を絞められているみたいで、息ができない。







放課後、みんなが体育館へ向かった後の、静まり返った教室。 浬は一人、自分の席に残って窓の外を眺めていた。






体育館の方角から、キュッ、キュッというシューズの音と、弾むボールの音がかすかに風に乗って運ばれてくる。かつて自分が世界の中心にいた場所。


もう二度と、あのコートでスパイクを鳴らすことはできない。







スマホを開くと、SNSや動画サイトには、励ましの言葉や名言があふれていた。





『明けない夜はない』


『止まない雨はない』


『神様は乗り越えられない試練は与えない』








映画でも、ドラマでも、大人はみんなそう言う。


失ったものがあっても、時間が経てば笑える日が来る。

夜は必ず明け、光が射し込むのだと。







「……ふざけんなよ」





誰もいない教室で、浬は低く毒づいた。



右膝を強く握りしめる。関節の奥で、ズキリと鈍い痛みが走る。





明けない夜が、ここにあるじゃないか。






俺のバスケ人生の朝は、あの日完全に終わったんだ。

どれだけ時間が過ぎようが、どれだけ朝を待とうが、俺の膝が元に戻ることはない。






コートの上で輝いていた「瀬川浬」は死んだのだ。








二度と朝が来ない夜に叩き落とされた人間は、これからどうやって生きればいい?








止むことのない絶望の雨に打たれ続けている奴は、どこへ逃げればいい?









「希望」という名の綺麗事が、今の浬にはどんな暴力よりも残酷に響いた。


クラスの輪の中心で、相変わらず明るいムードメーカーを演じながら、浬は心の中で泣いていた。




誰も俺の本当の痛みを見ていない。見ようともしない。 「元気に振る舞う瀬川浬」しか、誰も求めていないのだから。




黒い闇の中で、浬はただ一人、出口のない夜の底を彷徨っていた。