明けない雨夜の愛しかた

午前七時。目覚まし時計のアラームが電子音を打ち鳴らす、その三分前に、南優月(みなみゆづき)は静かに目を開けた。





 薄水色のカーテンの隙間から、どんよりとした朝の光が差し込んでいる。秋の深まりを感じさせる冷気が部屋の空気を沈ませていた。


布団の中でゆっくりと息を吐き出すと、白い吐息が小さく揺れて消える。




 優月はまず、布団の中で自分の指先を一本ずつ折り曲げた。親指、人差し指、中指、薬指、小指。左右十本の指が正常に動く。

体温は平熱。頭痛もない。胃の不快感もない。


体に一切の「休める理由」が存在しないことを確かめてから、優月は掛け布団を静かに足元へ押しやった。







 今日も、完璧な一日を始めなければならない。









 洗面所の前に立ち、蛇口を捻る。

冷たい水で顔を洗うと、皮膚がキュッと収縮する感覚があった。


タオルで水気を拭き取り、鏡に正対する。そこに映っているのは、県立高校に通うどこにでもいる女子高校生だ。




肩の下まで伸びた黒髪を丁寧にブラッシングし、前髪にヘアアイロンを通す。







 そして、鏡の中の自分に向かって、口角をわずかに引き上げた。





 頬の筋肉を左右均等に三ミリだけ持ち上げる。


目元には力みを入れず、ただ柔らかく、相手の存在を肯定するように瞳を緩める。我ながら見事な微笑みだった。


嫌味もなく、攻撃性もなく、かといって不自然な破顔でもない。「私はあなたに敵意を持っていません」「私はあなたの心地よい存在でいます」という無言のメッセージを完璧に発信する顔。










「よし」



 声には出さず、唇だけを動かした。







 階下に下りると、リビングのソファで母が小さく体を丸めて横になっていた。ブランケットから覗く手首は細く、皮膚の血管が青く透けている。





「……お母さん、体調はどう?」




 優月は靴足を鳴らさないように歩み寄り、低い声で尋ねた。母を起こさないためであり、もし起きていたとしても驚かせないための配慮だった。





 母の睫毛がピクリと揺れ、ゆっくりとまぶたが開く。





「あ、優月……。ごめんね、起きて朝ご飯作ろうと思ったんだけど、なんだか起き上がれなくて……」



「いいよ、全然気にしないで。横になってて」






 優月は手早くエプロンを身につけた。母が倒れたのは、優月が高校一年生の冬だった。原因は過労と自律神経の不調、それに伴う慢性的な微熱と関節の痛み。

命に別状はないものの、一度崩れた体調は元には戻らず、調子の良い日と悪い日を不規則に繰り返している。








 台所に立ち、冷蔵庫から豆腐と長ねぎを取り出す。手慣れた手つきで鍋に水を張り、昆布で出汁をとる。





 トントン、トントン。




 まな板の上で包丁が刻む規則的な音が、静まり返った台所に響く。味噌汁の湯気が立ち上り、出汁の甘い香りが部屋を満たしていく。

続いて卵焼き器を温め、溶き卵を流し込む。菜箸で素早く巻き上げ、綺麗な黄色い四角形を作り上げた。





「優月、いつもごめんね……。本当に助かるわ」



 ソファからゆっくりと体を起こした母が、申し訳なさそうに、けれど心から感謝しているといった風に微笑んだ。







「ううん。料理、私好きなんだよ。自分の好きな味が作れるし」


「でも、部活もあるのに。私がお母さんなのに、何もしてあげられなくて……」


「もう、そんなこと言わないでよ。ほら、出来たから温かいうちに食べて」


 お盆の上に、ご飯と味噌汁、卵焼き、ほうれん草のおひたしを並べて運ぶ。母は箸を取り、味噌汁を一口啜ると、「美味しい」と目を細めた。




 その顔を見た瞬間、優月の胸の奥で、小さな安堵の芽が顔を出した。これでいい。お母さんが喜んでくれた。私は役に立っている。私の存在は、この家において正解だ。









 ——けれど。










 お盆を下げ、自分の分の朝食を一人で口に運んでいる最中、優月の指先がふと止まった。





 一口噛み締めるたびに、味覚とは別の冷たい感覚が喉の奥を滑り落ちていく。








(私、なんでこれを作ってるんだっけ……?)







 お母さんが可哀想だから? 



娘として当たり前のことだから? 





それとも、「親思いの良い娘」でいることで、自分の居場所を必死に守ろうとしているだけ?






 一度浮かんだ疑問は、水滴が紙に染み込むように、じんわりと胸全体に広がっていく。


母の「ありがとう」という言葉は、温かいはずなのに、時々ひどく重い鎖のように優月の首元に巻きついた。


感謝されるたびに、優月は「優しくて出来た娘」という役割から降りられなくなる。






「ごちそうさまでした。行ってくるね」




「行ってらっしゃい。気をつけてね、優月」



 エプロンを畳み、重いリュックサックを肩にかけた。玄関のドアを開けると、冷たい秋の風が優月の頬を撫でて通り抜けていった。


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